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ユダヤ問題のポイント(日本 昭和編) ― 第22話 ― 変化しない体質
エリートのもみ消し体質
2.26事件、昭和恐慌という日本の特に農村部の大苦境が背景にあって決起した皇道派青年将校たち、叛乱軍となってしまった彼らたちですが、軍部には彼らに呼応しようとしていた多くの者たちも存在し、叛乱将校の取扱いに軍部は苦慮し揺れていました。軍部は叛乱将校たちに対しては当然といえば当然ですが同情的だったのです。
85年前の今日。1936年2月26日,「2.26事件」で決起した直後,半蔵門を占拠する反乱部隊。白黒写真のニューラルネットワークによる自動色付け+手動補正。 pic.twitter.com/YUA4RYz9nC
— 渡邉英徳💉 (@hwtnv) February 25, 2021
しかし、そのような軍部にあって全く毛色の変わった者もいました。朝香宮鳩彦麾下の上海派遣軍の軍団長として南京事件の実行部隊のあの中島今朝吾です。2.26事件当時、すでに中島今朝吾は陸軍習志野学校の校長でした。「1933年 永田鉄山と小泉軍医学校校長は、毒ガスを習志野学校で、細菌戦は731部隊で行うことを決定。」を受けて、毒ガス兵器の習志野学校校長となっていたのでした。
中島今朝吾
中島今朝吾は、叛乱軍となった青年将校たちに対しての直ちに化学兵器を用いた鎮圧を提唱します。有り体に言えば、中島今朝吾は叛乱将校たちを毒ガス兵器の生体実験の対象に、化学兵器による鎮圧と言うよりは毒ガス兵器による殲滅という言い方のほうが正確になるでしょう、これを提唱したのでした。
同じ日本陸軍の仲間だったはずの青年将校たちを、毒ガス兵器による実験と殺害の対象とするのです。このあたりのメンタリティはまさしく「731の遺伝子」そのものです。事実としてウィキペディアの中島今朝吾の記事には以下があります。
1936年(昭和11年)2月26日、東京で皇道派の青年将校らによってクーデターが起こされた(二・二六事件)。一貫性のない陸軍中央の動きとは違い、早くから反乱軍鎮圧を口にしていた今朝吾であったが、2月28日になり、催涙弾、くしゃみ弾を携行して東京に出撃するようにとの命令が下り、出発する。
青年将校たちが投降したため、結局は化学兵器の使用はされませんでしたが……。
また、ウィキペディアの記事のこの部分の前の記述も注目に値します。こうあります。
1933年(昭和8年)8月1日、陸軍習志野学校初代校長を命じられる. 1934年(昭和9年)5月18日、群馬県群馬郡桃井村(現・榛東村)の相馬原で陸軍習志野学校幹事である今村均大佐の計画・実施で日本初の毒ガスを用いた演習を行った。だが不備が生じ、誤って毒を吸った者が続出して上等兵が亡くなった。これにより、真崎甚三郎教育総監は今村を退役処分にするつもりであったが、今朝吾が真崎教育総監の他、林銑十郎陸軍大臣と参謀総長閑院宮載仁親王に直訴し、身を挺して今村を守ったため、今村は不問に付された。
今朝吾が「身を挺して今村を守ったため、今村は不問に付された。」、こう言えば聞こえはいいです。しかし……実態は「もみ消し」です。
今村均
毒ガス兵器の演習によって自軍の兵たちに被害が広がり死者まで出た。これは自軍の兵士を毒ガス兵器の実験台にしたということではないでしょうか? その結果死者まで出た、これは担当者が責任を取らなければいけないのは当然です。しかし、それが不問に、誰も責任を取らない、大変な「生体実験、もみ消し事件」でもあるはずなのです。
そして、この隠蔽と無責任体質は現在日本まで継続しています。日本のエリートたちも自軍の兵士や自国民をゴイム扱いしているのです。
治外法権の軍の頂点
先の「生体実験、もみ消し事件」で他に気になるのが、中島今朝吾が「参謀総長閑院宮載仁親王に直訴」、ここです。参謀総長閑院宮載仁親王、言うまでもなく宮様であり陸軍の頂点です。中島今朝吾が「直訴」できたのは、閑院宮載仁と太いパイプが繫がっていたからでしょう。
閑院宮載仁
中島今朝吾はフランスに留学しており、後輩としてフランス留学し、交通事故死した北白川宮成久王、同様にフランスに留学した東久邇宮稔彦王、朝香宮鳩彦王、彼らと繫がっていたはずです。そして、閑院宮載仁も中島今朝吾らの大先輩としてフランス留学していたのです。
こういう関係で中島今朝吾は皇族たちと繋がっていて、彼らは軍部の超エリートだったでしょう。一般軍人とは完全に一線を画していたのです。
さて、「生体実験、もみ消し事件」で大きな役割を果たした閑院宮載仁、彼は1865年誕生で1945(昭和20)年5月20日に病死。 1931(昭和6)年12月23日~1940(昭和15)年10月3日の長期に渡って参謀総長、つまり公的に陸軍の頂点に座していました。閑院宮が参謀総長に就任したのは、彼を操りやすいとした皇道派荒木貞夫陸軍大臣の差金によるとの情報があります。しかし、閑院宮元帥は皇道派の真崎教育総監更迭に動き、荒木貞夫の期待を裏切ったとされます。
1933年、タイム誌の表紙を飾った荒木貞夫
Wikimedia Commons [Public Domain]
荒木貞夫は第9話で見ていますが、落合莞爾氏によれば、上原勇作の跡を引き継いだ國體参謀総長とのことでした。裏天皇派ということです。
閑院宮元帥が裏天皇グループに属していたか、また陸軍頂点と言っても「お飾り」のであったのかは不明です。しかし大事なのは、どうであれ日中戦争、日米開戦と突き進んでいく日本、その陸軍の頂点にいたのが閑院宮元帥だということです。公的な事実です。
一方、海軍の頂点に座していたのは伏見宮博恭王(1875年(明治8年)~1946年(昭和21年)8月16日)です。伏見宮博恭王は1932年から41年4月まで軍令部総長を務め、海軍の頂点としワンマンに海軍を支配していたとされます。伏見宮元帥が日米開戦を強硬に主張していた言動も記録されています。
伏見宮博恭
戦争責任、昭和天皇の戦争責任が問われることはよくあります。しかし、裏天皇の堀川辰吉郎の戦争責任など一切問われることはありません。同様に公的事実として日中戦争から日米開戦に突き進んだ陸軍、海軍の頂点に座していた閑院宮と伏見宮の両元帥に対して、戦争責任を問うような言説は聞かれません。
昭和天皇の生年は1901年、閑院宮の生年は1865年、伏見宮は 1875年生まれ、閑院宮と伏見宮は軍部の頂点だけでなく、年齢の上からも国家の上部機関で中枢機関でもあった枢密院、そして皇族会議での長老格の重鎮でもあったのに間違いないのです。
彼らは戦争だけでなく「金の百合」に関わっていないはずはないのです。しかし彼らは治外法権の位置にあったのです。
開拓移民の惨劇
流れとしては、関東大震災でのニューヨークの国際金融資本への借財、そしてニューヨーク発の世界大恐慌が日本を襲い、昭和恐慌での大苦境となりました。日本の戦争の背景にあったものです。
この意図的に作られた恐慌は、別の悲劇も産んでいます。満蒙開拓移民です。1931年に本格化したとされる満蒙開拓移民は有り体に言えば、日本農村部の「口減らし」と対ソ防御壁としての利用目的の大国策の移民です。
満洲の地元民の農地を奪って移民が進められ、現地ではトラブル続きでした。そして日本の敗戦時は、満蒙開拓移民の実態は悲惨凄惨を極めました。ウィキペディアの「満蒙開拓移民」記事の「開拓団の引き揚げ」欄には以下にある通りです。
青少年義勇軍を含む満州開拓移民の総数は27万人とも、32万人ともされる。ソ連の参戦でほとんどが国境地帯に取り残され、日本に帰国できたのは11万人あまりだった。各地の開拓移民団は引き揚げの途中で多くの死者、行方不明者、収容所での感染症による病死者を出し、無事に帰国できた開拓団はなかった。また、国境を越えてきたソ連兵に捕らえられシベリアへ送られた男子入植者は、シベリア抑留者となり帰国は更に困難を極めた。
敗戦直前、開拓団の青年・壮年男子はことごとく徴兵され、開拓団移民のほとんどは老人・婦女子・子供たち、彼らにソ連兵、そして恨みを抱く地元民が襲いかかります。関東軍に、日本政府に開拓移民たちは見捨てられており、容赦なく強姦と殺害の対象となり、自殺に追い込まれる人々も多数でした。悲惨な形で現地で命を落とした日本の人々は20万人以上。国策として利用した挙げ句、捨て駒にされた一般民衆です。人間扱いではなくゴイムとして扱われていたのは明白でしょう。
公文書クライシス:14道府県、資料廃棄・不明 満蒙悲史、残されず 8万人犠牲「自刃玉砕」記述の文書も https://t.co/xVKF4DANMR
— 毎日新聞 (@mainichi) August 25, 2018
しかも、開拓移民の苦痛は日本に帰国後も続きます。ウィキペディア記事はつぎのように続けています。
敗戦後の日本の混乱により、開拓移民団を中心とした大陸から帰国した「引揚者」は帰国後の居住のあてもなく、戦後も苦難の生活を余儀なくされた。政府は、彼らに移住用の土地を日本の各地に割り当てることにしたが、非耕作地が多く開墾の必要な土地であった。いずれの土地も荒れ、耕作には適さず、多くの人々は過酷な状況にさらされた。
太平洋戦争の日本も同じだったということです。日本の兵隊はその殆どが徴兵された一般民衆です。