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ユダヤ問題のポイント(日本 平成編) ― 第4話 ― 大激震の背後で
今、大震災が発生すれば?
1995年(平成7年)1月17日早朝、トイレに立っていた私、突然「どーん」という大きい音が響きました。
「何だ?ガス爆発でも起きたか?」
そう思っている間に続いて激しい揺れが大きく強く家屋を揺さぶります。
「ギシギシ、メキメキ、ビキビキ、バキーン!!」
私のところは木造家屋で、その梁などが折れ割れたのでは?
凍りつくような時間が長く続くきます。ようやく揺れが鎮まったあとは、本当に妙な長い静寂です。人の声も犬さえ鳴き声を一切上げないのです。何もかもが息を潜めていたのです。阪神・淡路大震災の発生でした。幸い私のところは大きな被害にはなりませんでしたが、私の街でも全壊や半壊家屋があちらこちらに。テレビを見て情報を探っていると、やがて神戸の街が炎に包まれていきました。信じがたいような光景が続いていったのでした。
当時の日本の政府は村山内閣でした。今思ってもこの政権であって良かったと思います。大震災は人工地震であり、アメリカ側からの攻撃だった模様です。
神戸を中心とする関西圏の被害は甚大でした。その中でも当時の政府対応は「不幸中の幸い」だったのです。村山内閣は少なくとも被災者の救済に懸命だったのです。
また「不幸中の幸い」は他にもありました。被災者同士での助け合いや連携、そして外部ボランティアの数々…。何とかこの大災害の苦難を乗り越えようとの気概、そして実際の行動が当時に日本にはあったのです。
…しかし、現在の日本で再びあのような大震災が襲ったとすれば…、想像するだけでゾッとします。現在の岸田政権が被災者の救済に向かうでしょうか? 見せかけや言葉ではそのように装うでしょうが、「放ったらかし」で済めば良い方でしょう。
日本国民の救済どころか、安倍政権以降の日本政府は全く逆のベクトルで動いているのです。日本政府自身が日本の経済・産業を破壊し、「法」を「法の精神」を破壊し、「日本国民殺し」を多角的に敢行してきているのです。現在であれば、「被災者の放ったらかし」だけでなく、被災地に敢えて種々の酷い犯行を行わせるようにするのではないでしょうか?
そうやって被害を更に甚大に拡大させ、それでその原因は「法の整備ができていなかったせいだ。」とし、一気に「緊急事態条項」を成立させていくでしょう。大災害という人びとの不幸を利用した、どさくさ紛れの「火事場泥棒」「ショック・ドクトリン」という手口です。
現在において懸念・予想されている大災害は、「鳥インフルエンザ」の「人工パンデミック」のようです。実際にこうなれば、すでに「緊急事態条項」が成立していれば、日本政府は「緊急事態条」を宣言し戒厳令に入るでしょうし、成立していなければ、この災厄を利用して「緊急事態条項」を成立させていくでしょう。全く油断ならない状況にあるのです。
⚡【拡散】『悲報』緊急事態条項で本当に日本が終わる‼️
— ルパン小僧🍑💍kuu331108 (@kuu331108) March 21, 2023
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オウムの背後存在
この平成7年は、日本列島にもう一つの激震が走った年でもあります。3月20日白昼に発生した「地下鉄サリン事件」がそうです。地下鉄サリン事件は東京・日本の中枢を狙った、化学兵器を利用した無差別テロ事件です。犯人はオウム真理教で、散布された化学兵器は神経ガス・サリンとされます。
✅ 〜01:20:地下鉄サリン事件発生時の様子
ウィキペディアの同記事では、
1995年当時としては、平時の大都市において無差別に化学兵器が使用されるという世界にも類例のないテロであったため、世界的に大きな衝撃を与えた。
としています。
しかしこの地下鉄サリン事件は、その全容や目的がはっきりしない不可解な謎を多く抱えたたままの事件となっています。何しろ教祖の麻原彰晃のまともな供述が皆無で、死刑に終わったのです。麻原彰晃は東京拘置所で薬漬けにされていたとの見解が出されていますが、それは事実と思えます。「口封じ」のためで、背後には巨大な力が動いていたと見るべきです。
2017/09/01 時事ブログのコメントも参照
ただし、すでに時事ブログでオウム真理教についての見解は多く出されています。総括的な見解としては、2018/07/06の竹下さんの記事には事件の背後に「旧満州と北朝鮮、韓国、そして日本をひとまとめにしたネオ満州国とも言うべき国を作ろうとした勢力」があったことを指摘し、次のように記載されています。
内実としてオウム真理教は、統一教会、創価学会に、総じてコシミズ氏の見解の北朝鮮勢力に乗っ取られていたのが重要点でしょう。オウム事件の背後は裏天皇グループがあったということです。その上にCIAが、アメリカの支配者たちが深く絡んでもいたということです。
オウム事件のキーマンがオウム内部では、オウム建設大臣早川紀代秀と刺殺されたオウムの科学大臣村井秀夫、外部では安倍晋太郎と晋三の親子、そして笹川一族あたりでしょうか。要するに満州人脈です。
早川はオウムの裏を取り仕切る実質のNo.2、そして早川は統一教会の人間で、統一教会設立の「世界統一通商産業」の社長としてロシア・北朝鮮から武器や生物兵器、覚醒剤の原料を輸入ていたようです。
一方で、2018/07/17の竹下さんの記事の中に、
安倍晋太郎(元外相)は、1980年代にロシアと取引をして、ロシア-日本カレッジを後援しているが、ここはオウム真理教(外国諜報機関のフロント)に運営され、崩壊したロシアから軍事科学者を雇っていた。
とあります。
オウム大幹部だった村井は「知りすぎた男」で、口が軽かったので「口封じ」刺殺されたのですが、村井はその経歴として神戸製鋼に勤めていて、その時の同僚が安倍晋三だったのです。
また、オウムは覚醒剤を製造しており、それを販売したのは安倍晋三に近い住吉会系の暴力団だったようでもあります。こういった全般に関わったのが笹川一族でもあるでしょう。
「年次改革要望書」の作成
日本を、世界を震撼させた1995年「地下鉄サリン事件」とは、全般にごくざっくり言うと、裏天皇グループのハルマゲドンを睨んだ日本軍事クーデターの予行演習(あわよくば本番も)だった感です。ここにはもちろん「別班」も絡んでいた模様でもあります。彼らは「懲りない人びと」でして、2008年にも安倍晋三を担いだ軍事クーデターを画策していたことは、大正編 ― 大正編に先立って(下)で見てきた通りです。「日本を中心とするNWO」実現への野望の現れです。
神戸淡路大震災に戻ると、これにオウム村井も関与した可能性もあるようです。こうだとなると、大震災は単にアメリカ側(デイヴィッド・ロックフェラーを首魁とする「アメリカを中心とするNWO」を進めている勢力)からの攻撃だけでなく、裏天皇グループも関与していたことにもなります。
1990年台なかば、アメリカ側と裏天皇グループが複雑に絡み合う中で、日本はいよいよ逼迫困窮していくことになります。1994年には日本貧困化を具現させる最初の「年次改革要望書」が出されていたようです。個々具体的な「市場開放」「日本改造」を指示するのが「年次改革要望書」であり、1989年の当時のブッシュ大統領からの脅迫「日米構造協議」の具現でもあります。
ただし、「年次改革要望書」も単にアメリカ側だけからの脅迫ではなかったのは、すでに昭和編 第45話で見ています。裏天皇グループの一員であり、イスラエルの要人でもあったジョージ・パーディが「対日規制緩和要望書」を起草し、これを元に毎年の「年次改革要望書」が作成されたというものです。こうなると、日本を「構造改革」し貧困化させていった「年次改革要望書」とは、アメリカ側と裏天皇グループの合作ということになります。
しかしそれも当然だったかも知れません。「対日規制緩和要望書」起草のジョージ・パーディは裏天皇グループになりますが、同時に彼が設立企業のドレッサー・ジャパンのドレッサー社米国本社は、ブッシュ一族の経営企業でもあったのです。つまり、ジョージ・パーディとアメリカ側で日本を脅迫したブッシュ一族とは、切っても切れない関係だったのです。
ロックフェラーを首魁とするアメリカ側と裏天皇グループとは、互いの野望実現に向けて激しく敵対していた反面、利害が一致するものは簡単に手を組むのです。日本民衆を犠牲にし、貧困化させることには両者も一致していたことになります。
その中身は、現在の酪農家への日本政府の仕打ちを見ればわかりやすいのです。政府は酪農家に生乳の増産に踏み切るように促しました。しかし裏切り、現在では生産された生乳は廃棄させ、乳牛を殺傷するのに補助金を出しています。反面外国からの牛乳はどんどん輸入しています。これで日本の「酪農市場は開放された」ことになります。日本の酪農家を潰れさせ、その分以上に外国企業は利益を得る構図です。
ごく簡単には、「お前の国内の企業は潰して、俺達所有の企業に利益を与えろ。」、これが「市場開放」です。そして「俺達が恒常的にずっと利益を得られるように、そのために邪魔なもの、たとえば法律や文化・伝統も捨てさせ、何もかも作り変えろ。日本を改造しろ。」、これが「日本構造改革」となります。
さて、こう言った中身の「市場開放」「日本構造改革」を個別具体的に指示したのが「年次改革要望書」です。「年次改革要望書」の最初が出された翌年、日本列島は2つの大激震が走っていました。