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ユダヤ問題のポイント(日本 昭和編) ― 第21話 ― 幻想の不協和音
三笠宮も裏天皇に仕えていた?
前回、『★阿修羅♪掲示板』からの情報で、「金(黄金)の百合」作戦で戦局の最終盤に略奪された莫大な財宝が、フイリピン山中に「山下将軍の財宝」として埋蔵され、その隠匿工作をした人々が生き埋めにされたことを見ました。
この情報源は、『櫻井ジャーナル』でも指摘されているスターリング・シーグレーブとペギー・シーグレーブ夫妻の著書のようです。
いくつかのブログでシーグレーブ夫妻の著書を翻訳した記事が掲載されていますが、その一つ『マヨの備忘録・・・マヨのぼやきから』2007-06-05記事の中で以下のような記述があります。
ベンは竹田宮、そして裕仁の兄弟である秩父宮、三笠宮、そして南京虐殺において日本軍の指揮をとった年長者、朝香宮を指さした。ベンは彼らが在庫を調べ財宝基地に収納する間、ともに過ごし食事を運びお茶やタバコをもっていったと話した。
ここで竹田宮たち皇族を指さしたベンとは、竹田恒泰親王の従者として財宝隠匿に従事したフィリピンの若者ベン・バルモアで、彼は財宝隠匿関係者たちの中での生き残りの人物である旨が記されてあります。
このベンが指さした皇族、つまり竹田宮、秩父宮、朝香宮は裏天皇の部下であったことは既に見ていますが、ここに加えて三笠宮の名前も出ています。
『夢幻と湧源』サイトの2009年6月2日記事には、キムスこと竹田宮、秩父宮雍人陸軍少将、三笠宮崇仁陸軍参謀、朝香宮鳩彦陸軍中佐、「これらの皇族たちは、1943年にマニラで開かれた会議の参加者だった。」とあります。
こういった情報から、三笠宮も裏天皇側に所属していた可能性があります。三笠宮は南京事件や731部隊の振る舞いを批判していた人物で、その意味で三笠宮が裏天皇側に属していたとすれば意外ではあるのですが……。
【逝去した三笠宮が語っていた歴史修正主義批判❗️日本軍の南京での行為を「虐殺以外の何物でもない」】昭和天皇の末弟で、今上天皇の叔父にあたる三笠宮崇仁親王は、この時代を支配している右傾化に対して、早くから警鐘を鳴らしてきた。https://t.co/rLKvLJS15n
— やのっち(。・ɜ・)d (@_yanocchi0519) October 30, 2016
また、現在は表示されていませんが2015/11/15竹下さんの記事で紹介されてあった記事の中に次の記述がありました。
2.26事件は後述するとして、三笠宮が策を練ったとされる「8.15宮城事件」について。これはごく簡単には、終戦に反対する将校が宮城(皇城)を占拠し「玉音放送」を阻止しようとしたが、逆に鎮圧された事件です。
昭和天皇の意志に反し皇城を占拠した将校たちは、普通に見れば裏天皇側の者でしょう。そしてその叛乱将校を鎮圧、指揮の功労者が田中静壱司令官でした。
陸軍中将時代の田中静壱
Wikimedia Commons [Public Domain]
ところが、この田中静壱こそが、フィリピンで山下将軍の前に第14軍を天皇に親任され、率いていた司令官です。つまり、田中静壱は「金の百合」の実働部隊の司令官で、裏天皇の部下なのです。
フィリピン担当の第14軍の司令官だった田中静壱は生長の家の信者、彼の副官は創価学会顧問に https://t.co/KkBaVbwK9p #r_blog #日本会議, #谷口雅春, #生長の家, #大本教, #紅卍字会, #田中静壱, #塚本素山
— 櫻井春彦 (@Sakurai_Journal) July 25, 2016
鬼塚氏によれば、三笠宮が練ったとされる「8.15宮城事件」とは、裏天皇の部下がクーデターを謀り、それを同じ裏天皇の部下が鎮圧した構図になります。これだと確かにヤラセです。
一口に裏天皇側といっても、その中には派閥とその争いもあったであろうし、個々人の考え方の相違もあったであろうことは間違いないでしょう。また、その彼らの為した作業の中には、見せかけのヤラセ工作もあったでしょう。
問題はヤラセにしてもその目的なのですが…、残念ながら現在は不明です。
2.26事件で青年将校が掲げたもの
三笠宮に関しては、これも不明ながら「金の百合」をめぐり「皇室内に高松宮派と、国際金融勢力に担がれた三笠宮派の深刻な対立が続いた。」との情報もあります。
北朝勢力と南朝勢力の争いがあり、皇族・兄弟間でも対立があったのは確かです。それも天皇の地位を巡った血みどろの争いがあったのは「歴史の襞の中から」で見てきた通りです。
鬼塚氏が、秩父宮が策を練ったとする2.26事件も同種の事件で、天皇の座をめぐるクーデター事件のはずです。昭和天皇を廃位させ、軍部に人気の高かった秩父宮を天皇に即位させる計画は確かに存在していて、その計画を実現するために青年将校たちを決起させ、陸軍だけでなく海軍も巻き込む軍事クーデターの昭和維新の謀略です。
秩父宮雍仁(1952年)
Wikimedia Commons [Public Domain]
昭和天皇が暴力テロ暗殺の対象となり、裏天皇グループから廃位の計画があったのは第9話で見た通りです。
第10話で見たように、2.26事件の背景にあったのは、1929年のニューヨーク発の世界大恐慌の大波が日本を襲い、特に農村は若い娘の身売りでやっと糊口を凌ぐような恐慌による不況、軍部の中にもやりきれない怒りのエネルギーがマグマが沸騰するがごとくに溜まっていたことがあります。
この怒りのエネルギーで青年将校を決起させ、昭和維新を成立させようとのものです。
2.26事件と秩父宮ですが、2.26事件反乱軍の主力とされる部隊が秩父宮が在籍していた歩兵第三連隊です。当然、秩父宮と反乱青年将校とはなじみが深く、2.26事件の裏に秩父宮がいたとの鬼塚氏の指摘は、事実として無理がないものです。
昭和天皇はめったに感情を露わにすることのない人物でしたが、2.26事件発生に際しては激怒をし、決起した青年将校たちの鎮圧を命令しています。これは昭和天皇の行動として極めて異例なことだったのですが、昭和天皇が自分を廃位させる謀略の臭いを強く嗅ぎ取っていたと見れば、頷ける行動であるのです。
一方、叛乱軍となってしまった青年将校たちですが、彼らは皇道派と呼ばれ「君側の奸」を討ち「天皇による親政」を掲げて決起したのでした。
天皇の周辺の奸物たち、つまり当時の汚職事件が続発の政党、また不景気に巨大な資本を用いて肥え太る財閥。これら奸物を排除し、天皇が直接的に政を行えば、娘を身売りしなければ生活できないような日本の苦境が脱せる、このようなやむにやまれぬ思いが皇道派青年将校には大きかったでしょう。
しかし悲しいかな、当然ではありますが、青年将校たちには見えていないものが余りにも大きかったのです。
二・二六事件の叛乱軍将兵
Wikimedia Commons [Public Domain]
本当の「君側の奸」とは誰か?
『櫻井ジャーナル』2018/12/3「精算されていない日本の過去(2/2)」記事では、1923年の関東大震災の復興資金を調達したJPモルガンが既に日本に新自由主義化を求め、これが支配層はより裕福に、庶民は貧困化が進む要因にあったことを指摘しています。そして次のようにまとめています。
庶民を苦しめているグループを排除すれば天皇による「善政」で日本は良くなると彼らは考えたのだろうが、これは大きな間違いだった。天皇も仲間だったのである。そして決起した将校は切り捨てられて「悪役」にされた。この将校たちから見れば、拉致や奸計は勿論、貧困で身売りせざるを得ないような状況を作ること自体が犯罪的なのである。
「親政(善政)を行う天皇には秩父宮を」とも青年将校たちは思っていたかも知れません。しかし、秩父宮といおうか秩父宮が属していた裏天皇は、日本の金融経済苦境を作り出したJPモルガンなどのアメリカの国際金融資本とも通じていました。
グルーのいとこのジェーンが結婚した相手はジョン・ピアポント・モルガン・ジュニア、つまりJPモルガンの総帥。グルーの妻、アリスの曾祖父にあたるオリバー・ペリーは海軍の伝説的な軍人で、その弟は「黒船」で有名なマシュー・ペリーだ。
— toshi (@1zow) January 14, 2019
《櫻井ジャーナル》竹田恒和の父親は中国で組織的な財宝略奪を指揮した人物
また、秩父宮が指揮した「金の百合」で、裏天皇は莫大な財宝を収奪し肥え太るのです。更にはアヘンで肥え太るものたちも裏天皇の部下でした。つまりは、青年将校たちが討つべきとした「君側の奸」だったのです。
一方の昭和天皇も、日本の庶民を救うような「善政」が行えるはずもありませんでした。昭和天皇は英国女王のナイトであり、英国陸軍元帥だったのです。英米の司令を受ける立場にあったのです。このことも青年将校たちの預かり知らぬことでした。
改めて2014/12/25の竹下さんの記事を確認してみましょう。
私は、戦前の日本においては天皇は飾り物で、事実上日本を支配していたのはフリーメーソンだったと考えています。記事の中にジョセフ・グルーが出てきますが、彼こそ当時の日本の支配者で、今で言うジャパン・ハンドラーのマイケル・グリーンのような存在だったのではないかと見ています。事実上、彼を通して送られてくる命令に日本は従うよりなかったと思います。昭和天皇は、貞明皇后と西園寺八郎との子です。ゾルゲ事件で情報を流していた西園寺八郎の子・公一とは兄弟で、写真を見るとそっくりなのがよくわかると思います。要するに、日本の情報は敵方に筒抜けだったわけです。
日本は、内部では北朝と南朝の勢力のそれぞれの争いを始めとしたいくつもの内部対立の抗争を抱え、外部からは英米側からの干渉と指示を受ける状態にあったのです。この状態で1941年(昭和16年)12月8日、待ち構えられる中での真珠湾攻撃。日米開戦となります。日本の内部では幻想だけが独り歩きした中で……。
真珠湾攻撃後の航空写真
Wikimedia Commons [Public Domain]
昔、プロパガンダとは、敵側に敵国に向けて発せられるものと私は思っていました。……違っていました。
プロパガンダの標的は、先ずは味方のはずの自国民です。自国民を騙し、幻想を植え付けるのです。どうもこれは鉄則らしく、現在、日本でも自国民相手のプロパガンダが最大限に発動しているのは、私たちが日々経験している通りです。「敵を欺くには先ずは味方から」という諺があるにはありますが、少し意味が異なるような…。
その英領の帝国が、宗主国のはずの英国、そして米国を相手に戦争することになったとされます。無論、末端の現場レベルに近い程、本気で戦争に勝利しようとしたでしょう。しかしトップの方、とりわけ裏天皇は何を考えていたのやら…どうも理解不能の部分が残ります。
しかも、この帝国は内部に深刻な対立を抱えてもいました。戦争の始まる前からおびただしい数の一般民衆が犠牲になるのは必然でした。幻想の不協和音の中での戦争です。