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ユダヤ問題のポイント(日本 明治編) ― 第36話 ― 明治時代の終わり
韓国併合は明治天皇の意図 〜八咫烏、大室家は共に海外拡張路線
韓国の民族衣装を着た韓国統監時代の伊藤博文
Wikimedia Commons [Public Domain]
このところ第32話から連続して1909年の伊藤博文暗殺の背後には、武力を持ってしても積極的に海外に勢力拡大を図る勢力があったこと、その勢力の動きが韓国併合、満洲国設立の動きに繋がっていたことを見てきました。
ロシアとの協商路線を志向した伊藤博文は海外勢力拡大派と対立する立場にあって、「韓国は自立独立すべき」「満州は清国の領土であって満州の経営、植民地化などもってのほか」との表明をしていました。伊藤は日本が中国、そして英米と関係を悪化させ深刻な闘争になることを憂慮懸念していたのです。
こういった伊藤博文の姿勢と真っ向対立していたのが陸軍の児玉源太郎であり、桂内閣でもありましたが、その背後にはロシアとの早期開戦を唱えていた杉山茂丸、頭山満、内田良平、山座円次郎などを擁する玄洋社があったのでした。
玄洋社とはいかなる組織か? 睦仁親王のあとを継いだ2代目裏天皇が堀川辰吉郎であり、堀川辰吉郎に仕え保護養育したのが杉山茂丸、頭山満とされています。そして堀川辰吉郎が総裁を勤める八咫烏直属の五龍会の白龍会の総裁が、玄洋社の実質社主であったとされる杉山茂丸でした。つまり白龍会=玄洋社と見なせます。
満鉄を用いて満洲の経営、植民地化の絵図を描いたのが杉山茂丸であり、韓国併合の最重要人物の一人が内田良平でした。伊藤博文暗殺には玄洋社の面々の関与が、少なくとも伊藤暗殺の背後には玄洋社の意思が働いていたと見るのが自然です。そしてその伊藤暗殺は韓国併合に直結していました。
こうやって見ていくと、後の泥沼の日中戦争、悲惨な太平洋戦争に繋がる韓国併合や満洲国設立に、その背後から深く大きく関与していたのが裏天皇の八咫烏勢力であったことが浮き彫りになってきます。
…しかし、こういった海外拡大路線を動かしていったのは裏天皇グループだけではありません。まず間違いなく満洲の植民地化の動きもそうでしょうが、特に韓国併合に関しては、玄洋社の内田良平以上の最重要人物がいます。誰あろう明治天皇です。
明治天皇とは長州田布施村出身の大室寅之祐であり、その大室寅之祐を奇兵隊に誘い込み、保護指導してきたのが同じ田布施村出身の伊藤博文だと記してきました。大室・明治天皇にとって伊藤博文は親族以上の深い関係であり恩人でもあります。
その伊藤博文暗殺に大室・明治天皇が関与したか否かは全く不明です。しかし、明治天皇が伊藤博文暗殺を利したのは間違いない事実と見受けられます。2019/09/04の竹下さんの記事にあるように韓国併合は明治天皇の意図でもあったようです。大室寅之祐の曾孫を名乗る張勝植氏の次の主張をご覧ください。
「教旨」によって、ひいおじいさんの基元は、影武者(Comprodor)を代わりの明治天皇として立てて、自分は、息子・仁錫と一緒に帳家の戸籍に変えて朝鮮に入りました。それが1910年の韓国併合の少し前。朝鮮半島に新しい国づくりをするためです。(『朝鮮半島から「万人幸福の世界作り」を目指した明治天皇』p24)
明治時代の3名の天皇 〜計画されていた明治天皇の朝鮮移住
大室寅之祐の曾孫を名乗る張勝植氏によると、大室・明治天皇は「山家」として雌伏していた張家の4代目、韓国併合の少し前に日本には影武者をたてて、自身は張基元として朝鮮に入り、朝鮮半島での新たな国造りに取り組み、1971年(131歳)まで生存していたと主張しています。
朝鮮半島に移った明治天皇が立てたとされる影武者は箕作奎吾でしょう。箕作奎吾は15歳で幕末の遣欧使節団の一人として慶応2年に渡欧しています。
外国語と地質学に通じていた大秀才の箕作奎吾でしたが、公的には明治4年(1871年)に19歳の若さで溺死したことになっています。ただし、この溺死とは戸籍を消すための偽装でしょう。
明治維新とは「英領日本」の完成でした。それで英国女王の麾下に「政体天皇」の大室・明治天皇を置き、「國體天皇」の孝明天皇は睦仁親王と共に歴史の舞台裏に隠れるという構図になりました。
1858年の日英修好通商条約以降の日本における2つの支配構造
裏で孝明天皇のあとを引き継いだのが睦仁親王です。また「英領日本」である以上、日本支配層から英国女王を初め外国要人などと連絡や交渉ができる「影の天皇」が必要とされ、その役目として白羽の矢がたったのが大秀才の箕作奎吾であったように思えます。
箕作奎吾が「影の天皇」となったのは、英語や地質学などが堪能であっただけではなく、やはり血流もあったようにも思えます。張勝植氏は大室・明治天皇の影武者となった人物を「徳川家の血を引く人」と語っています。
また「箱コネマン」さんが箕作奎吾と「似ている」と指摘されていたのが田安徳川家の第5代・8代当主徳川慶頼でした。どのような経緯を辿って箕作家に箕作奎吾が入籍したかは不明ですが、徳川慶頼の血を箕作奎吾は引いていたように思えます。
徳川慶頼と明治天皇は似ている。 pic.twitter.com/QZ1uYfaKIX
— 𓉤箱コネマン𓁷 (@HAKOCONNEMAN) August 30, 2019
箕作奎吾と徳川慶頼の顔の比較
さて、「1910年の韓国併合の少し前」に大室・明治天皇は張基元となって「朝鮮半島に新しい国づくりをするため」朝鮮半島に移住したとのことですが、もし伊藤博文が存命であったならば、大室・明治天皇がこのような振る舞いをすることは絶対的不可能だったでしょう。
その反面、伊藤博文が死去したからといって何らの準備もなく、急に大室・明治天皇が朝鮮半島に移住することも、これもまた到底不可能です。水面下で相当前から、大室・明治天皇が張基元となって朝鮮半島に移住するのは計画準備されていたと見る以外にはありません。日本が大陸に軍事力をもっても進出していくのは、大室・明治天皇の意図でもあったでしょう。
以前見たように福沢諭吉の薦めもありましたが、1900年台初頭から大室・明治天皇は兵器購入資金獲得のため、数十万人もの日本の女子を騙して売春婦として外国に売りつけているのです。大室・明治天皇に軍事力による大陸進出の意図があったのは明らかでしょう。
明治維新で政権を乗っ取った連中の
— Space Commander Zero-i (@Q92754414) July 17, 2020
福沢諭吉は
「日本人女性を売春婦として海外に売って
兵器購入資金を作る」ことを提案したが
天皇家は1900年頃から三井・三菱を
使って欧米向けに売春婦を輸出
売られた日本人女性は
累計50万人と言われている
彼らは自ら売国奴の道を選んだ連中だった
海外拡張に日本を駆り立てたもの 〜目的のため手段を正当化するハイアラーキー
張勝植氏はしばしば世界幕府や世界天皇と語り、大室・明治天皇(張基元)は「万人幸福の世界」を目指していたとします。
要は世界幕府、つまり世界統一政府を樹立し、日本の天皇を含め、世界の王家の血流を受け継いだ者(張勝植氏自身でしょうね)が世界天皇・世界王となって「万人幸福の世界」を成立させるということでしょう。
そして、これは霊能力の高い大室家の家系が代々霊能で受けてきた「教旨」を奉じるということのようです。
一方で、韓国併合や満洲の植民地化を図っていった玄洋社=白龍会などは八咫烏直属の五龍会の一つでした。八咫烏もまたカバラ熟達の霊能者集団でした。彼らも霊能で霊存在からの指示を受け取り、実践に移していたはずです。
大室家にしても八咫烏にしても、その霊能で受け取った指令を彼らは「天(神)の計画」と受け止めていたようですが、実際にはその指示を出していたのはハイアラーキーだったわけです。
「教旨」でも「天(神)の計画」でも共通した事柄があります。目指す先は「万人幸福の世界」や「四海同胞」や「一視同仁」だとか言葉だけ見れば美しいのです。この理想世界のため世界統一政府を樹立するとの理屈ですが、この理想世界の言葉はともかく、中身とその実体は明らかにしていないのが問題の一点です。
そして更に問題が理想世界を樹立する過程です。理想世界を実現するためには、大衆が戦争で殺され傷つき、強姦され売春婦にされ、生活の糧を全て奪われても問題ないとする姿勢です。目的の理想(大善)のためならば、その過程や手段が暴力や騙し・強盗、つまり明らかな悪であっても善に転化するという思想です。
「ウソも方便」「善巧方便」、事実が悪でも上手に糊塗して善に見せかける、これがつくづくハイアラーキーの根本的な姿勢だったな、と思います。
武力をもって海外拡大路線をとった日本、それを背後で動かしていたのは、大室・明治天皇であり八咫烏でもあったのですが、その更に背後にあったのがハイアラーキーです。
改めてですが、明治期における日清戦争、日露戦争、韓国併合、満洲の植民地化の動き等、これらすべてがハイアラーキーの計画・ハルマゲドン計画の一端だったわけです。
明治が終わり大正が始まったということは、当然ながら明治天皇が崩御し、大正天皇が即位したことを示します。
明治天皇、この明治編においては、「英領日本」に伴い“表”の政体天皇に立てられたのが、睦仁親王とすり替わった長州田布施村の大室寅之祐であり、睦仁親王は“裏”に回り、國體天皇の孝明天皇のあとを引き継いだと記してきました。大室寅之祐と睦仁親王が、同時に一緒に大嘗祭を執行し、天皇の座を践祚したことも。更に「もう一人の明治天皇」“影天皇”の箕作奎吾がいたことも。明治時代に“表” “裏” “影”の3名、三つ巴の天皇体制が敷かれていたわけです。
大室寅之祐の曾孫を名乗る張勝植氏の『朝鮮半島から「万人幸福の世界作り」を目指した明治天皇』p35では、「1912(明治45)年に睦仁さんが亡くなった。これで明治時代が終わり、大正時代が始まった。」とあります。同頁には明治時代天皇に“影武者”がいたとも記しています。そして同著には、大室・明治天皇は1910年の韓国併合に伴い朝鮮半島に移住したとも記してあります。
睦仁親王の死去、明治天皇の朝鮮移住、これらは驚きの情報ではありますが、同時にこういった事柄は、ウソをつける性格のものでもありませんので事実と見て良いでしょう。明治“裏”天皇、國體天皇の睦仁親王が死去し、明治“表”天皇、政体天皇の大室寅之祐が日本を去ったことで明治時代が終焉を迎えたことになります。
明治時代の後半からは日清戦争を皮切りに、日本は海外拡張路線を進みました。これは睦仁親王とその周辺の八咫烏の意図でもありますが、大室・明治天皇の意図でもありました。