ユダヤ問題のポイント(日本 昭和編) ― 第48話 ― スターリンの死

 1945年、第2次世界大戦は英・米・露・仏・中国等の連合国側の勝利で終了。しかし、その後早々に連合国側の中で対立闘争が起きます。1947年には米ソ冷戦・東西対立が始まったとされます。また、中国内では国民党と共産党の内戦が続き、共産党が勝利し1949年に共産中国が成立し、東西対立の東側に位置するようになります。このように地上世界は、米ソ冷戦・東西対立の構図で彩られていきます。実際に米ソは核開発・宇宙開発を巡って鎬を削る争いを演じてもいました。そのような中、1953年に米ソ冷戦の一方の雄であるはずのソ連のスターリンが死去します。
 米ソ冷戦・東西対立は自由主義思想と共産主義思想の闘争とされますが、これは形式上の見せかけに過ぎません。中身を覗けばその実態は、自由主義でも共産主義でも少数の権力者が民衆の生殺与奪権を握り、自分たちの勝手都合でその権力を振るい、民衆支配をしていたのです。いずれにしてもイルミナティによる民衆支配です。
 ただしざっくりとは、自由主義圏は裏のイルミナティつまりホワイト・ロッジ、共産主義圏は表のイルミナティのブラックロッジ側となるでしょう。彼らは敵対関係ながら裏では密約があり、手を結んでおり、その中で共産主義圏の世界は、裏のイルミナティ側の意図によって凄惨な社会実験の場にさせられていたともいえるでしょう。スターリンの死の周辺からはこういった実態が垣間見られます。
(seiryuu)
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ユダヤ問題のポイント(日本 昭和編) ― 第48話 ― スターリンの死


操作不能になったスターリン


1945(昭和20)年: 第2次世界大戦終了。日本はGHQの統治下に。
1947(昭和22)年: 米ソ冷戦が始まる。
1948(昭和23)年: 韓国と北朝鮮が建国。イスラエル建国宣言、中東戦争に。
1949(昭和24)年: 共産中国が建国。中国国民党は台湾へ。
1950(昭和25)年: 朝鮮戦争が始まる。1953年まで激しい戦闘。
1951(昭和26)年: サンフランシスコ講和条約・日米安保条約。日本は形式上独立。
1953(昭和28)年: スターリン暗殺。
1954(昭和29)年: ビキニでの米水爆実験で「第五福竜丸」被爆。統一教会創設。
1955(昭和30)年: 自民党結党(CIAの手引による)。

日本敗戦の1945年からの10年間、日本および日本の進路に大きな影響のあった主な出来事を並べてみました。

第2次世界大戦終了後の地上世界の構図となる米ソ冷戦・東西対立の始まりは、1947年の「トルーマン・ドクトリン」「マーシャル・プラン」の発表からとされます。その路線から1948年の韓国と北朝鮮の分断国家が成立したともいえるでしょう。

1960年頃のソ連の影響力の最大領土範囲

ただし、同年のイスラエル建国宣言では、ただちにイスラエルの国家承認した米国に続き、ソ連もイスラエルの国家承認をしています。この時点では、イスラエル建国に対する米ソ対立はなかったのです。むしろソ連もイスラエル建国に尽力していたのです。

当時のソ連はスターリンの独裁国家とされますが、実際にはスターリンは操作されていました。スターリンを操作していたのはスターリンの右腕とも称されたラーザリ・カガノヴィッチと、スターリンに影のごとく常に添っていたラヴレンチー・ベリヤです。

スターリン
Wikimedia Commons
[Public Domain]
カガノヴィッチ
Wikimedia Commons
[Public Domain]
ベリヤ
Wikimedia Commons
[Public Domain]

近・現代編 第7話で見たように、カガノヴィッチはハザール王国の皇帝(カガン)の血筋、ベリヤはカガノヴィッチの従兄弟であり、彼らの関係はハザール皇帝(カガン)と執事(ビャク)の関係であったとのことです。

彼らが操縦していたスターリンが1953年3月に死去します。ベリヤによる毒殺でした。操作していたスターリンが操作不能になったのです。『ヘブライの館2』の「第二次世界大戦後に実行されたスターリンの反ユダヤ政策」記事に「第二次世界大戦後のスターリン体制最後の数年間(1948~1953年)は、ユダヤ人にとって暗黒期であった。」と指摘。この時期に生じた数々の「反ユダヤ的事件 」が挙げられています。スターリンはこの時期には、明瞭にハザール・ユダヤ、ハザール・マフィアに対する嫌悪を政策として具体化していたのです。

『新版 300人委員会[下]』p269にも、1950年時、

「命令に従え」という300人委員会の再三の要求にスターリンは屈せず、彼の言う「ワシントンの世界主義者と、ロシアを支配しようとする彼らの動き」を非難しつづけた。

ともある通りです。

1950年時点でスターリンは、“闇の権力”(カバール、300人委員会)からの排除の対象になりつつあったのです。また、特に毒殺実行者のベリヤには、差し迫った状況があったのです。


処刑が迫っていたベリヤ


ラヴレンチー・ベリヤのウィキペディア記事には、スターリン毒殺の寸前には、

スターリンの命令により、MGBはソビエト国内の全ユダヤ人をロシア極東へ強制移住させるか、あるいは虐殺する準備を始めたと主張されている。

とあります。

近・現代編 第7、8話で紹介したイワノフ氏の、

スターリンはさらに大きな反ユダヤのプランをもっていた。シベリアの極東地方にビロビジャンというユダヤ人の自治州があったが、彼は大都会からすべてのユダヤ人を集めて、シベリアのビロビジャンに送ろうとしたのである。が、それが実行に移される前に、彼はベリヤによって暗殺された。

との語りと通じています。

ユダヤ自治州ビロビジャンの位置。夏は蒸し暑く、冬は酷寒の過酷な自然環境。
Author:Stasyan117 [CC BY-SA]

さて、ベリヤのウィキペディア記事では、1950年代初めには「スターリンのベリヤに対する不信感はますます増大」とあり、ここに至るのは次の記述部分が大きいでしょう。

第二次大戦後の数年間、ベリヤは東欧諸国におけるソヴィエト様式の秘密警察の創設を指揮し、そのリーダーを直接任命したが、これらのリーダーの多くはユダヤ人が占めていた。1948年初め、アバクモーフはこれらのユダヤ人リーダーたちの調査を開始し、ついに1951年11月、プラハにおいてルドルフ・スラーンスキー、ベルドジッヒ・ゲミンデルとその一派が逮捕された。彼らの嫌疑は、総じてシオニズムコスモポリタニズムであったが、より実質的な嫌疑は、彼らがチェコスロバキアを経由してイスラエルへ武器を供与した、というものであった。ベリヤの立場からすると、この武器供与の嫌疑が最も危険であった。イスラエルへの莫大な援助は、彼の直接の指示によるものだったからである。最終的に、チェコスロバキアの14人のリーダーと11人のユダヤ人が、プラハにおいて裁判にかけられて有罪判決を受けて処刑された。これがプラハ裁判である(同様の調査が、ポーランドやソヴィエトの衛星共和国で進行していた)。

ベリヤに処刑の危機が迫っていたことが分かるでしょう。そしてそれ以前に、ベリヤ(とその上位のカガノヴィッチ)がスターリンには秘密裏にソ連共産圏の各国をハザール・ユダヤ人をもって支配せんとしていたこと、ベリヤたち自身がシオニストでイスラエル支援をし、西側陣営の“闇の権力”(シオニスト、カバール、300人委員会)と仲間であったこと、これらがこの記述内容から見て取れます。

事実、スターリン毒殺後、カガノヴィッチとベリヤはゲオルギー・ジューコフによって逮捕され、ベリヤは銃殺刑となりますが、その罪名はウィキペディア記事には、

イギリスの諜報機関と結託し、秘密警察を党と国家の上に置いてソヴィエトの権力を掌握しようとしたスパイ

とある通りです。実際に「ベリヤが英国諜報機関に雇われていた」というのは図星だった模様です。


民族強制移住の傷跡


スターリンを操作していたカガノヴィッチとベリヤが西側の“闇の権力”と結びついていたのは明白で、その彼らがソ連に地獄を現出させたのは近・現代編 第7、8話で見たとおりです。大惨事の社会実験です。特にカガノヴィッチが担当者としてウクライナに1932年から1933年に現出させた飢餓地獄、人為的餓死計画のホロドモールは、現在のロシアとウクライナの関係にも影響を与えていると思われます。

ホロドモールの最中、子供を抱く飢えた母親。
(カザフスタン国立公文書館 1933年1月)
Wikimedia Commons [Public Domain]

このように、現在にも影響を与えているソ連に現出させられた地獄の背景には、西側“闇の権力”の暗躍があったのですが、この当時のソ連のユダヤ人の自治省建設や隔離も含む、多くの民族強制移送政策も現在に影響を与えています。

スターリンが最終的にハザール・ユダヤ人たちを隔離強制移住させようとしたのが極東のアムール河岸の「ビロビジャン」、そのビロビジャン以前にユダヤ人自治区として計画され動いていたのがクリミアです。このクリミアをユダヤ人自治区にしようとの計画は頓挫しますが、クリミアが現在も係争の地域となっているのは報道の通りです。

カザフスタンにもユダヤ人を移送しようとの計画もあったようですが、カザフスタンやシベリアの厳しい環境の僻地には、ソ連内の多くの民族が強制移送させられています。ウィキペディア「ソビエト連邦における強制移送」記事には、この強制移送を「1930年代から1950年代にかけてヨセフ・スターリンがNKVD長官のラヴレンチー・ベリヤに命じて実行した」とあります。やはり、ベリヤが手を染めているのです。

最初の対象は勤勉な自営農業者たちでした。ソフホーズ(国営農業)・コルホーズ(集団農業)の農業政策によるものですが、これで強制移送者は命を落としたり生活が破壊され、ソ連の農業自体が破壊され、ソ連内に多くの飢饉が生じたのです。

次の対象者は多くの少数民族たちでした。2020年12月18日の『ロシア・ビヨンド』の以下の記載に、その具体の一部が垣間見えます。このような強制移送が旧ソ連内の人々に深い傷を与え、その影響が現在まで続いているのです。

ソ連の秘密警察「内務人民委員部」(NKVD)のアーカイブによると、1930年代から1950年代にかけて、約350万人が故郷を捨てねばならなかった。民族の数にして40以上が、別の場所に移住させられた。彼らは主に、国境地帯に先祖代々住んでいた人たちだったが、ソ連の僻地に移住を強いられた。
最初に強制移住させられたのはポーランド人だ。1936年、旧ポーランド領のウクライナ西部から、約3万5千人の「信頼できない分子」が、カザフスタンに移住させられた。1939~41年には、20万人以上のポーランド人が、ロシア北部、シベリア、カザフスタンに移送。

強制移送されたクリミアのタタール人。(1948年)
Wikimedia Commons [CC BY-SA]


Writer

seiryuu様プロフィール

seiryuu

・兵庫県出身在住
・いちおう浄土真宗の住職
・体癖はたぶん7-2。(自分の体癖判定が最も難しかった。)
・基本、暇人。(したくないことはしない。)
・特徴、酒飲み。アルコールには強い。
・歯が32本全て生えそろっている(親不知全て)原始人並み。

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