[現代史スクープドキュメント]原発導入のシナリオ ~冷戦下の対日原子力戦略~ 前編

acco☆彡様からの情報です。
平和利用と言う名の軍事利用。
積極的平和主義と言う名の戦争誘導。
マスコミによるイスラム国大キャンペーン。

当時、暗躍した同じマスコミが
現代でも暗躍し続けているという現実に
どれだけの人が気付いているのか…。

原発を導入した当時と同じことが
今、起こっているのではないでしょうか。

日本の原子力開発第一号の東海村JCO。
ここは1999年に臨界事故を起こし、
その後はその事故によってできた
低レベル放射性廃棄物の保管管理などを事業としているようですが

先月19日から、
その廃棄物の焼却を勝手に始めており
その情報は殆ど隠蔽されています。

この動画には、そのJCOができるまでのこと、
原発が日本に導入されるまでのことが語られてはいますが、
この動画を見ることによって、
過去と現在の繋がりが、大変よくわかります。

国民がいかに騙され、そして現在、
そのツケをいかに被らされているかも
大変よくわかる、重要な内容です。
(寄稿者のコメント)

注)以下、文中の赤字・太字はシャンティ・フーラによるものです。

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現代史スクープドキュメント
【原発導入のシナリオ ~冷戦下の対日原子力戦略~1/3】
転載元より抜粋)

去年12月、アメリカ政府は核開発に関わる隠された事実を明らかにした。
冷戦が本格化した1940年台後半から50年台、放射能の影響を調べる人体実験が行われていたというのである。

「プルトニウムへの人体への注射」
「ベータ線に対する皮膚の反応」

こうした中、アメリカはもう一つの強大な実験を準備していた。

~水爆ブラボー(1954年3月1日)~

~水爆ブラボー(1954年3月1日)~



1954年3月1日、アメリカは南太平洋ビキニ環礁で、水爆ブラボーの爆発実験を行った。この実験で放出された死の灰が、近くで操業中のマグロはえ縄漁船、第五福竜丸に降り注ぎ、乗組員23人が被曝した。いわゆる“第五福竜丸事件”である。

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(1:15) 
広島・長崎に次ぐ、3回目の被曝事件として、
日本では激しい反米世論と、放射能パニックが巻き起こった。

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この頃、1人のアメリカ人が銀座で日本人と密談を交わしていた。
2人は日米関係に亀裂が入ることを恐れて、ある計画を具体化すべく、協力を約束した。それが日本に原子力を導入する重要なステップとなっている。

日本人の名は“柴田秀利”。当時、日本テレビの重役であった。
柴田は、日本の初期の原子力開発に関わる膨大な書類を残している。

政財界の要人の連絡先を記した手帳、アメリカとの頻繁な書簡の往復、
そして、政府側の内部文書など、その数は200点を超える。
そこからは、日米が手を組み、反核感情が高まる日本に
原子力発電を導入するまでのシナリオが、鮮明に浮かび上がってくる。


(2:43) 
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原爆でアメリカに遅れを取ったソビエトは、
1950年台、水爆の開発に躍起になっていた。
そして1953年8月12日、ソビエトはアメリカに先んじて、
実用的な水爆の開発に成功した。


(第1回水爆実験(1953年8月12日))

(第1回水爆実験(1953年8月12日))


核開発競争で初めて、ソビエトが優位に立ったのである。

4か月後、アメリカのアイゼンハワー大統領は国連総会で、世界に向けて演説を行った。
それは、原子力の情報をすべて機密扱いとしてきた従来の政策を、
大きく転換するものであった。

(3:40) 
アイゼンハワー


アイゼンハワー
「私は提案したい。原子力技術を持つ各国政府は、蓄えている天然ウラン、濃縮ウランなどの核物質を、国際原子力機関(IAEA)を作り、そこに預けよう。そしてこの機関は、核物質を平和目的のために、各国共同で使う方法を考えてゆくことにする。」

『Atoms for pease』

原子力の平和利用を呼び掛けたこの提案は、
画期的な核軍縮提案と見られた。

(4:30) 
ウラン鉱石の中に含まれる核分裂性物質、ウラン235。
その濃度を上げた、いわゆる“濃縮ウラン”が核兵器に使われる。

アメリカの提案は核兵器用に生産した濃縮ウランを、原発など民間に転用することにより、軍縮を進めようというものであった。
しかし、この提案の裏にはアメリカの核戦略における、もう一つの大転換があった。

演説の5日前に開かれたアメリカ国家安全保障会議の文書には、こう書かれている。

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アメリカは同盟国に対して、核兵器の効果や使用法、
ソビエトの核戦力などについて、情報を公表していくべきである。


それはNATOなど同盟諸国に、アメリカの核兵器を配備しようとする計画であった。
平和利用を呼び掛ける一方で、西側諸国の核武装を進めていたのである。


ソビエトはアメリカの二枚舌を非難して、原水爆の無条件禁止を世界に訴えた。
そして米ソは、互いに核の脅威を煽り立てる、宣伝合戦を繰り広げていく。

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(5:54) 
ソ連の国内向け宣伝映画
「これが原爆です。巨大な爆発力をもつ原爆は、アメリカによって
第二次大戦ではじめて使用されました。」
「いかにしてアメリカは、ソビエトとの戦争に勝利するか。そんな内容の雑誌が、
アメリカでは発行されています。すでに1945年以来ずっとワシントンでは、
ソビエトとの核戦争に備える動きがあったのです。」

アメリカの国内向け 宣伝映画
「原爆だ!頭を下げて隠れろ!頭を下げて隠れろ!」

(6:43) 
アメリカは、海外での広報宣伝活動を強化するため、海外各地に“広報文化交流局”、いわゆる“USIS”を置いた。東京には当時、虎の門のアメリカ大使館別館に、USISが設置されていた。

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USISは新聞や放送、映画などのメディアを通じて、
アメリカの原子力平和利用計画の宣伝を進めて行った。


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ルイス・シュミット元USIS局次長
我々USISは、日本での原子力平和利用の宣伝活動に、特に力を入れました。日本は原爆が投下された唯一の国であり、いかなる形の原子力計画に対しても反発していたからです。

アメリカは、原子力平和利用計画を宣伝する一方で、ソビエトを凌ぐ水爆の開発に、
全力をあげていた。

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アイゼンハワーの演説から、わずか3か月後の1954年3月、
ビキニ環礁で秘密裏に、水爆作戦“キャッスル作戦”が実行
された。

(8:10) 
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秘密だったはずの実験は、第五福竜丸の被曝事件によって、世界中に知れ渡った。
やがて、ビキニ近海で取れたマグロから、放射能が検出され始めた。
食料品の汚染は、国民の不安を掻き立て、アメリカの核実験に対する反発が強まった。
さらに、雨からも微量の放射能が検出され、野菜や牛乳などにも汚染の疑いが起こり、
放射能パニックが広がっていった。

~広島市(1954年8月6日)~

原爆の日を迎えた広島でも、
アメリカに対する非難の声が相次いだ。

市民「アメリカ人道主義なんて言っとるけれども、な~にが人道主義が唱えられるんだ!原爆というものはもう、この世の物からもう、ないようにしてしまったらいい!!」

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ルイス・シュミット
「私たちがせっかく積み重ねてきた努力も、水の泡になってしまいそうでした。
まったく、最悪の事態だったと言ってもいいでしょう。第五福竜丸事件の後、
日本人はアメリカの原子力平和利用計画に、さらに疑いを強めるように
なってしまったのです。」

(9:57) 
柴田秀利は、反米に傾いた世論の動向を危惧していた。
柴田はこのビキニ事件が起こした大きな波紋を、次のように記している。

『日本は唯一の被爆国であり、こと原子力と言うと忽ち人々の神経はイラ立ち、怒髪天を突く。“原爆アレルギー”の最たる国である。日本人全体の恨みと怒りは、それこそ、
きのこ雲のように膨れ上がり、爆発した。
その動きを見逃す手はない。忽ち共産党の巧みな心理戦争の餌食にされ、
一大政治運動と化した。』(柴田秀利の手記より)

柴田と吉田首相

柴田と吉田首相


柴田とアイゼンハワー

柴田とアイゼンハワー



柴田は、吉田総理大臣をはじめとする、政財界の上層部に通じていた。
また、国内のみならずアメリカにも多くの人脈を持っていた。

(第2次読売争議:1946年)

(第2次読売争議:1946年)



戦後最大の労働争議の1つと言われた読売争議。
柴田はその中で頭角を現した。GHQの担当記者だった柴田は、GHQ幹部を動かして
組合側の要求を抑え、経営側を勝利に導いた。


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柴田は、(読売新聞)社主、正力松太郎の懐刀として、次第に重用されるようになり、
そして日本テレビの創設に深く関わり、GHQの人脈を元に
アメリカとの交渉に辣腕を振るった
のである。

(11:40) 
手記によれば、柴田は第五福竜丸事件の後、銀座のすし屋で
1人のアメリカ人と接触を重ねていた。


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「このまま放って置いたら、せっかく営々として築き上げてきたアメリカとの友好関係に、決定的な破局を招く。日米双方とも対応に苦慮する日々が続いた。この時アメリカを代表して出てきたのがD・S・ワトソンと言う、私と同年配の、肩書きを明かさない男だった。私は告げた。『日本には毒を持って毒を制するということわざがある。原子力は諸刃の剣だ。原爆反対を潰すには、原子力の平和利用を大々的に謳い上げ、希望を与えるほかはない。』」(柴田秀利の手記より)

(12:32) 
柴田の書簡にも名前の登場する“ダニエル・S・ワトソン”。
ワトソンとはいったい、何者だろうか。
アメリカ、コネチカット州に、かつてワトソンの同僚だった人物がいた。
彼は匿名を条件に、電話インタビューに応じた。

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記者「なぜワトソンを知っているのですか?」
「同じ時期に東京に駐在し、政府のために働いていたからだ。」
記者ワトソンは、心理戦略などに関与していましたか?
その通りだ。
記者情報は国家安全保障会議などに届けられていたのですか?
その通りだ。当時はアイゼンハワー政権の時代で、
大統領は原子力平和利用計画には特別熱心だったからね。」
記者「すると、原子力平和利用計画についての情報は…
「情報はかなり高いレベルのところに届けられていたよ。」
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ワトソンは、メキシコに住居を移していた。
メキシコ南部にある、クエルナバーカ。メキシコ屈指の高級保養地、クエルナバーカに、ワトソンは今も健在であった。ワトソンは、日本での活動を終えた後、パキスタン、香港、ベトナムなどで、アメリカ政府のために働いたという。
しかし、彼は所属機関や日本での仕事の目的については、決して明かそうとはしなかった。

(14:31) 
ダニエル・ワトソン

ダニエル・ワトソン



ダニエル・ワトソン: 
「私が、政府のどの組織に属して、どこに報告していたのかは、当時柴田にも伝えませんでした。日本に来ている公式の目的についても同じです。
柴田も、私に対して同様の態度を取っていました。私が言えるのはそれだけです。」

(つづく)

文字起こし:acco☆彡

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