アーカイブ: アーユルヴェーダ

「房中術」により夫婦が互いの意識を拡大し、狭義の肉体の表層、中層、深層での合一を達成し、愛を深めることが可能 〜 さらに、狭義の肉体を超えた高次の身体による神聖な結婚も実現可能!

竹下雅敏氏からの情報です。
 アーユルヴェーダの解説の67回目です。前回の記事で説明しましたが、ユング心理学のアニマ、アニムスは無意識の相にすぎず、実在の男性、女性ではありません。従って、錬金術の要である「男性原理と女性原理の結合」と言っても、それは心理的なものに過ぎず、これらの統合は単なる精神的な成熟を意味するものになってしまうのです。
 この事は冒頭の記事で確認できます。「アニマは、多くの諸元型のうちの一つにすぎない…それは無意識の一つの相にすぎない」のです。従って「女性原理」とは、“自分自身の無意識の中で育ってきた自分の女性的部分”なのであり、自分の心の一部にすぎないのです。
 ユング心理学は「肉体(狭義)」のレベルの世界観なので、これは仕方がないのですが、人間は死後に「肉体(狭義)」を脱ぎ捨て、霊体として復活するのです。死後の世界の描写は、スウェデンボルグの著作をご覧になると良いでしょう。
 スウェデンボルグは、天界の天使にも性別があり、「天界には地上と同じように結婚がある」と言っています。スウェデンボルグの世界観はキリスト教の強い影響を受けているので、その分は割り引いて読まなくではならないのですが、確かに霊体には性別があり、霊界でも男性と女性に分かれています。そして、結婚があります。
 スウェデンボルグの著作には、霊界の夫婦も地上と同様に、性交渉で子供が生まれることには触れていません。また、離婚もあることには触れていません。しかし、霊界の夫婦の著しい特徴は、二人の身体がひとつに合体できることです。
 地球上での「結婚」は、肉体(狭義)の「身体」だけのものです。しかも、前回の記事の「内丹術の階梯(1.0)」の図に示した「顕在意識」のある「気」のレベルでの一致すらありません。これでは地上の「結婚」は、お金と性欲の混合物で、夫婦の愛の相を高める要素は何もありません。
 夫婦が互いに意識を拡大し、肉体(狭義)の表層、中層、深層での合一を達成すれば、愛は深まる事でしょう。そのために「房中術」は有るのです。さらに、肉体(狭義)を超えて、プラズマ体、エーテルダブルでの結婚が起これば、二人は死後もそのまま夫婦なのです。
 さらに、幽体、原因体での「結婚」もあります。理想を言えば、地上で結婚をした夫婦が愛の相を高め、肉体、幽体、原因体のすべての身体での結婚を実現することが望ましいのです。
 “そんなことができるのか?”と思われるでしょうが、現に私と妻はすべての身体で結婚しています。
(竹下雅敏)

注)以下、文中の赤字・太字はシャンティ・フーラによるものです。

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「仙道錬金術房中の法」 高藤聡一郎著 学研


p190~194
魔術や秘められた知恵をもたらす自分の中の女性原理アニマ
(中略)
ユングはこのアニマについて、元型の一部分でしかない、しかし、女性原理を代表しているというのである。

アニマは、多くの諸元型のうちの一つにすぎない。それゆえそれだけが無意識の特徴をなすわけではない。それは無意識の一つの相にすぎない。このことはアニマが女性的な性質を持っているという事実からも明らかである」(ユング・林道義訳「元型論」紀ノ國屋書店)

さらにこのアニマは、自分自身の一部のくせに、まるで外側にある(いる?)かのように見えるということもいっている。

「私でないもの、つまり男性的でないものは、女性的であるに決まっている。そして私でないものは私のものではなく、それゆえ私の外にあると感じられるので、アニマ像は通例女性に投影されるのである」(「元型論」)

男性が女性を好きになるのは、実は彼の心の中にある自分自身のアニマを、その女性に投影しているのだとユングはいう。これをわかりやすい言葉でいうと、自分自身の無意識の中で育ってきた自分の女性的部分(女性原理)を、現実の特定の女性に無理矢理重ね合わせるということになる。男性がよくいう「僕の好みの女性だよ」とか「僕のイメージにピッタリの人」とかいう表現は、ズバリそれを暗示している。
(中略)
「今日アニマはもはや女神として現れるものではなくて場合によっては最も個人的な誤解として、あるいは最悪の向こうみずとして現れる。たとえば、ある老齢の功成り名遂げた学者が七十歳で家族を捨てて二十代の赤毛の女優と結婚したのを見ると、われわれは、ああまた神々が生贄をさらっていったな、と思うのである。現代では悪魔的な恐ろしい力はこのように現れる。少し前までならば、こんな若い女性を魔女として処刑するのはまだ簡単なことだったであろう」(「元型論」)

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ユング心理学では説明できない錬金術の重要な過程「男性原理と女性原理の結合」の真の意味とは〜集合的無意識の存在界層を超えたプラズマ体やライトボディなどの上位の身体での「結婚」のこと

竹下雅敏氏からの情報です。
 ユング心理学を見ていて非常に混乱していると感じます。仏教の「唯識論」と次元が異なるだけで「唯心論」に見えます。もっとも仏教では、“その識(心の作用)も仮のもので夢幻の存在(空)であるとして否定する”のですが…。
 私はカール・グスタフ・ユングは、過去世で仏教徒だったと思っています。彼はハイアラーキー(聖白色同胞団)のイニシエイトだったので、ジーヴァ(個我)が本来の第1システムではなく、動物システムに転落していました。
 仏教徒は「空」を主張し、ジーヴァ(個我)を決して認めません。何故なら、ジーヴァ(個我)は彼らの瞑想体験の中に出てこないからです。こうして、「唯識論」やユング心理学といった奇妙な思想が生まれてくるのです。
 さて、その混乱したユング心理学に基づいて、この過程がない限り錬金術は完成しないという「男性原理と女性原理の結合」を説明しようとすると、高藤聡一郎氏のように間違ったものになってしまいます。
 理想の男性像、女性像であるアニムスとアニマを集合的無意識の元型として捉えると、それは単なる無意識のひとつの相にすぎず、実在の男性、女性ではありません。従って、「男性原理と女性原理の結合」と言っても、それは心理的なもので、本人の心の奥底に閉じ込め育ててきた自分の男性的部分、女性的部分が男性原理、女性原理という事になり、これらの統合とは単なる精神的な成熟を神秘的な言葉で表現したに過ぎなくなります。
 したがって、高藤聡一郎氏の立場では、「男性原理と女性原理の結合」が起きてから「陽神」が生まれ、「出神」へと向かうことになります。
 そうではありません。“続きはこちらから”の【内丹術の階梯(1.0)】をご覧ください。元型の存在する集合的無意識は肉体(狭義)の存在界層で、アニムスとアニマなどの元型をこの界層に限定すれば、確かに「男性原理と女性原理の結合」とは、心理的なものにならざるを得ません。
 しかし、実際には肉体(狭義)の深層を超えて、プラズマ体のある4層で「陽神」が育つのです。そして、1~3層に入ることで「出神」となります。こうしたプラズマ体や、ライトボディ(エーテルダブル)などの上位の身体での「結婚」が、本当の「男性原理と女性原理の結合」なのです。
(竹下雅敏)
訂正)図の一部に誤りがあったため、図およびPDFを差し替えました。(2021/10/17)
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「仙道錬金術房中の法」 高藤聡一郎著 学研


p178~180
ユングの心理学がとくにユニークだといえるのは、元型(アーキタイプ)という奇妙な実態のことを述べているからだ。
(中略)
によると、人間の無意識は2つのカテゴリーからなるという。ひとつは個人的無意識だ。(中略)... もうひとつが集合的無意識で、これが元型だ。個人の体験によらない無意識の記録を指す。おもにその人が属している、文化的な伝統、生活習慣、歴史的なものなどに根差しているという。もちろん、これを超えたもっと人類に普遍的なものも元型に入る。


p184
われわれユング心理学に素人な者が、元型、元型と気やすく呼ぶのは、実は元型そのものではなく、意識(表層意識)の部分でとらえたイメージ像なのだそうだ。これは元型イメージ(元型ではない!)と呼ばれる。
(中略)
▲元型的イメージ――(中略)... 無意識のメッセージを表層意識にある何らかのイメージでとらえたもの。つまり、表層意識のしわざと考えたほうがいいもの。
▲元型――無意識そのものの中にひそむ、元型的イメージを出現させる根源的な何か。そのままでは見ることも、イメージすることもできない。


p211~218
アニマはその現れ方から、いくつかの段階に分けられる。それが即、その人の心の完成度(成熟度)に関係する。(中略)... つまり求めるアニマ像が高いほど、あなたのアニムスも高まっていると考えるのだ。

アニマあるいはアニムス像の高まりが頂点に達したとき、房中術あるいは錬金術をやっている人において、徐々に2つの原理の統合が始まる。ある人においてそれは、単なる意識の変容だけかもしれない。しかし、ある人においては、まさしく男女の姿を持ったイメージが出現し、統合が行われる。

この統合があなたの中で完成したとき、あなたは不死なる存在へと進化するはずだ。仙道においては、こうした存在を陽神というイメージで表す。これを育てていくと(数年という)、やがて頭頂を抜けて外界へ自由に出入りできるようになる。これが出神だ。

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錬金術の「賢者の石」が発生すると生み出されるホムンクルスとは「陽神」のこと 〜「陽神」が育っていくと、高次元の界層に入ることができるようになり、そこで「神聖な結婚」が起こる

竹下雅敏氏からの情報です。
 アーユルヴェーダの解説の65回目です。前回は、「神交法」における「男性原理と女性原理の結合」について、これは高次の身体での「結婚」を意味していることを説明しました。
 2020年12月6日に大紀元の記事を紹介しました。今回は、この記事を少し詳しく引用しました。この時に、西王母の肉体(狭義)の「身体」の焦点の存在界層は「3.0次元の5層」であり、「武帝が西王母から蟠桃を授かった」という伝承の際は、“西王母が5層から7層に下り、武帝の前に姿を現した”とコメントしました。
 ただ、このときの記事で「西王母の存在界層」と題するPDFに示した「7層(表層)の顕在意識のある界層」までしか降りてこなかったのではないかと思っています。
 もしそうだったとすると、周りの人達には西王母の姿は見えておらず、特殊な夢見に近い状態の武帝にしか見えていなかったということになり、逆に言えば、武帝は仙道の行で、こうした特殊な意識に入ることができたと言うことになります。
 さて、仙道修行者の高藤聡一郎氏は、「仙道錬金術房中の法」という著作の第5章「陰陽双修法 房中術の最奥義」の中で、“西王母は仙道(とくに房中術)をやっている人の前に本当に出現する”とし、その出現の理由は、“仙女あるいは女仙として仙道の秘伝を伝えるため”だと言っています。
 しかし、これが「房中術の最奥義」だとすれば、「男性原理と女性原理の結合」の意味するところが、まったく分からなくなってしまいます。仙道の秘伝を伝えるために西王母や呂洞賓(りょどうひん)が現れるのは、道の途中の段階であり、最終的には「男性原理と女性原理の結合」、すなわち高次の身体での「神聖な結婚」が起こらなければなりません。
 錬金術の「賢者の石」が発生するとホムンクルス(人造小人)を生み出すのですが、これは内丹法の「大薬」の後に育つ「陽神」のことです。私は実際に自分の「陽神」を目の前でハッキリと見たことがありますが、背丈が30センチくらいの意識を持った人形のようでした。
 「陽神」が育っていくと、高次元の界層に入ることができるようになります。そこで、「神聖な結婚」が起こるのです。前回の記事では、「賢者の石の効果と呼ばれるもの」がいくつか挙げられていましたが、全て物理的なものでした。本当の効果は意識のレベルのものなのです。この事に関しては、いつか解説ができるかもしれません。
(竹下雅敏)

注)以下、文中の赤字・太字はシャンティ・フーラによるものです。

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西王母が武帝に桃を贈る 伝説の蟠桃は実在したのか?
引用元)

(前略)
歴史上では中国前漢の第7代皇帝、武帝が西王母から蟠桃を授かったとの記載があります。
(中略)
武帝は即位後、治世のほか仙人道術の修煉にも夢中になり、名山大河や五嶽(中国で古来崇拝される五つの名山)をよく訪問し、神霊を祀りました。

元封元年4月のある日、武帝が承華殿で大臣と話している時、青の色の衣装の綺麗な娘が目の前に現れ、「私は天宮の天女で、西王母の命令で王様を見に崑崙山から来ました」と言い、武帝にその日から国事は問わず、齋戒に専念するとことを求めました。そして7月7日になると、西王母が自ら承華殿に臨むと告げると、さっと姿が消えました。
(中略)
7月7日その日がやって来ると、武帝は承華殿に西王母の玉座を設置し(中略)... 誰も大殿の中を覗かないように命じ、華麗な礼服を着て、玉の階段の下で恭しく西王母の到来を待ちました。

夜中になると、西王母は九色の龍が引く紫雲仙車に乗って承華殿に降りました。それと共に簫(しょう)と鼓で奏でる美しい仙楽が鳴り響き、数千の仙人が西王母の左右に仕え、仙人たちの放つ光は宮殿を眩しく照らしました。
(中略)
宴会の途中に、西王母は仕える天女に仙桃を持ってくるよう命じました。しばらくすると天女は玉の皿に7個の桃を持ってきました。桃は淡い青色をしていて、西王母は武帝に4個をあげ、自分は3個食べました。
(中略)
武帝が桃を食べてみると、とても甘くて美味しくて、食べ終わった桃の種は全て保存しました。西王母がなぜ種を保存するのかと聞くと、武帝は、後日植えてみたいと答えました。西王母は「この仙桃は三千年に一回実がなるもの、不毛な人間の土地では育てられないでしょう」と言いました。
(以下略)

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「神交法」における「男性原理と女性原理の結合」が真に意味するものとは?〜 狭義の肉体の内側にある高次の身体での「結婚」、すなわち「神」の祝福の元に執り行われる「聖婚」のこと

 アーユルヴェーダの解説の64回目です。61回目の記事の中に、「本当の房中術はセックスとはまったく無関係」という一文があり、これは房中術の「神交法」のことでした。
 前回の記事では、“「神交法」を行う男女は相思相愛の関係でなければならず、しかも双方が肉欲から離れていなければならない”ため、現実には大変ハードルが高い行法であり、 “ハートを清めて本物の王子と姫になることで、「神交法」の房中術を実践することが可能になる”とコメントしました。
 今回は、この事をもう少し分り易く説明したいと思います。高藤聡一郎氏の「仙道錬金術房中の法」には、仙道の「内丹術」と西洋の「錬金術」の類比が示されており、内丹術の「大薬」が錬金術の「賢者の石」であるとしています。
 記事には、「賢者の石」のさまざまな効果が示されていますが、これらはすべて高次の身体に関することです。この中で特に重要なのが、「男性原理と女性原理の結合」であり、“この原理、そしてこの過程がない限り、錬金術は完成しない”と書かれているのですが、これはその通りです。
 問題は、「神交法」における「男性原理と女性原理の結合」とは何を意味しているかです。実はこれは、「神交法」における「聖婚(ヒエロス・ガモス)」のことなのです。
 高藤聡一郎氏は著作の中で、ユング心理学を説明し、男性にとっての女性原理としてアニマを、女性にとっての男性原理としてアニムスを例に挙げています。男性にとって、“アニマは心の中の理想の女性”であり、女性にとって、“アニムスは心の中の理想の男性”です。
 その理想の男女(男性原理と女性原理)が「結合」するとは、どういうことかというと、これは肉体(狭義)の内側にある高次の身体での「結婚」を意味しているのです。これを「聖婚」と言います。ウィキペディアには、“聖婚は神話や儀礼などにみられる男女二神の交合や神と人の婚姻のモチーフである”と書かれています。
 シュメールの都市国家の王と「天の女王」とされる女神イナンナの女祭司との間で行われる「神聖な結婚」、すなわち神殿での王と女祭司の性交渉は非常に穢らわしいもので、「聖婚(ヒエロス・ガモス)」の最も低次の表現であり、ウイッカなどの悪魔崇拝者たちに特に好まれます。
 こうした最高位の女祭司の例として、皇妃エリーザベト、ポンパドゥール夫人などの名を挙げることができます。彼女たちは、こうした過去の行為を深く悔いて心を入れ替えたので、「天界の改革」で女神の地位を得たのですが、今では消えてしまいました。ですから皆さんは、こうした悪魔由来の聖婚儀礼に関わってはいけません。
 本来の「聖婚」は、“続きはこちらから”に描かれているように、高次の身体での結婚を意味します。こうした結婚は「神」の祝福の元に執り行われます。霊的世界では、結婚したふたりの身体は「融合」します。私の身体に妻の清田姫(スガタヒメ)が、“ふわっと同化し、重なるように二人の姿が見えた”のは、私たちが「結婚」しているからです。
(竹下雅敏)

注)以下、文中の赤字・太字はシャンティ・フーラによるものです。

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「仙道錬金術房中の法」 高藤聡一郎著 学研

p156~161
内的煉丹の法、つまり内丹法をやっていくと、最後にはその精華、大薬が発生するのである。一方、錬金術は…赤化のあと「賢者の石」が発生するという。
(中略)
賢者の石にはさまざまな効果がある。
▲隠形――錬金術師の姿を見えなくする。
▲空中浮遊――自由に空を飛ばせる。
▲通霊――天使たちと交流させる。
▲窮理――万物の究極の理を知らしめる。
▲生命再生――灰からの植物の復活。動物についても可能だという。
▲生命創造――ホルムンスク(人造小人)を生み出す。
(中略)
実をいうと賢者の石の効果と呼ばれるものは、仙道の大薬を服用したのちの効果に似ているのだ。
(中略)
隠形、空中浮遊は仙道の術のおはこで、仙人の話を読むと、このうちのひとつや2つはたいがい出てくる。
(中略)
通霊、窮理は、仙道では六神通(六具神通)と呼ばれているものに相当し、天耳通(透聴)、天眼通(透視)、他心通(読心)、宿命通(予知)、神境通(時空超越)、漏尽通(精がまったく漏れない)などがある。
(中略)
実はこれ以外に、大事なもので抜けているものが2つある。
ひとつは男性原理と女性原理の結合、もうひとつが肉体の若返り(不死と関係する)だ。
(中略)
実をいうとこれらは、賢者の石の応用効果以上に錬金術にとっては重要なものなのだ。というのは、この原理、そしてこの過程がない限り、錬金術は完成しないからだ。さらにつけ加えると、これは単なるイメージなどではなく、ひとつの現象として物理的に出現するのである。
(以下略)

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房中術の「体交法」と「神交法」〜 男女が性交渉によって気のやりとりを行う「体交法」と、肉体での交わりはせずに離れた所から互いに「神(意識)」だけで気のやりとりを行う「神交法」

竹下雅敏氏からの情報です。
 アーユルヴェーダの解説の63回目です。61回目の記事の中に、「本当の房中術はセックスとはまったく無関係」という一文があったのですが、これは房中術の「神交法」のことを言っているのです。
 房中術には「体交法」と「神交法」があり、男女が性交渉によって気のやりとりを行い気の循環を図るのが「体交法」で、肉体での交わりはせずに離れた所から互いに「神(意識)」だけで気のやりとりを行うのが「神交法」です。
 「神交法」の方が「体交法」よりも確実で効果が高いことが知られていますが、現実には大変ハードルが高い行法なのです。なぜなら、「神交法」を行う男女は相思相愛の関係でなければならず、しかも双方が肉欲から離れていなければならないからです。
 昔なら、婚約した二人は結婚式を挙げるまで関係を持たなかったので、婚約期間中に「神交法」を行うことで気のルートを開発し、結婚後に「体交法」を実践すれば、すみやかに房中術の成果が出たはずなのですが、現代のように堕落した世の中だと、「神交法」を実践する機会はまずありません。
 “江戸時代では二〇歳前後を年増、二三、四歳から三〇歳までを中年増、それより上を大年増といった”とのことですが、天界での結婚適齢期はどうも16歳のようなのです。このくらいの年齢で婚約して、婚約期間中に「神交法」を実践するというのがベストかなと思います。もちろん、これは天界の話です。
 ただ、地球上でもあまりに結婚が遅くなると、精子も卵子も劣化します。「キャリアを積む」ことが重視される世の中ですが、人間として幸福になることを優先して考えるべきだと思います。
 女性はいくつになっても白馬の王子様を夢見ているという説もありますが、「王子様はお姫様しか迎えに行かない、という現実」という鏡をたたき割る表現も見られます。
 視野を拡大しましょう。「シンデレラが王子様と結婚した後」を想像してみましょう。“王族独自のしきたりや教養・倫理観が必要な世界…侍女などからは「下賤の身でありながら…」とハラスメントを受けるのは必至。王子からの寵愛は受けるでしょうが、所詮それも王族にしてみれば王家の子を産む道具に過ぎません”というなかなかの洞察があります。
 シンデレラですら幸せになれないのだとすれば、何処に幸せはあるのか。例えば、あなたが気持ち悪いと思っている蜘蛛を、試しによ~く眺めてみて下さい。蜘蛛のつぶらな瞳があなたのハートを鷲づかみにするかも知れません。いや、実際に私の妻がそうだったのですよ。ハエトリグモは我が家ではアイドルなのです。
 このように、「ありのままに見る」ことを通じて、ハートを清めて行けば、あなたの心は確実に王子であり姫になって行きます。王子にはシンデレラが現れ、姫には王子が迎えに来るのは必然なのです。こうした肉体レベルではなく、ハートレベルで本物の王子と姫なら、「神交法」の房中術を実践することが可能でしょう。もちろん、「体交法」を用いても幸せになれます。
(竹下雅敏)

注)以下、文中の赤字・太字はシャンティ・フーラによるものです。

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房中術

房中術(ぼうちゅうじゅつ)とは、中国古来の養生術の一種。房事すなわち性生活における技法で、男女和合の道である。
(中略)
漢書』「芸文志」方技略に付されている房中の解説に、房中術の要点が記されている。「楽しみに節度があれば、心は穏やかで長生きできる。おぼれて顧みなくなれば病が生じ、いのちが損なわれる」。
(中略)
房中術については、人は陰陽の交わりを絶ってはならず、陰陽が交わらなくなると気が滞り病気になりやすく長生できなくなると、その効果を説いている。
(中略)
後代の内丹法は、清修派と双修派の丹法に大別される。「禁欲的」で一人で行う単修法が「清修派」で、中国の修行者のほとんどはこの丹法である。そして「房中術」を取り入れたのが、男女の二人で修行する「双修派」の丹法である。双修派の丹法は、その接触形態から二つに分かれる。男女が「肉体的」に交接することで気を循環させる「体交法」と、肉体の交接をせず「神(意識)」のみで行う「神交法」である。

「体交法」は、「肉体的」交接により気のやりとりを行い、気の循環を図る。気のやりとりの無いものは通常の性的行為であり、内丹法としての房中術ではないとされる。体交法は、交接により男女の「双方」で気のやりとりを行うが、効果を出すためには双方ともみだりに精を漏らしてはならないとする。他に、男女の片方が一方的に気を奪い取る「玉女採戦」があるが、奪われる側は体をひどく損ねるとされ問題視された。

「神交法」は、隔体神交法とも呼び、肉体での交わりはせずに離れた所から互いに「神(意識)」だけで気のやりとりを行う。要点は、男は衣をゆるめず、女は帯をとかず「男不寛衣、女不解帯」。神明のごとく敬い、父母のごとく愛せ「敬如神明、愛如父母」。つまり、厳粛実直の気持ちで、相手に対し父母に対するがごとく淫念を持たず愛し、相手から離れて静かに向かい合って意識で気を交わらせる、とされ体交法よりも効果が高いという。
(以下略)

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