・置き忘れたもの
古人が月を眺めて、そこに兎が餅つきをしている姿を見ることが出来た、そのみずみずしく豊かな感性、身の回りのいたるものに神聖さを感得出来た広い意味での理性、それらを現代人の私たちは持ち合わせられているのでしょうか。
今から既に約40年前、哲学者西谷啓二博士は、人間基盤の崩壊を指摘し、その一つの要因として、科学技術への偏重の危険さを挙げられていました。現代の世界をリードしてきたのは西洋文明であることに異論をはさむ人はほぼ無いと思います。そしてその原動力となったのが科学的知と技術の進歩であったといえると思います。科学技術の進歩は私たちに物質的な豊かさ、便利で快適な生活をもたらしました。貧困の格差、大量殺人兵器、環境汚染等の副次的な産物は生み出しても、それもやがては科学の発展で解決出来、まるで魔法の杖のように、人類に無限の幸福を与えてくれるもののように思えたものでした。しかし、現在それが幻想であったことが露わになりつつあるように感じます。
科学的な知とは、自然や人、全てのものを自らの外の対象物として、客観的に分別分析し知っていく知恵であり、あらゆるものの実体を綿密に知らしめていきます。そして科学技術はその利用方法を明らかにしていきます。しかし、人間の都合上による利用価値、利用方法は解明できても、それを離れたところの、万物、そのもの自体の存在意味を明らかにすることは、科学的思考方法では、その性質上できないものです。そして何よりも、万物を自らの都合によって利用していこうとするその主体自身そのものを、人間の存在意味や意義、そして生命の尊厳、これらに対して答えて、明らかにしていける知恵ではないのです。
科学的知とその技術の進歩、それ自体に善悪はなく、今後もその歩みはとどまることはないでありましょう。ただし、原子爆弾製造を提唱したアインシュタイン博士が悲嘆したように、科学的な知と技術は人類にとっての幸福を願って発展したものではあるでしょうが、それはだけでは万能物ではなく、場合によれば破壊的な不幸をももたらす危険物でもあると思います。取り扱う方の人間そのものが、やはり問われており、精神的な空洞化を乗り越え、人間、その尊厳に答えられる道が今求められています。
"森に住んでいた猿の群れの中で、新天地を目指して地上に降り立っていったグループがあった。この蛮勇ともいえる行動力と非常に強い好奇心を持ったグループ、それがヒトへと進化していったと言われている。
しかし、行動力と好奇心だけで人間へと成れたのではない。長い時間の中で厳然たる自然の流れを体感し、自らの存在の痛みを感得し、おのずから、仲間の死を悼み、花を手向けざるを得ない心が働いた時、そのグループは人間と称されるべき存在へとなった。それが私たちの祖である。"
・置き忘れたもの
この「道しるべを探して・・・」のテーマは「現代において私たちが真に人間らしく生きられる道を問う」です。しかしその人間、人間らしさ「なにをもって人間と称するか?」はいろいろな考えもあるでしょうし、定義づけすることは無理だと今も改めて思います。そして当時も当然その答えは持たないまま探っていました。ただ、これは人間の定義付けなしで語るので多分に感覚的なものですが、1月号に「非人間化の営み」と記したように人間らしさとは逆の強い流れを感じていました。記載文章の中にはこのため私たちは置き忘れた大事なものを取り戻すべきではないですか?と3つのものをあげています。
2つは冒頭部分に記しています。「みずみずしく豊かな感性」と「身の回りのいたるものに神聖さを感得出来た広い意味での理性」です。二つを合わせて一口で言えば「豊かで微細な感受性」ともいえるかもしれません。
これに対し近代からといえるかもしれませんが、現代社会にて非常に重視されたのが「知性」。特に「科学的知」でしょう。この性質は自己と自然物を分離して見ます。自己と切り離した自然物を「どのように所有し、利用できるか」を問い知ります。しかし片方の切り離した自己その本質は問われないのです。
そのような知性をひたすら発達させて己の都合で万物を利用する、この営みが人間らしさですか?何かを思い心を痛める、自身を振り返り痛みを覚える、痛みを置き忘れていませんか?と問うているのが記載記事の内容です。そうです。置き忘れた大事なものの3つめは「痛む心」「自身に対する痛み」です。記載文書の最後の部分は「痛む」を「悼む」に掛けています。当時、これが人間と他の動物を分ける大きな要素、鍵になるのでは?との思いから「"森に住んでいた猿の群れの中で、・・・」を記したのを覚えています。
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頭で考え理論を構築するのが「知性」とするならば、「豊かな感性」のほうが重要、豊かな感性がなければ何一つとしてまともなものは生まれてこない、その「感覚」の表れが掲載文の冒頭「古人が月を眺めて・・・・」の数行です。ただし「感覚」が表れたのであって、その「考え」が私にあったのではなかったと思います。何か私の中に降りてきたと表現するのが近いでしょうか、この数行はそれをただ書き留めた、という感じでした。