ユダヤ問題のポイント(日本 昭和編) ― 第19話 ― 戦犯の皇族たち

 いわゆる大東亜戦争、この戦争で大掛かりな略奪と虐殺行為、また強姦もありました。ありのままに裁かれるべき人物たちがいます。しかし、この戦争での真犯人たちが裁かれるどころか、完全に世間から秘匿されているのです。
 シリーズのテーマからは少し外れるので、南京大虐殺について資料を読むことはあまりなかったのですが、今回、松井石根という人物に目を引かれました。
 松井石根は南京大虐殺の責任者として東京裁判で処刑されるのですが、彼のウィキペディア記事で出ている東京裁判時の写真が、諦念しているのか非常に穏やかで印象に残ったのでした。
 確かに南京攻略戦での総司令官が松井石根であり、その南京戦で大虐殺と掠奪、そして強姦があったのは事実です。しかし、松井石根はそのような違法行為がないよう将兵に命じていたのが、いわば「裏切られた」のです。
 それでも松井は南京での部下たちの不法行為に対し「自分の責任を回避しない」と、自らの処刑を受け入れ、次の言葉を残してます。
「私だけでも、こういう結果になるということは、当時の軍人たちに一人でも多く、深い反省をあたえるという意味で大変に嬉しい。せっかくこうなったのだから、このまま往生したい。」
 南京戦後、松井は軍服を脱ぎ、日本と中国の戦死者たちを慰霊する毎日を送るのですが、この松井を裏切った上に処刑を身代わりにさせた人物がいます。虐殺と掠奪を命じた皇族たちがいました。
(seiryuu)
————————————————————————
ユダヤ問題のポイント(日本 昭和編) ― 第19話 ― 戦犯の皇族たち


関東軍宮田参謀と731部隊


731部隊の振る舞いが秘された理由はその残虐非道さにありますが、皇族が絡んでいたことも大きかったと考えられます。

731部隊に三笠宮と思われる人物が同席している集合写真がありました。風貌から見て20歳時の三笠宮であると思われます。ただし、この写真で三笠宮が731部隊に深く関与しているということではないです。


写真では特別な椅子に三笠宮と思える若い人物が最前列中央に座していることから見て、宮様が731部隊を訪問したので“お客様”として扱い写真に収まった、というものでしょう。お客様の若い三笠宮が731部隊の行状に関与したとは思えません。

しかし、昭和天皇の従兄弟である竹田宮恒徳は違います。

衣冠姿の竹田宮恒徳
Wikimedia_Commons [Public Domain]

戦後は皇籍離脱し、1962(昭和37)年に日本オリンピック委員会の委員長に任命された竹田宮は、戦時中は731部隊に非常に深く関与しています。「731部隊 竹田宮」や「731部隊 宮田参謀」で検索すればたくさんの情報が出てきます。宮田参謀とは竹田宮恒徳が戦時中に使っていた名前です。

そのネットに多くある情報の一つに、「731からフクシマまで!!」のサイトにて「『死の工場(隠蔽された731部隊)』(シェルダン・H・ハリス著:近藤昭二訳)より」として次のようなものがあります。

竹田宮は、他にもっと直接的なつながりを、細菌兵器施設との間に持っていた。彼は、関東軍司令部によって設置された、731部隊と100部隊の事業の監督をするための特別委員会の幕僚メンバーだった。彼の幕僚メンバーとしての最も重要な責務は、平房や他の支部施設を訪問する許可を与えるかどうかを決定することであった。関東軍における医療行政官のチーフのように権力のある個人すら、平房〔の施設〕に立ち入る際には竹田宮・宮田が発行した通行証を求める必要があった。関東軍司令官もしくはその直属の部下が731部隊を訪れるときは、竹田宮自身が彼らの一行に混じって彼らをエスコートした。

こういった情報の真偽ですが、ウィキペディアの竹田宮恒徳の記事には次のようにあります。

太平洋戦争(大東亜戦争)には大本営参謀として、フィリピン攻略戦、ガダルカナルの戦いに参画する。参謀としての秘匿名は「宮田参謀」であった。しばしば前線視察を希望し、危険が多いラバウル視察を強行するなど、周囲をはらはらさせていた。1943年(昭和18年)3月、陸軍中佐に昇進、8月に関東軍参謀に転出した。新京では満州国皇帝溥儀と交流を持ち、親しくしていたという。1945年(昭和20年)7月、第1総軍参謀として内地へ戻り、間もなく終戦を迎えた。

少なくとも竹田宮は、満洲で関東軍の参謀という要職にあったのです。当然ながら、同じ関東軍の731部隊とは共働していたのは間違いないのです。しかも、竹田宮は敗戦(ソ連参戦)を予め知らされていたのでしょう。敗戦直前に満洲から内地に戻っています。悲惨な目にあった満蒙開拓移民とは雲泥の差です。

皇族は民衆とは隔絶された特別な地位にあります。その皇族の中で戦時中には虐殺、そして黄金を主とする財宝の略奪を指揮したものがいます。


財宝略奪「金の百合」プロジェクト開始


竹下さんの記事の中で紹介されていた「精算されていない日本の過去(1/2)」という題の櫻井ジャーナル 18/12/3記事、その中の下の記述は簡潔ながら非常に重要です。

日本軍は東アジアの占領地で財宝を組織的に略奪している。「金の百合」だ。
(中略)
プロジェクトが始まるのは日本軍が南京を攻略した1937年。政府が保有する資産を奪うだけでなく、銀行や裕福な家に押し入って金や宝石などを略奪したという。
(中略)
 南京攻略は形式上、松井石根が最高指揮官なのだが、実際は朝香宮鳩彦、昭和天皇(裕仁)の叔父にあたる人物だったと言われている。
 スターリング・シーグレーブとペギー・シーグレーブによると、「金の百合」を指揮していたのは天皇の弟である秩父宮雍仁で、その補佐をしていたのが天皇の従兄弟にあたる竹田宮恒徳だという。秩父宮は駐日アメリカ大使だったジョセフ・グルーと親しい。

この短い記述の中に、以下の柱となるものが示されています。

日本軍による東アジアでの財宝略奪(金の百合)プロジェクトは1937年の南京攻略から開始された。
②南京攻略(つまり南京大虐殺と略奪の真の犯人は軍の最高指揮官の松井石根ではなく朝香宮鳩彦。
財宝略奪(金の百合)の主導者が秩父宮雍仁。その補佐が竹田宮恒徳。
④秩父宮と駐日アメリカ大使だったジョセフ・グルーは懇意。

朝香宮鳩彦
Wikimedia Commons
[Public Domain]
秩父宮雍仁
Wikimedia Commons
[Public Domain]
竹田宮恒徳
Wikimedia Commons
[Public Domain]

ここに名前があがっている3名の皇族、即ち昭和天皇の叔父で南京事件の主犯と指摘される朝香宮鳩彦、昭和天皇の弟で財宝略奪「金の百合」プロジェクトのリーダーとされる秩父宮雍仁、731部隊と深く関与し「金の百合」では秩父宮を補佐したとされる竹田宮恒徳、この三者は共に裏天皇に仕えていたと竹下さんが既に明かされています。

つまり、中国大陸における略奪行為、そして何よりも惨殺残虐行為は、裏天皇グループの主導によって行われたということになります。南京事件にて大変な虐殺があったこと、中国大陸などで「金の百合」と称される財宝の略奪が日本軍によってなされたことは、否定のできない事実です。このことは時事ブログの中で種々指摘されてきています。

南京事件に関しては責任者や主導者という言い方ではなく「犯人」とあえて記しました。南京大虐殺の「犯人」として、東京裁判で松井石根大将が処刑されているのです。ところが、この処刑は、明らかに朝香宮鳩彦の「身代わり」としてのものだと見て取れるからでした。

東京裁判で処刑された松井石根陸軍大将
Wikimedia Commons [Public Domain]


南京大虐殺の実行者


1937年7月、日中戦争の始まりとなる盧溝橋事件が勃発。この状況で中支那方面軍が組織され、同年12月に南京攻略戦を担うことになります。その総司令官には松井石根が着任。

しかし、彼のウィキペディア記事では、松井石根は「南京攻略戦たけなわの12月5日から15日まで蘇州の司令部に病臥、滞留していたとあります。彼は、現場では南京における大虐殺と略奪や強姦に一切無関係で、当然このような不法行為を将兵に命じてもいません。

逆に、実際の南京城内の掃討戦が始まる直前の12月7日、松井は「南京城攻略要領」を示達し、兵士による掠奪などの不法行為が決してないよう命じています。しかし、南京では大虐殺と掠奪は起きました。

それでは、松井が不在の現場での責任者は誰か?

中支那方面軍戦闘序列を見ていくと、軍における序列は上海派遣軍、 第10軍、 第3飛行団……と続きます。松井不在での軍の序列一位は上海派遣軍の司令官、つまり、朝香宮鳩彦中将となります。

松井不在で指揮権を握っていたのは朝香宮であり、南京攻略戦で軍に不法行為があったならば、少なくともその責任は朝香宮にあるのは当然です。また、現場で各軍隊での将兵が不法行為を起こしたならばその軍紀、風紀の直接責任者は各師団長です。

現場はどうであったのか?

松井が南京城に入城したのは12月17日、翌日は慰霊祭で、不法行為があったとの報告を受けていた松井は、これについて慰霊祭の場にて朝香宮などを前にして嘆き叱責します。この件については松井の生涯の心の重荷になっていたのでしょう。松井は処刑前にその時のことを次のように語ったと記録されています。

東京裁判の議事を聞く松井石根
Wikimedia Commons
[Public Domain]

慰霊祭の直後、私は皆を集めて軍総司令官として泣いて怒った。その時は朝香宮もおられ、柳川中将も方面軍司令官だったが。折角皇威を輝かしたのに、あの兵の暴行によって一挙にしてそれを落してしまった、と。ところが、このことのあとで、みなが笑った。甚だしいのは、或る師団長の如きは「当り前ですよ」とさえいった。

総司令官の叱責を笑い、兵士の不法行為を「当り前ですよ」とした師団長とは誰か?

南京事件-日中戦争 小さな資料集 ゆうのページ』などを見ていくとそれは朝香宮司令官の上海派遣軍の師団長である中島今朝吾で間違いないでしょう。

中島今朝吾師団長
Wikimedia Commons
[Public Domain]

彼のウィキペディア記事には次のようにもあります。

第16師団長として南京攻略戦に参加した時の日記には、本攻略戦において捕虜を取らない方針であること、捕虜を日本刀の試し斬りに使ったこと、捕虜を一ヶ所にまとめて「処理する予定」「そのためには大きな濠を要する」との記述がある。エスカレートしていた南京での掠奪に、師団長であった中島自身も加わり、...(以下略)

中島今朝吾の日記が、師団長である自身の南京での虐殺と掠奪を明らかにしてもいます。

ただし、一点気をつけるべきは、上の記述の「本攻略戦において捕虜を取らない方針である」、つまり降伏兵は殺害するとの方針を示したのは中島の上司の朝香宮であったということです。また朝香宮と中島今朝吾、彼らは欧州滞在時からの関わりと見えます。


Writer

seiryuu様プロフィール

seiryuu

・兵庫県出身在住
・いちおう浄土真宗の住職
・体癖はたぶん7-2。(自分の体癖判定が最も難しかった。)
・基本、暇人。(したくないことはしない。)
・特徴、酒飲み。アルコールには強い。
・歯が32本全て生えそろっている(親不知全て)原始人並み。

これまでのseiryuu氏の寄稿記事はこちら


Comments are closed.