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ユダヤ問題のポイント(日本 明治編) ― 第35話 ― 内田良平の日韓合邦運動
内田良平と李容九の「日韓合邦」運動 〜韓国併合で憤死した李容九
1909年10月26日、韓国前統監伊藤博文が暗殺されるや、日本は「前統監の暗殺を機に、朝鮮の抗日運動を抑えることを口実に」(世界史の窓「安重根/伊藤博文暗殺事件」)その翌年1910年8月29日、韓国併合条約を締結し韓国を併合し、植民地としました。この日韓併合の重要人物として“いの一番”に揚げられるのが内田良平です。
黒龍会主幹 内田良平(右側)
Wikimedia Commons [Public Domain]
編集者註:写真左の人物は大本教主輔 出口王仁三郎、中央は玄洋社の総帥 頭山満。
内田良平については、「明治34年(1901)黒竜会を創立、大陸進出を唱えた。韓国併合の黒幕として活躍、のちに満蒙(まんもう)独立運動を推進。」 (デジタル大辞泉)とある通りです。
先に八咫烏直属の五龍会の黒龍会と混同されることの多い内田良平が創設した黒龍会について。
黒龍会を英語で「ブラックドラゴン」と表記されるのには内田良平は不満があったようです。『歴史が眠る多磨霊園』の「内田良平」記事では黒龍会は「黒龍江を前に、雲を呼び風を望む高大な志をこめて命名した」とありますよう、黒竜江省のアムール川が黒龍会命名の基にあります。
黒竜江省とロシアとの国境を流れるアムール川(黒竜江)
Author:Kmusser [CC BY-SA]
Wikimedia_Commons [Public Domain]
さて、内田良平は杉山茂丸の口利きによって1906年に伊藤博文が韓国統監として渡韓の際に韓国統監府嘱託となり、伊藤博文に随行します。
その韓国内での内田良平の活動は、「明治40年(1907年)には、『一進会』会長の李容九と日韓の合邦運動を盟約し、その顧問となった」(ウィキペディア「内田良平」)とある通りです。ただし内田良平の韓国との関わりはその以前からもあったのです。
『歴史が眠る多磨霊園』の「内田良平」記事で「1894(M27)朝鮮半島で政府打倒に立ち上がった東学党支援のため、玄洋社から朝鮮に派遣された。そこで『天佑侠』を組織、革命戦線に加わる。」とある具合にです。
再渡韓した内田良平と「一進会」会長の李容九が共に進めていた日韓の合邦運動ですが、これは日本と韓国が対等平等の立場で合邦して、一つの大帝国とするというものです。
一進会は日本人が操縦するインチキ団体>
— ekesete1 (@ekesete1) August 26, 2020
日韓電報通信社長菊地忠三郎は内田良平が退韓後同人に代り一進会操縦の任に当り居りたるがhttps://t.co/FZvgPcY4hG(42画像目) pic.twitter.com/6d7XDu3CEG
編集者註:ツイートに添付されていた資料画像は、口語訳の箇所を拡大表示で確認しやすいように、シャンティ・フーラが差し替えました。
この資料は、アジア歴史資料センターで公開されているもので、国立公文書館、外務省外交史料館、防衛省防衛研究所から提供を受けた歴史資料(近現代における日本とアジア近隣諸国等との関係に関わる日本の歴史的な文書)ということです。
この資料は、アジア歴史資料センターで公開されているもので、国立公文書館、外務省外交史料館、防衛省防衛研究所から提供を受けた歴史資料(近現代における日本とアジア近隣諸国等との関係に関わる日本の歴史的な文書)ということです。
この日韓合邦運動が大きな働きとなったのが、1909年12月、「内田などが李容九とともに『一進会会長李容九および百万会員』の名で『韓日合邦建議書(韓日合邦を要求する声明書)』を、韓国皇帝純宗、曾禰荒助韓国統監、首相李完用に提出した」(ウィキペディア「内田良平」)ことです。
100万人署名は池田信夫のガセ
— ekesete1 (@ekesete1) July 31, 2020
一進会名義で1909年発表の声明に「百万の会員を代表して」とあるのを、池田がうろ覚えで署名を集めたと話を膨らませた
またその声明は日本人内田良平の自演>
「今回一進会の発表したる声明書の首謀者は内田良平にして」(海野福寿編「外交史料 韓国併合 下」657頁 pic.twitter.com/We9GJPg3HV
編集者註;このツイート主は、一進会とは日本人が「操縦」していた団体であり、一進会の声明文は、実際は内田良平らが日本国内で作成し、発表直前に韓国に持ち込んだ自演である、と主張しています。(ekesete1のブログ)
この「韓日合邦建議書」は「我が国の皇帝陛下と日本天皇陛下に懇願し、朝鮮人も日本人と同じ一等国民の待遇を享受して、政府と社会を発展させようではないか」との文言で閉められており、日本が韓国併合を正当化する文書として利用されることになるのです。
つまり日韓併合は、「自発的に朝鮮を併合してくれと申し出たのを、日本はそれを受けたものであって侵略でも強制でもなかったとする証拠として利用された」(歴史が眠る多磨霊園「内田良平」)わけです。
そして実際に行われたのは日韓対等の日韓合邦ではなく併合であったため次の結果になっています。
李容九は「売国奴」と呼ばれ1912年に憤死、「内田は日韓併合後の政府の対韓政策には批判的で、後に『同光会』を結成して韓国内政の独立を主張している。」(ウィキペディア「内田良平」)
既に既定路線であった「日韓併合」〜「日韓合邦」は“まやかし”
「一進会」会長の李容九らと盟約し日韓合邦運動を展開、日本の一方的韓国併合後は「韓国内政の独立を主張」とされる内田良平です。しかし翻って、彼が本気で日本と韓国が対等平等の立場で合邦できると考えていたのか? これは甚だ疑問です。
既に1905年の第2次日韓協約の時点で、日本は韓国の外交権を奪い、統監府を設置することに、つまり保護国として扱うことが決していたのです。
日本が外交権を奪い保護国とした韓国と対等の合邦? あまりにも不自然です。日韓合邦を日本国民が納得できるか?といえば到底無理でしょう。
韓国の外交権を掌握した大日本帝国が、漢城に設置した統監府庁舎
Wikimedia Commons [Public Domain]
そして内田良平の日韓合邦の題目が「まやかし」に過ぎないと断ぜられる決定的なものもあります。
内田が薦めて「『一進会会長李容九および百万会員』の名で『韓日合邦建議書(韓日合邦を要求する声明書)』」が提出されたのは1909年12月で、その内容としてはあくまでも“日韓合邦”です。しかしその前に、既に日本側では“韓国併合”は既定路線となっていたのです。ウィキペディアの「韓国併合」記事に次にある通りです。
1909年(明治42年)7月6日、桂内閣は「適当の時期に韓国併合を断行する方針および対韓施設大綱」を閣議決定し、日韓併合の体制が整った。
桂内閣、いうまでもなく首相は桂太郎で、彼は第32話で見たように玄洋社社主の杉山茂丸と陸軍の児玉源太郎の盟友コンビに加わった人物です。
そして桂内閣でその外交を担当した外相は小村寿太郎です。小村外交のキーパーソンが玄洋社の山座円次郎でした。
桂首相の盟友が杉山茂丸であり、小村外相の下には山座円次郎がいたのです。その桂内閣の日韓併合の閣議決定の内容を内田が知らないはずがないのです。
日韓併合の既定路線を承知しながら日韓合邦を推進? 無理です。日韓併合を進めるために「韓日合邦建議書」を李容九に提出させた、こう見るのが自然なのです。お題目や見せかけはともかく、桂内閣を動かし日韓併合を進めた勢力に玄洋社があったと見るのが妥当なのです。
1905年、小村外交で調印にこぎつけた日露講和条約(ポーツマス講和)では、その内容骨子に「日本の朝鮮半島に於ける優越権を認める」があります。
日露講和条約で「満州から日露両国は兵を撤退する」とあっても、杉山茂丸たちはそれに逆らって満洲に兵を駐屯し、満洲の植民地化を図っていたのです。
それに対し、韓国に対しては国際的に「日本の朝鮮半島に於ける優越権を認める」としているのです。これで杉山茂丸たちが純情初心にも、日本と韓国の対等合邦を目指したと考えるほうが無理があります。
「大アジア主義」の思想と中身 〜グレゴワール・サストル氏の論文から
ネットでグレゴワール・サストルという方の「アジア主義と国益―明治期の内田良平を例として」という論文が読めます。内容は非常にスッキリと論理的で、内田良平や玄洋社の実態や狙いが「なるほど、そうだったんだな」と思わされます。記された内容はほぼ事実と見て良いと思われます。
この論文では、1894年に内田が玄洋社によって朝鮮に派遣されたのは、元々玄洋社は朝鮮に深い関心をもっていたからであり、派遣された内田は朝鮮で情報収集に励み、その玄洋社の狙いは朝鮮半島の動乱を通じた日本と清国の軍事衝突であったとしています。
また、内田が創設した黒龍会の目的は「シベリアや満州、韓国の情報を集め、これらの地域への日本の勢力拡大を図ることであった」としています。黒龍会は玄洋社の海外工作センターとも言えるのですが、玄洋社そして黒龍会はシベリアそして満洲の獲得を目指しており、そのためにも「まず韓国が必要と考えられた」と指摘しています。
この状況下で1906年に内田は、伊藤に随行する形で韓国に滞在することになったのです。内田の韓国に対する姿勢はこの論文では以下のように結論づけています。
内田は一進会を利用して併合計画を進めた。そして日本は完全に韓国を支配することに成功し、内田も自らの目的を達成したのである。
更に、この論文の最後が内田及び玄洋社の掲げる「大アジア主義」の思想と中身がいかなるものかを知るのには好適であって興味深いです。次のように論文は閉められています。
内田の理想は、アジア諸国を支援する日本より、これらを支配する日本であった。彼にとってアジアを「導く」という意味は、日本がアジアそのものになること。言い換えれば日本のためにアジアを否定した。
もっともこれは、日本がアジアの利益のために力をつくし、欧米列強からアジアを守ったと単純に彼が信じていたからかもしれない。
連帯は日韓併合のような、軍事力による支配によるものではなく、平等と自由に基づくべきものであることを理解していなかったのである。
もっともこれは、日本がアジアの利益のために力をつくし、欧米列強からアジアを守ったと単純に彼が信じていたからかもしれない。
連帯は日韓併合のような、軍事力による支配によるものではなく、平等と自由に基づくべきものであることを理解していなかったのである。
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家族や友人に対する愛は「隣人愛」だと教えられています。そして隣人愛を阻む“野心”が「所有欲」だとも。
日本の隣国韓国に対する姿勢は「隣人愛」よりも「所有物」扱い的な姿勢を強く感じてしまいます。日本と隣国の韓国とは摩擦が絶えず、ネトウヨと称される人々などから「嫌韓」の姿勢が打ち出されています。これは「生意気な韓国に鉄槌を加え思い知らせてやれ」といった姿勢で、昨年の日本政府による韓国のホワイト国排除などはその「嫌韓」の象徴でもあるでしょう。
要は、韓国は調教・管理の対象という姿勢です。こういった姿勢は日韓両国に決して幸せな結果をもたらしはしないのですが、ではこういった姿勢はどこから生じたのか? 110年前の日韓併合がやはり大きな影響を与えていると思います。
当時の日韓関係の最重要人物の一人が玄洋社の内田良平です。1901年、黒竜江省にちなんで内田良平によって「黒龍会」が創設されました。黒龍会は玄洋社の海外工作センターと称されます。黒龍会は日本の右翼の源流でもあるでしょう。
ところが、当時右翼の源流になる玄洋社や黒龍会は、「嫌韓」どころか日本と韓国の対等平等の合一である「日韓合邦」を掲げて運動をしていたのです。当時の右翼源流の「日韓合邦」の姿勢からすれば、現在の「嫌韓」とは相容れないものでしょう。
なぜ右翼の対韓国の姿勢がこうも変質したのか? …いや、よく見れば変質したと言うより、当時の玄洋社・黒龍会の姿勢が現在まで遺伝子として受け継がれていると見るほうが良さそうです。現に玄洋社・黒龍会の流れを汲む組織であろう「国民同志会」の昨年の活動報告として、日本政府に韓国をホワイト国の指定から早急に外すよう建白したとしています。