「抱撲」奥田知志氏と「サイボウズ」青野慶久氏の対談 〜 「自立について」そしてその先にある「幸福について」

 あけましておめでとうございます。
幸福な一年になるような記事を選びたいな、と思っている時に見つけた動画です。「抱撲」というNPO法人があります。リーマンショック時よりも深刻と言われる今のコロナ禍不況で、社会的に弱い立場の人々が命の危機に直面する事態をなんとか防ぎたい、「自己責任」と言って切り捨ててはならないとクラウドファンディングを開始され、目標額1億円を上回る、1億1,500万円を1万人の人々が寄付しました。これにより全国で126件の支援付き住宅を確保し、家を失った人に繋いでいるとの報告がありました。寄付された1万人の人々は、いつか自分が困った時にも支え合える社会にと、当事者として寄付された方が多かったそうです。
 その抱撲の理事長、奥田知志氏とサイボウズ社長の青野慶久氏が「自立」と人との繋がりを語っておられました。「自立」を語るうち、その先にある「幸福」とは?という話になります。幸福という「目的」と、幸福になるための「手段」が混乱している現代に、コロナ禍が本来の目的を問い直している、本来の幸福に立ち返ろうと結ばれています。要点だけを書こうと思っていましたが、どの会話も落とすのが惜しく、ほとんど書き起こしてしまいました。
 映像配信で「幸福」について、「波動」高く暮らすことの大切さを学んでいると、するりと腑に落ちるお話でした。
(まのじ)

注)以下、文中の赤字・太字はシャンティ・フーラによるものです。

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奥田知志 サイボウズ青野社長と語る 「#自立とは何か?」
配信元)


(0:40〜)
抱撲の活動
 抱撲は、32年前からおにぎりと豚汁持って路上生活者を訪ねて回り、住まいの手配や命を守る活動をしてきた。しかし家を手配できた野宿者が「自立」した後、ポツンと部屋で一人の姿を見ると、これでは路上にいた姿と変わらない。何が解決できて、何が解決できていないのか。この人には何が必要なのか、ハウスでは満たされない、ホームが必要。ハウスレスは経済的困窮、ホームレスは社会的孤立。
今や日本社会がホームレスという路上に追いついた時代になった
ホームレスは全てを失う状態、家がない、お金がない、そして希望がない。もう一度希望の火を灯すのは人間しかない。支援の形を縦割りで考えるのではなく、一つ一つの出会いの中で支援の形を広げてきた。子供、高齢者、ホームレス、困窮者、就労、障害福祉、刑務所出所者の支援にも及ぶ。

(10:50〜)
政権「自助」を言うのであればヘルプサインに気づく情報共有が必要
奥)組織の中で情報共有していくキントーンというサイボウズのシステムを導入している。トップは幹部と話すことが多いが、このシステムで全員に語りかけることができるようになった。
今日のテーマは「自立とは何か?」
菅政権の「自助 共助 公助」、「自分でできることは基本的には自分でやる。自分でできなくなったら家族や地域に協力してもらう。それもできなくなったら必ず国が守ってくれる。信頼される国づくりをする。」という表明があった。
これについてどう思うか?

(14:50〜)
青)自助で倒れてしまってから助けを求めるのは「間に合ってないやん」。めちゃくちゃリカバリーコストがかかる。公助が出るときには自分もまわりも潰れている。もしもその順番で並べるのであれば、きちんとした情報共有ができていて、誰が困っていて、誰が困りそうなのかを把握できていなければいけない。私たちの会社の中でも、普段から声かけ、情報を把握する。自助、共助はちゃんとフォローできる体制を作ってから言うべき

奥)日本は、自分から弱音を吐けない、助けを求められない。客観的に把握できるような情報共有が必要だろう。

青)私たちの会社のキントーンは自治体と一緒になって、虐待児、虐待防止に無料で活用している。虐待されている子供は誰に相談して良いかわからない。近隣の人たち、学校の先生、児相、病院がそれぞれ少しずつ情報を持っているけれども共有されていないので、「あれ、おかしい」と気づくのが遅くなる。ファックスや筆記で情報をやりとりし、引越しなどでデータは引き継がれなくなる。子供の辛い状況が続く。インターネットという手段があるのに使われていない。自助、共助というのであれば、インターネットの技術を使ってしっかり情報共有の形を作れと言いたい。
事実上、気づかなければ助けに行けるはずがない。共助できない
見えにくいトラブルはますます気づけない。周りは知らずに生きている。



奥)社会全体の空気として「助けてもらってもいいんだよ」と言いにくい。声を出してもいいんだという全体の暖かい暗黙の空気みたいなものがないと、技術だけでは変わっていかない。暖かい社会と技術の両輪。
日本の公助は申請主義で、「困ったら自分から窓口に来い」(というプッシュ型)


青)プッシュ型というのは自分から動けない人のためには何の役にも立たない。公助として動くためには把握しておかなければならない。

奥)自助、共助、公助の言葉だけが先行して、助けてもらえる気がしない。

青)政府が情報を隠したり改ざんしたりしたら、情報を預けて大丈夫かと思う。

(24:10〜)
奥)情報取集の大切さはわかるが、プライバシー、人権との関係でどう考えるか。

青)恐らくこれから人類はそこに葛藤をしながら、対話しながら落とし所を見つけていくだろう。
しかし他方、虐待されている子供の立場に立ったら、プライバシーはいいから早く助けに来て、ということではないか。子供が生きてるのが辛い状況の時にはまず救うことが第一ではないか。助けることをせずしてプライバシーを語ることに憤りを感じる。「子供の気持ちに立てよ」と言いたい。
(温和な青野氏が厳しい口調に。)

(25:10〜)
助け合いの失敗も含めて社会知を蓄積して共有する
奥)困窮者の支援に正解はない。助けるつもりで失敗することもある。しかし失敗があるかもしれないし、ご本人の望んでいることとは全く違うかもしれないけれども、目の前で一人で苦しんでいる人が居たらまずは行く、これが原則だと思う。その後、検証することは大事だが。

(26:05〜)
青)社内で、うつを病む人が出た時、最初はオロオロどう対処して良いのかわからず、うまく対処できなかったこともあるが、何度か繰り返すうちにノウハウが溜まって来て、それが共有されているので、いつかそれが組織知に変わってくる。そうすると後から入って来た人も学ぶことができる。失敗して、共有して、どんどん賢くなって行く。そこから逃げてはいけない。それは辛い。辛いことがいっぱいあるけれども、でも逃げずに一歩ずつ前進しよう。

(27:00〜)
奥)私は牧師で、教会の標語がある。「神様は何の意味もない命をおつくりになるほど、おヒマではない」。失敗などにも全て意味があって、その知見が蓄積された時に賢くなっていく。今回の「自助、共助、公助」では残念ながら公助が出てくる時には全て潰れてバラバラになっている。共有の知識や経験値になっていかない。その究極の言い方が「自己責任」だと思う。

(29:05〜)
「自立」とは依存先を増やすこと
奥)青野さんにとって「自立」とは?

青)辞書的には、他の力を借りずに自分で立つということだが、どこまでか?例えば経済的自立を考えると、会社に雇われている時点で自立と言えるか?お客さんにお金をもらって自立と言えるか?山奥で一人で暮らしていても自立と言えるか?山の恵みを得て空気を吸っている。
究極的には自立できない

(30:35〜)
青)僕は東大の熊谷晋一郎先生の言葉がすごく好きだ。重度障害のお医者さんでもある熊谷先生は「自立とは依存先を増やすことである」と書かれていてシビれる。究極的には人間は自立などできないのだから、どれくらい自分の杖となって支えてくれる存在を持っているか、依存先となる杖をたくさん持っている人が自立していると確かに言える。

(31:25〜)
奥)熊谷晋一郎先生のことをご存じない方のために簡単に紹介すると、彼は重度の脳性麻痺で今、大きな電動車椅子に乗っている東大の先生、お医者さんでもある。小さい頃からお母さんが一生懸命鍛えようとしていた。「晋一郎、私がいないとあなたは生きていけないのよ。」と口癖のように再々言われていた。熊谷先生はある時点で「あ、これはいずれ自分は殺されるかもしれない」と考えた。どれだけ訓練しても脳性麻痺があって自分で歩くこともできない。母親はきっと愛情から、親亡き後の息子のことを考えて自分が死ぬ前に息子を殺してから死ぬだろう。これがきっかけとなって熊谷先生は、お母さんだけに頼るのではなく、それ以外の依存先を増やすということが自分にとっての自立だったと話されている。辞書的な意味とは真逆だ。

(33:08〜)
青)もう一つ、自立の例がサッカーの岡田武史監督の話だ。ワールドカップの時、スーパースターのカズを外した采配のことを聞いた。「なぜあんなことを?あんなことしたら批判も浴びるし、負けたら日本に住めなくなる」監督は「いや、あれな、監督をクビになってもなんとか食っていけると思ったんだよ。」結局、思い切った決断ができるのは、なんとか食っていけるという依存先があったからだった。「安全な奴がチャレンジしている」という矛盾。あんな無茶なチャンレンジができるのは自分が安全なところに居るから。世の中で前向きに主体的にチャレンジしろと言うのであれば、まずは安全な空間を作ること。自分は何があっても依存先があるから大丈夫、誰かが助けてくれるというベースを作らないといけない。自立の考え方に近い。

(35:00〜)
奥)日本は80年代後半から激烈な競争社会になった。派遣法、国鉄民営化など民営化路線に入り、むき出しの極端な個人主義、人に依存せず、社会や国家をあてにしてはいけないという世の中になった。これによって逆にチャンレンジできなくなってしまった。依存先もない、セキュアベース(安全基地)もないところでは競争はできない。政府を小さくすればするほど個人は萎縮する。がんばれずに疲弊していく。

(39:20〜)
「自立」とは、健全な依存状態で、それは相互的、自分が幸せなもの
奥)抱僕の現場の感覚から言うと、「自立」とは健全な依存状態で、健全な依存とは相互的だと思う。支えたり、支えられたり、依存が相互的に存在している。しかし「相互」は平等ということではない。そこには個性や個人の問題がある。世の中には助けることが自分らしい人、助けられるほうが自分らしい人もいる。5つ助けたら5つ助けてもらう、という取引ではなく、8割助けてあげるほうが得意な人と、8割助けてもらうことが自分らしい人がうまく組み合わさっていく社会が自立する社会なのだろう。平等ではない相互性を個性として認めていくイメージがある。

(41:00〜)
青)相互性は一見ギブ&テイクに見えるが、どちらがギブでどちらがテイクか定義しづらい。(奥田さんが「あ、面白い、そこそこ」と食いつく)お世話をされないと生きていけない人がいる、この人のお世話をする人が生きがいを感じて幸せを感じた瞬間に、ギブ&テイクではなくなりダブルテイクになっている。そのような関係を増やしていけるといい。ビジネスだとウィンウィンの関係。

(41:50〜)
奥)支援活動も結局、自分のためにやっている。

(42:38〜)
青)私のイメージでは、国は不要。国はテイク&テイクが機能しない。それよりは個人の間でクラウドファンディングなどを通じて個人をつないでテイク&テイクの関係を作る。今の不作為の国を見るにつけ思う。

奥)なるほど。私は憲法で謳われるような国としての責務を問いたい。個人個人は、生まれ育った環境や事情で発信力や訴える力が異なる。繋がる力が本人には関係なく限定されてしまう。訴える力のあるところにお金や援助が集まっていく。なので、しばらくは国が必要。

青)本当に公助を前面に出して動いて欲しい。今は動いていない。自分の得意領域のインターネットは、まさに発信の敷居を下げてくれた。これまではメディアでしかできなかった情報発信を今は誰でもできる。テクノロジーをうまく使えば個人の発信力とは関係なく繋がれる。

奥)気づける仕組みをどれだけ作れるか、そして気づいた時に実際にケアする技術、そしてそれを囲む社会全体の空気、この3つが上手くかみ合えば、すごく生きやすい社会になるだろう。

(47:10〜)
青)誰かのヘルプサインが上がった、助けよう、助けた、感謝された、自分も嬉しい、相手も嬉しい、その映画のワンシーンのようないい関係をみんなで共有する、自分もチャンスがあれば助けたい、こうした人間の良心が広がっていくような気がする。

奥)こんな世の中になれば良いなというビジョンが共有されていくのがいい。自分にとって損か得かで終始して、人と関わるのも億劫になる。人と関わるのは大変だしリスクもあるが、その大変さを引き受けていかないと出会えない。コロナで分断された世界をインターネットでつなぎ直せる。

(50:15〜)
テクノロジーは手段、「生産性と幸福度」
奥)しかしあえて聞きたい。これまでの人と人との関係や世界があったところにテクノロジーを介した環境ができた。ある意味、代替えした。しかしポストコロナとなっても技術で代替え可能なもの、不可能なものはあると思う。2度と帰ってこない業種もあるだろう。普遍的なもの、代替え不可能なものはどう考えるか

(51:45〜)
青)例えば今は握手や乾杯はできない。それはそれで価値がある。しかし会話は何度もできる。所詮テクノロジーは手段であって、どう人間が使いこなすのかということだと思う。

(52:50〜)
それに関して、テクノロジーで懸念するのは「生産性と幸福度」だ。生産性を上げようとして幸福度を落とすと意味がない。例えばAIが将棋をする。とても強いので人間は2度と誰も勝つ日はこないだろう。将棋のTV中継をコンピューター同士で戦わせれば、藤井くんや羽生さんの給料を出さずに、より高度な対戦ができる。しかし、それはおもしろいか?という話だ。生産性は高いけれど幸福につながっていなければ意味がない。

他にも、ワインのテイスティングもAIが人間の舌をはるかに超える高度な精度でテイスティングができる。しかし、それはおもしろいか?人間はお酒飲みたい。人間にさせろ、大事なのはテクノロジーは所詮道具だということ。人間の幸福に繋がらなければ意味がない。何を最終の目的にするか、生産性、生産性?その先に幸福がついてこなかったら全く意味が無い。これはコモンセンスとして作っておきたい

(54:25〜)
奥)支援の世界も、自立、自立と言う。就労自立、生活自立、社会的自立と言うが、自立は目的ではない。なんために自立するのか。自立が孤立で終わっていく。野宿の時はモノはない、金はない、周りからは排除されるが公園ではみんなと過ごせた。これが自立できた瞬間に部屋でひとりぼっちになる。これは目的ではなかった。家に住んだり就労も全て目的ではなく手段。
テイスティングの話で言えば、純米酒が好きな人もいれば吟醸を好きな人、アルコールの入った三増酒が好きな人もいて、誰と飲むかでも味が違うのが人間。幸福は個人のもの。

(56:32〜)
「自分たちは幸せに生きるんだ」という決意があれば不安になることはない
青)100人100通り、幸福の形は人それぞれ違う
「幸福」を人類は探求しきれていない。食べ物や物質は何のために作っているのか。
主体的な気持ち、感謝する、感謝される、自分らしくあると幸福度が高いと言われる。
要は、幸福をいかに作り出すか、そこに気づけば自助だとか公助だとかはどちらでも良い。
「その人はそれで幸せになっているのか」手段を目的のように語るな、と。

(1:01:30〜)
青)自立の先にあるもの、それが幸せでなければならない。そしてそれは100人100通り
会社が儲かっただけで「幸せ」になっているか。幸せになるために会社で働いているのではないか。
最後の最後に何を目指すのか、コロナが流行ろうが、ロボットが仕事を奪おうが「自分たちは幸せに生きるんだ」その決意があれば不安がることはない。幸せに生きるためには仲間がいて、笑いあって、話し合って、これがあれば人間幸せに生きられる。
もう一度「幸せ」に立ち戻って世の中を作り直そう。

(1:03:25〜)
本来の目的「幸せになろう」というメッセージから、葉祥明さんの「しあわせってなあに?」という絵本がある。
「私の幸せはみんなの幸せ、みんなの幸せは私の幸せ」これが結論だった。
それが社会なのでは。

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