子どもを見守るということ 〜 祈りとともに

読者からの情報です。
「全身全霊の子育て」、その様な言葉が浮かびました。
子どもの立場を思い、ただひたすら子どもを「見守る」ことに徹する。そのために、大人はどれほどの葛藤を超えなければならないでしょう。
送って下さった読者の方は、ご自身の子供時代の経験を振り返り、子どもを尊重する親になりたいと思われたのだそうです。
 このお話からは、子どものいる人もいない人も皆、幼い人への「愛」を、そして「自分自身への愛」を学ぶことができそうです。
(まのじ)
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子どもを見守るということ 〜 祈りとともに🍀


🍀 ある日、娘から送られてきた深刻なメール


ある日、離れて暮らしている娘からこんな内容のメールが来た。大学2年生の娘からだ。

 パパは就職先とか、やりたいことってどうやって見つけた??

今ゼミ頑張ってるけど、先生が本当に嫌いで今ゼミでやっていることも、人がこの半年で6人も辞めていったからやる気も起きないし、やらなきゃいけない事がたくさんで追い詰められている感じがして、明後日から学校始まるけど考えるだけで行きたくないって思ってる。

このまま学校続けても本当にやりたいこと見つけられる自信ないし、ゼミ辞めたら就活で言えることなくなるし、まず奨学金が貰えなくなりそう。

奨学金の来年度の募集始まっていて、ゼミの先生に推薦書書いてもらわないといけなくて、それの依頼しなきゃいけない事も考えるとしんどい。

この先何とかなるなら、学校を辞めてもいいと思ってるくらい。


19歳の娘が抱えるにしてはとても深刻な悩みだと思った。一番の問題は、大嫌いなゼミの先生に奨学金の推薦書を依頼しなければいけないということだった。ゼミなんかさっさと辞めたいところだが、奨学金に頼らなければいけないことを自覚している娘にとってはそうもいかず、避けては通れない憂鬱な問題だった。

僕の答えは既に決まっていた。しかし、とりあえず娘の話を本人から直接聴いてみようと思い、時間のあるときに尋ねてくるように誘った。


🍀 僕と娘との親子関係


娘と離れて暮らしているのには事情がある。娘が小学3年生になった頃、僕は離婚した。それから中学3年生の夏頃まで一緒に暮らしていたが、その後は同じ市内の母親と一緒に暮らしている。

娘が自転車で通える地元の高校へ進学してからは、テスト週間になると、通学路の途中にある我が家にテスト勉強をやるために寄っていくようになった。わからないところを聞かれたときは、知っていることはその場で教え、わからないことはネットで検索して理解したことを伝えた。


大学入試のときは、指定校推薦がもらえたので、娘の依頼で小論文の対策をするために、その大学の過去問を借りてきてもらい、ひと月くらい添削指導をした。その努力の成果なのかどうかわからないが、娘は合格し、晴れて大学生になった。

大学に通うようになってからも、受講登録やレポートの作成、テスト勉強の度に我が家で時間を過ごしている。

離れて暮らしてはいるが、そんな時間を共有している娘だ。

🍀 僕のこれまでの子育てのスタンス


さて、子どもは誰でもそうだと思うが、娘は小さい頃から、自分で好きなことを好きなようにやるのが好きだった。学校から帰ったら仲のいい友達と自分たちのやりたいことを見つけて遊ぶ。ただそれだけだ。だから僕もできるだけ娘がやりたいことに集中できるように、口出しをほとんどしなかった。安全面に関するルールを3つほど決めたくらいだ。

実はこれには理由がある。離婚直後、娘は一時期学校を休みがちになってしまったのだ。親の身勝手な離婚という事態に、小学3年生の娘は本当に深く傷ついてしまったからだ。心の葛藤に体がついていかない。そんな感じだった。だから余計にやりたいことだけに集中できる環境を、どうしてもすぐに整える必要があったのだ。

だから塾などには通わせたことはないし、テストの答案も見たことがない。通知表も本人が見せようとしなければ何も言わなかった。ただ、保護者会で担任の先生に見せられることがあったのと、学校に返却するために印鑑を押さなければならず、ざっと見ることがあったくらいだ。「勉強を頑張れ」などと言ったことはない(と思う)。

そういうわけで、僕としては、できるだけ娘のやりたいことを娘のペースで自由にやらせてきたわけだが、大学では、やれレポートの提出だの、やれ資格試験だの、やれテストだのと、スケジュールに追われ、急き立てられるような大学生活を送っているようだった。比較的マイペースで生きてきた娘が「追い詰められている感じ」だと思うのは、至極当然だったのではないかと思う。


🍀 大学に一度行ってみると連絡してきた娘


話を戻すと、結局、娘と会って話を聴く約束をした日のお昼頃、娘からこんなメールが来た。

 1回学校が始まって、それでもやっていけないなって感じたらまた話に行くよ...まずは1回学校行ってみるよ


娘はお昼近くまで寝ていたようだった。「学校へ行きたくない。だけど辞めたらその後どうなるのか?」、そんな不安な気持ちが何度も心の中で繰り返され、ずっと葛藤が続いていたに違いない。相当に疲れ切っているように感じた。我が家へ来るのも億劫になるのは当然だ。

訪ねていこうかとも思ったが、ゆっくり休ませてあげる方がいいと思い、「了解」とだけメールを送った。

その日の15時ごろ、娘から再びメールが来た。観光会社との産学連携の授業で、ある外国人の修学旅行先に地元を選んでもらう企画を考えなければいけない、というものだった。

疲れ切って消耗している娘に追い打ちをかけるような課題だった。僕はすぐにネットでその外国人観光客の特徴に関する情報を見繕って、「ざっと調べてみた」とメールで送った。娘からは「たくさんありがとう!」と返信が来た。

僕としては少しホッとしたが、しかし、最近ではすっかり定着しているこの産学連携というのは、果たして「教育」の一環なのだろうか? それとも企業に役立つ「人材育成」の一環なのだろうか? 娘が辛そうなこともあったので、僕の中では否定的な思いが巡った。

翌日、娘の大学が始まるその日は台風の影響で風が強かった。「今日9:30に家出る予定なんだけど、風が強すぎたら駅まで送って欲しい」とメールが来たので、電車の時刻まで外の様子を気にしながら待機した。風がだいぶ収まってきたことをメールすると、「自転車で行く」と返事が来た。娘の顔を見がてら送ってあげた方がいいのかと悩んだが、「気をつけて」とだけ伝えた。


🍀 僕が娘のために取れたたった一つの行動


こんな娘とのメールのやりとりの中でも、正直、僕は内心、心配でたまらなかった。かといって心配そうな素振りをみせると、心配させまいとして、娘に余計な負担をかけるのではないかと思い、できるだけ普段通りの何気ないやりとりを装った。

しかし、そんな僕にもできることが一つだけあることもしっかりと自覚していた。
それは祈ることだ。

娘が大学へ向かう電車に乗っている頃、僕はすぐに「母なる神さま 〇〇(娘の名)が助けを必要とするときは どうか速やかに助けることができますように」とガヤトリー・マントラで祈った。


そしてその日の夜、時事ブログにこの記事が掲載された。僕の祈りはすぐに叶えられたと思った。ここには娘に伝えたかったことのすべてがはっきりと書かれていたからだ。

その内容は是非記事の方でご覧いただきたいが、ここで僕がお伝えしたいのは、祈りというのは、こうした予期せぬ形で叶うこともあるということだ。聞き入れられるときは本当に速やかに叶うのだと思う。

祈りというのは個人的なものだ。だから本人がそれに気づかなければ叶わなかったことになるだろう。反対に、第三者にしてみればたわいもないことでも、本人にとってはそれが奇跡のように感じられることもあるのだと思う。

僕にとってはまさしく奇跡だった。これで娘を助けられると思ったからだ。

僕はすぐに娘にメールで今の悩みにぴったりの記事だよとURLを教えた。そして、「この先何とかなるなら、学校を辞めてもいいと思ってる」ほど憔悴していた娘に対して、「お父さんの答えは“何とでもなる”だよ。」と言葉を添えた。

その1時間後、娘から「ありがとう(;_;)」と返信が来た。


🍀 子どもを見守るとは


僕は時折、子どもたちを励ますことが、実はその子を追い詰めているんじゃないかと思うことがある。親や学校の教師、塾の講師など子どもたちの周りにいる大勢の大人たちは、口を揃えて「頑張れ」と励ます。多くの子どもたちはそれを真に受けて、期待に応えるために、等身大以上の自分になろうと「頑張り過ぎる」のではないだろうか。

だから僕はこんなとき、子どもの「味方」になって考え、行動するようにしている。たとえ自分の価値観とは違っていても、まずは娘がどうしたら安心できるかを考え、それをできるだけ実行に移すようにしている。

大切なのはこれ以上娘を追い詰めないことだった。そのためには、いつでも学校を辞めてもいいんだという安心感を与えることが先決だと思った。守るべきは娘の心であり、娘の存在そのものだった。


あれから5週間が経過した。今でも娘は大学に通い続けている。最初のメールから2週間ほど経った僕の誕生日に「お誕生日おめでとう🎉🎉🎉」とメールをくれた。僕の誕生日を気にするくらいは余裕が出てきた証拠だ。少しは元気になったようで何よりだった。

しかし問題が解決したわけではない。「今のところ」は、いろいろな複雑な感情を上手くやりくりする余裕が出てきただけなんだと思う。最終判断を下すために一時的に問題を先送りし、様子見をしているところだろう。だから、いつも娘の様子を気にしながら見守っている。

結局、子どもの人格を尊重しながら育てていくために親としてできることと言えば、精いっぱい見守ることぐらいではないだろうか。子どもが助けを必要とするときに傍にいてあげて、手を差し伸べる。何か特別なことをする必要などない。そのときの自分にできることを精いっぱいやればいいのだと思う。

子どもに手を差し伸べようと行動を起こすといろいろなアイデアが湧いてくる。この方法がダメなら次はあの方法、それもダメなら……と。それは普段から子どもを気にかけ、観察している経験から湧き上がってくる知恵なのだと思う。

それでも何も方法が見つからなければ……。そのときは子どもの名前を挙げて「〇〇を助けさせてください」と素直に祈ればいいのだと思う。自分のできることの一つに祈りを含めてもいいのではないだろうか。

そして、子どもにとって頑張れと励まし、背中を押すことばかりが決して救いなのではないと思う。頑張る必要がないことを伝えたり、弱音を吐いてもいいんだよと伝えることも、その子にとっては大きな救いになることもあるのではないだろうか。

皆さんも一度、追い詰められている子どもたちがいないか、周りをよく観察してみてください。助けを必要としている子どもたちに気づいてあげることが、手を差し伸べるための最初の一歩なんだと思います。



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