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ユダヤ問題のポイント(日本 平成編) ― 第6話 ― 小泉政権の誕生
ロシアと日本、真逆の道に
ロシアでは、政治家となったウラジーミル・プーチンが1996年にボリス・エリツィン政権に参加。連邦保安庁長官、連邦安全保障会議事務局長を経て、1999年8月に首相に就任。同年12月にエリツィンが辞任、プーチンが大統領代行に指名され、2000年にはロシア大統領選挙を制して大統領に初当選しました。
同時期の日本では、1998年夏に橋本内閣から小渕内閣が政権を引き継ぎましたが、小渕総理が2000年(平成12年)早々に突如として病に倒れます。小渕総理はそのまま不可解な死去となり、2000年4月に密室の談合から森喜朗内閣が発足。
2000年にロシアはプーチンが大統領に、日本は清和会の森内閣に。ここでロシアと日本は真反対の道を歩んでいくことになります。
1991年末にソ連が解体されて成立したエリツィン大統領のロシアは、基本がハザール・ユダヤの勢力であるオリガルヒたちに、その国富が散々に食い荒らされてボロボロの状態になっていきます。
その中で、出世街道を歩んでいたプーチンはエリツィンの忠実な部下と見られ、プーチン大統領は引き続いてオリガルヒに有利な政権運営を行うと見られていました。しかし、その見方は完全に覆されていきます。大統領となったプーチンはロシアからオリガルヒを追放し、オリガルヒに繋がっていた政治家や政商も放逐していきます。
1993年(平成5年)夏に来日され、その講演録『元ソ連外交官が語る「ロシア-ユダヤ闘争史」の全貌』にて、アレキサンドル・イワノフ氏が最後部分で語っていた内容、「ユダヤ人たちは再びロシアの権力を握ったと思っているだろうが、しかしそれは続かないだろう、やがてロシア人の解放運動が巻き起こるだろう。私(イワノフ)は固く信じている」。その予言が、プーチン大統領の登場によって事実となっていくのです。
ボロボロになっていたロシアはプーチン政権下のもと復活していき、旧来以上の発展を遂げ、いまや地上世界の光となっています。しかし日本は、そのロシアとは真逆のコースを辿っていくことになります。
すでに日本は、90年代に長引く不況から「日本の市場の明け渡し(市場開放)」「構造改革」路線に乗せられ、経済的に疲弊しました。ただここまでは日銀とメディアは別として、日本国内の勢力による目立った「日本売り」の動きは見られませんでした。
ところが2000年の森喜朗内閣以降は、日本ではアメリカ側と結託していたであろう売国奴たちが白昼堂々と跋扈するようになり、日本を更にボロボロにしていきます。アメリカ側から逐次命令されるわけでもなく、自らが進んでアメリカ側に隷従して積極的に日本を破壊していくのです。
それは経済だけでなく、法を捻じ曲げて破壊し、何よりも日本のリーダーたちからその倫理観を奪っていくのです。いわゆる「今だけ、金だけ、自分だけ」の世界です。
この日本破壊の流れを確定させたのが、2001年4月の自民党総裁選でした。
小泉氏が自民党総裁に就任
2001年4月の自民党総裁選は、事実上は橋本龍太郎元首相と小泉純一郎元厚相との争いでした。前回に見たように、橋本元首相は間違った政権運営で国民を大いに苦しめました。しかし彼はそれを充分に反省しており、橋本派は自民党内の最大派閥で、当初は総裁選は橋本首相が圧倒的に有利とみらていました。…実際にそうなれば、日本国民にはかなりの救いとなっていたでしょう。
…しかし、結果は残念なものでした。小泉純一郎元厚相が、地方組織が実施した予備選での地滑り的勝利を背景に、橋本元首相を破る展開となったのです。マスコミを通じて広く大衆の支持を集める「小泉旋風」が巻き起こされていたのです。
橋本元首相を破った小泉元厚相は清和会に所属、森喜朗首相に続き連続の清和会の首相誕生となりました。この森内閣・小泉内閣からは一時期を除き、基本的には日本内勢力としては清和会グループが日本をずっと統治していくことになるのです。
清和会といえば、裏天皇の直接の部下であった岸信介が立ち上げたグループです。統一教会とは一体とも言えるほどの深い関係、つまり全体として裏天皇組織と見受けられます。また、CIAも深く絡んでいます。
これ笹川良一一族の笹川陽平の別荘での会合ですからね。
— 梵 (@ombon8) July 19, 2022
安倍首相と歴代首相らと夕食の写真を日本財団・笹川会長がブログで公開 - 産経ニュースhttps://t.co/eVryHbtddJ pic.twitter.com/p65qnQvRSY
マスコミのフルバックアップで「自民党をぶっ壊す」というセンセーショナルなフレーズで大衆の人気を集め誕生した小泉政権。小泉政権は本当に自民党を、自民党の国益を考える部分や基本的には憲法を守ると言った良識的な部分を「ぶっ壊す」のです。
この小泉政権誕生は用意周到に準備されたものです。遅くとも小渕内閣の時から小泉政権発足に向けた仕込みが続けられていたでしょうし、もっと前からその下工作はあったでしょう。
ちなみに、自民党総裁選前の2001年1月には大蔵省が解体され、その名前が消失しました。最強の省庁であった大蔵省は長期不況の責任を押し付けられ、その上メディアに激しく叩かれたのです。1998年の大蔵省接待の「ノーパンしゃぶしゃぶ事件」大報道が大蔵省つぶしに繋がりました。
『戦後史の正体』p327には次の評価があります。
戦後の日本社会では、官僚機構が「シンクタンク」の機能をはたしてきた...(中略)わずかに残っていたシンクタンクとしての官僚機構を崩壊させられた日本からは、国家戦略を考える組織が完全に消失してしまったのです。
アメリカ側・CIAには「日本をしゃぶり尽くす」のに大蔵省などは邪魔で、メディアなどを使って潰したわけです。そのアメリカ側・CIAは早くから小泉元首相に目をつけていたはずなのです。自分たちの傀儡政権を展開するのにうってつけの人物だとして。
Wikimedia_Commons [Public Domain]
なぜ小泉元首相が傀儡政権担当者としての白羽の矢を立てられたのか?
一つには小泉氏、彼の風貌があったでしょう。首相就任時などの彼への当時のおば様たちからの黄色い歓声は未だに忘れられません。他には彼の、他人が真似できない(詐欺師としての)「才能」です。そして何よりも彼は種々の問題を持つ人物だったからでしょう。
小泉氏の人物像
問題を抱く人物、…小泉元首相は多くのスネの傷を持ち、その分だけCIAなどは操作が容易だったはずなのです。
先に小泉氏の出自ですが、彼は政治家3代目です。祖父で政治家初代が「いれずみ大臣」「いれずみの又さん」などの異名を持つ小泉又次郎、神奈川のヤクザ「小泉組」3代目とのことです。
Wikimedia_Commons [Public Domain]
この小泉又次郎の娘の婿になったのが、小泉氏の父の小泉純也です。政治家として防衛庁長官を勤めた小泉純也は、婿養子になる前は鮫島性を名乗っています。しかし本名は朴純也、(現在は南さつま市)加世田の朝鮮部落の生まれともされています。
そして、その出生地はどうも昔は「鹿児島の田布施」だったようです。山口の「田布施」と同じく「田布施」で、どちらも特殊朝鮮部落です。小泉純也のウィキペディア記事には、彼は「学校を出ると朝鮮銀行に職を求め、お茶汲みをした」とあります。他の情報も種々ありますが、小泉純也が朝鮮部落出身の傍証の一つにはなるでしょう。
小泉氏は、その出自より問題になるのはその性癖と行動です。小泉元首相は数々の誤魔化しウソを行っていますが、彼が学歴詐称していたのは間違いない事実です。当時の週刊ポストが調査発表したのですが、小泉氏は官邸HPの経歴で「ロンドン大学政治経済学部」2年間留学としていましたが、これは詐称です。小泉氏サイドは慶応大学卒業の1967年から1969年まで「ロンドン大学政治経済学部」に2年間留学したとしていますが、実際は「2年間のロンドン滞在」で、ロンドン大学には9ヶ月間「聴講生」として在学、無論単位所得はなしだったようです。詳しくは2002年2月18日『★阿修羅♪掲示板』「大新聞・TVが報じられない権力中枢の学歴詐称疑惑 小泉首相は、慶応大学をいつ卒業したのか [週刊ポスト・ドットコム]」記事などを御参照ください。
内閣官房内閣広報室 [CC BY]
問題は、なぜ留学でもないのに小泉氏がロンドンに2年間も滞在したのか?です。彼は1969年に父・小泉純也の死去を受けて帰国、12月の衆院選に27歳で後継者として出馬していますが…。
彼がロンドンに滞在したのは、「ほとぼりが冷める」のを持っていたようです。当時ジャーナリストの木村愛二氏が提訴していて、2004年に民主党の平野貞夫議員が国会で質問もしていますが、小泉氏の「慶応大学時代レイプ事件」がありました。ざっとした内容は、小泉氏は「結城純一郎」の偽名を用いてレイプを繰り返し、慶応大学4年時にとうとう逮捕に。しかし父親の小泉純也が政治力でもみ消し、というものです。
そのほとぼりを冷ますため、本人をロンドンへと送ったということで、辻褄があっていて、概ねはこの通りだったでしょう。レイプを繰り返すサディズム、これが裏権力に気に入られもしたでしょう。
これは小泉氏の「小はん殺し」、小泉氏の愛人だった新橋芸者小はんが突然変死した事件として、ネットには多くの情報が出ています。小泉氏には妙な性癖があり、「女性との最中に首を絞めて楽しむ」というもので、それが行き過ぎて小はんを死に至らしめ、その後始末に狂奔したというのが事件の概要です。
この事件発生は1992年5月、すでに小泉氏はこの当時YKKの一角として政治家として名を売っていました。事件が事実であり発覚すれば、小泉氏は政治家どころか社会人生命は破滅です。果たしてこの事件は事実だったのか?
…引用の記事(編集者註:アーカイブはこちら)はもう見られませんが、2013/08/25の竹下さんの記事を見れば、事件になるような事実はあり、最中に首を絞められた小はんは気絶、ただし命はとりとめていたようです。
しかし「女性を絞め殺した」とされた小泉氏は恐喝されていったようです。小泉氏自体は多分「とうとうやってしまったか…」の思いだったでしょう。何故か?
彼は若い頃から同じようなことを繰り返していたからです。小泉氏は真正のサディストだったはずです。その彼が長く日本の総理大臣を勤めるのです。