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自立できるかどうかの大切な時期
小学校までお利口だった子ども達が中学校になると急に感情を表さなくなってしまいます。わかっているのかわかっていないのか返事もしません。中学校の先生は生徒に諭しても空回りするので次第に注意する声が大きくなっていきます。注意すればするほど逆効果になり、生徒から無視されます。どうやってこの時期の関係を築けばいいのか?悩ましいところです。
では、そんな生徒は中学生になっていきなり無感動、無愛想で挨拶もしない失礼な人になったのでしょうか?いえいえ、そうではありません。むしろ今まで何を言っても聞いてもらえず諦めの境地なのかもしれません。
又、思春期になり、自我が目覚めて考えたり迷ったりすることが増えても自分の気持ちを整理して伝えるのは難しいし、性エネルギーが引き起こす激動の変化に自分自身が一番戸惑っているのかもしれません。多感で誤解されやすい時期なのです。でも、これからの自分の人生にとって、自立できるかどうかの大切な時期でもあります。
私が教育委員長だった頃、学校教育に子育ての視点を入れたくて悩み、模索しました。会議で乳幼児期からの一貫した子どもの育ち支援の観点を取り入れて教育施策を作る提案などもしてきましたが、ほとんどが実現しませんでした。
教育委員長という肩書はあっても元はただの専業主婦。男社会の大きな組織の中で発言を期待されてもいませんでしたし、子どもの育ちの現場にいる母親感覚で発言しても教育指導という立場の教育界との意識の差は大きく理解してもらえませんでした。先生自身も現場の子どもの姿より国で決められた指導要領に従わなければいけません。
私に与えられた役割は用意された代表挨拶の原稿を読むお飾りに過ぎないと痛感しました。それでも自分で作った原稿を読み、意見を言い続けました。おしかりもいただきましたが現場の教師や保護者からは感動したという声も届きました。
中学校で子育て広場を開く
そんな時、県の教育センターで社会教育を学んできた先生が中学校の教頭先生になりました。そして「うちの中学校で子育て関係の事業ができないでしょうか?」と相談に来られました。
一回きりの中学生と赤ちゃんの交流会のようなものを考えていらっしゃったのかもしれませんが、私は中学校で毎月1回継続して子育て広場を開かせてもらえませんか?と提案しました。
子育て広場は、家庭科の授業である保育園訪問と違って普通の親子の様子がわかります。親が我が子を抱っこしたりお世話をしたり、子どもが甘えたりする姿を見て自分がどんな風に育ててもらったのかに思いを馳せることができるし、毎月会うことで子どもの成長もわかります。何より自分が子どもを持った時のモデルになるのです。
当時、こんな形で学校に広場を作っているところはありませんでした。本来学校は部外者に定期的に教室を貸すことはしませんが、この教頭先生の計らいと校長先生の理解でやってみましょうという事になりました。
やるには責任があります。さっそく子育て広場の仲間と協議しました。メンバーの賛同は得られましたが、子育て広場の事業にするには難しい問題があります。市の委託を受けて開催している子育て広場は年間の事業と予算が決まっています。来年度から新たにこの事業をしますと言っても簡単には通りません。予算を付けるには必要性と目的、その効果を示して査定されます。赤字続きの市の財政ではまず無理です。それも年度途中からなどありえません。
でも、学校が「いいですよ」と言ってくれたらすぐに動かなければ、来年度校長先生や教頭先生が変わって取り消しになるかもしれません。このタイミングを逃さないために、私はまず「やります。12月から」と返事しました。話が来たのは10月でしたが、その時点で私の意識は「やる!」と確信していました。
そしてもう1つ大事にしたことは学校の事業にしないという事です。もともと学校はやることが多すぎて先生も疲弊しています。教育委員会から指導が来たらふれあい事業などは一番にカットされます。学校に負担をかけず質のよい広場を維持するには独立している必要があるのです。
後は私達が知恵を絞るだけです。
子育て広場のスタッフは13年前、自分たちで公民館を借りながら子育て広場を始めた仲間です。当初から市と独立した支援グループを作っていました。今回も私達の支援グループ独自の中学校広場事業として始める事にしました。助成金もありません。家にあるおもちゃを持ち込み、スタッフはボランティアです。
そもそも、子育てなどの専門分野は異動がある事務職専門の市の職員よりも私達の方が現場を知っています。必要に応じて勉強もしてきました。資金さえあれば私達だけでやることもできるのですが市の子育て支援事業にしてしまった方が全ての家庭に届くのです。そのためにはでも、市を動かさなければいけません。
でも、残念ながら私達が危機感を感じて市に伝えても全く動きません。だからいつも私達が先に走り出すのです。そして、現場で支援をしながら、その必要性を市に話し続けます。目に見える効果を示して市の事業にしてきました。ママ達からの感謝の声も後押しになりました。
市に一目置かれるようにもなりましたが、一方で「お手柔らかに!」と言われたりします。担当職員が変わるたびに振り出しに戻ったり、追い風になったり緊張しますが、市の職員との関係も大事にしています。どちらかが勝ち取るという事ではなく「同じ方向を見て協働しましょう」というスタンスです。お互いの役割分担があると思っています。
子育て広場がいよいよスタート
さて、スタートしようとしたらもう一つ問題が出てきました。広場も忙しくて人手が足りないのです。だから当面は私と新たにスカウトしたママ2人の3人体制で始める事にしました。おもちゃや絵本は広場から借りたり、我が家から持って行きました。私の車は移動式のおもちゃ屋さんのようです。
参加するママ達には子育て広場で「赤ちゃん登校日」というチラシを作って呼びかけました。「この日は赤ちゃんと中学生が遊ぶ日です。ママも中学生に抱っこの仕方を教えたり、子育ての話をしてあげてください」と頼みました。
朝10時半から15時まで。1時間前に行き、教室の机を片付けて掃除して畳やマットを敷いておもちゃを並べます。重労働です。畳は賛同してくれた畳屋さんが寄付してくれました。マットは学校が買ってくれました。おもちゃ棚やテーブルは夫が大工仕事で作りました。その道具を毎回運ぶのは無理です。学校に相談したら隅に置いていいよとのこと。とても助かりました。
午前中はベビーマッサージやわらべ歌をします。絵本も紹介します。ママの優しい手、楽しい歌とお話で、まったりいい気持ちです。そしてみんなでお弁当を食べて和んでいたら昼休みに中学生がやってくるという流れです。
終わったら教室を元の通りにします。いつの間にかママ達が手伝ってくれるようになりました。先生も時間があったら手伝ってくださいます。
隣は図書室とトイレ。そのフロアには教室がないので廊下でも遊べます。風が強い日はスカーフを窓辺に飾って風を感じます。トンネルを廊下に置いて遊んでいたら通りがかりのお姉ちゃん達が駆け寄ってきます。そして南側は中庭に面しています。時々そこでシャボン玉で遊んだり虫取りをします。
なぜか学校のあちらこちらで小さい子ども達が遊んでいる‥という風景。
何だか、すべてが自然に混在していていいなあ~と思います。
気が付いたら私が教育委員会で言いたかったことの1つがここで花開き始めていました。
それにしても、私はいつも子育ての事で頭がいっぱい。先が見えなくても、落ち込んでもやってしまう自分が居ます。つくづく変わっているなあ~と思います。そんな自分に「その行動は本当にやりたいことか?」「その本意は愛からきているのか?」と問い続けてきましたが、悩んだり揺れる自分もいました。
今回、はからずも中村哲さんの訃報に接し、深い深い悲しみと共に、そんな私への声なきメッセージを頂いたと思いました。「何かを達成するのが目的ではなく、誰かと戦うのでもなく、今ここにいる生身の子ども達の声なき声に耳を傾け、ママの苦悩に寄り添い、励ましながら、私自身はただ自分の良心を指針として、目の前のことに信念をもってやり続けるだけでいいのだ」と。
中村哲さんの、それをやり続けた存在の大きさに震えています。合掌。
中村哲さんが、2008年に同じように現地でペシャワール会のメンバーとして働いていた伊藤和也さんが撃たれて亡くなったときに語った言葉。
— 古田大輔 (@masurakusuo) December 4, 2019
「憤りと悲しみを友好と平和への意志に変え、今後も力を尽くすことを誓う」 pic.twitter.com/QuU4JCuGnc
続く
出典表記のない写真は、かんなまま提供
10年前、中学校に子育て広場を作ってから毎回聞こえてくる言葉です。中学生と赤ちゃん1対1の点と点を繋ぐことしかできませんが、どんな教科書よりも確実にお互いの命が交流し合っています。そして、私はその声を聴きながら「ああ、この広場を作ってよかった!」「続けてきてよかった」と思うのです。