徳川の生き残り戦略 〜徳川三代のブレーン天海
水戸徳川が、
水戸徳川出身の最後の将軍徳川慶喜が、倒幕と明治維新の切り札というか
決め手になったのは間違いありません。
しかし、水戸徳川が倒幕の最大の力になったとはいえ、もちろん水戸徳川が徳川家を滅ぼすために倒幕運動を展開したわけではありません。逆です。
徳川家が日本の支配者として長く存続できるように水戸徳川は倒幕運動を展開したのです。そして現に明治維新から今日に至るまで、徳川家は日本支配層のトップにしっかりと食い込んでいます。
水戸徳川は徳川幕府の後見人の役割を担っていたのですが、徳川家を存続させるため、場合によっては徳川自身が徳川幕府を止める戦略構想は家康自体が持っていたと「
るいネット」の記事は次のように記しています。
徳川幕府を開いた家康は天皇を廃止しなかっただけでなく、「徳川幕府が時代の要請にあわなくなったら、密かに南朝の天皇家を皇位に立て、そのもとで徳川家の存続を図る」という有事の際の南朝革命戦略をも持ちあわせて、政権を後世に引き継いだ。その書が「公家法度」で、水戸藩による南朝革命は、この「公家法度」を源流にしている。
この記事では「家康は、朝廷の盲点を見抜いていて、朝廷が、幕府の意向を聞かないときは、南朝を持ち出して、朝廷を揺さぶることを念頭においていた」とし、
その南朝系天皇を「当時は、玉(ぎょく)といっていたようで、
幕府が隠しもっていたのが、後の東北連合の熊沢天皇だった」と記しています。
徳川家はいざとなった時には生き残るために南朝を立てる戦略を持ち、そのために熊沢天皇を匿っていたとするのですが、さもありなん、との感もします。
家康は暴力と権謀術数の嵐だった戦国時代をサバイバルして、生き残り勝ち残ってきた人物です。大変な超リアリストで、実務的に幾重もの生き残りのための防護線は引いていたでしょう。
そして側近の存在です。
生き残り戦略の南朝革命の源になったとされる「公家法度」を創案した家康の側近は「黒衣の宰相」の異名を持つ
金地院崇伝ですが、
そのライバルだったのが南光坊天海です。
金地院崇伝
南光坊天海
天海は江戸を陰陽道・風水の観点から設計し、家康の死後の神号である東照大権現を決めたとされます。
ウィキペディアでは「徳川家康の側近として、江戸幕府初期の朝廷政策・宗教政策に深く関与した」とあります。家康に南朝を立てて生き残る戦略を提唱したのは天海であった可能性は高いです。
いずれ改めて取り上げますが、
日本中心のハルマゲドン・NWO計画の書となっているのが、大本教系の岡本天明が自動書記で綴った「日月神示」です。
この日月神示を降ろした霊が天海であると竹下さんが明かされています。
要は天海はミトラ・マイトレーヤたちのホワイト・ロッジのメンバーであり、彼らの計画に基づいて徳川を動かしてきたということでしょう。天海は家康、秀忠、家光という徳川三代のブレーンでした。
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母音を消しているところからして似てます(※多分、古代ローマやもっと以前の古典文化の雰囲気がして、「格調高い」とか思ったんでしょうねー。……アホらし)。
アメリカが拠点なので、相変わらずCIAとモサドが暗躍しています。設立者は悪魔崇拝の乱交パーティー映画を見て、「カッコイイ!」と憧れを抱いたそうな。「CIA」・「モサド」・「悪魔崇拝」のコンボとなると、ジェフリー・エプスティーンも当然絡んできます。
奴が都合よく“自殺”させられた後も、次々にエリートの悪行が暴かれていくのは良い兆候かと。でも今月もセレブを集めて乱交パーティーしてたとなると、闇側の力もまだ侮れません。
警戒は怠ることなく、来年は光溢れる年としたいものです。