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ぴょんぴょんの「最強のバルカン星人」 ~今なお愛されるボスニアの哲人、イビツァ・オシム
旧ユーゴチームは史上最強のチームだった
NHK 総合 16日(火) 午後11:50
— NHKドキュメンタリー (@nhk_docudocu) January 15, 2024
アナザーストーリーズ オシムの涙~W杯サッカー 知られざる闘い~#アナザーストーリーズhttps://t.co/TUkFdONZoj
そう。ユーゴスラビアはクロアチア人、セルビア人、ボスニア人、モンテネグロ人、などの多民族国家だから、戦争になる前だって民族同士が張り合うことはあったんだ。でも、いざ戦争になったら、そんなもん、かわいいもんだよ。
オシムが代表監督を務めた旧ユーゴチームは、1990年のイタリアワールドカップの時点で、優勝してもおかしくないくらい、史上最強のチームだった。でも、外野はセルビア人を出せ、クロアチア人を出せとうるさかった。ボスニア・サッカー協会のスマイロビッチ氏「他の国の方々には理解しにくいでしょうが、ユーゴの代表監督は民族問題とも戦うのです。自分たちの民族を使え、と監督には様々な圧力がかかる。だが、オシムは屈することなく、自分が信じる選手を使い続けた。批判や逆風に耐え、チームへの真摯な意志を貫いた。かんたんなことではありません。オシムはそれをやったのです。」(YouTube)
【今日のおぢ】1990年イタリアワールドカップでユーゴスラビア代表監督だったときのオシム。やっぱ元々イケメンなんだね。 pic.twitter.com/DIdSJfoUt3
— daddyscar 目指せ-5kg (@daddyscar) July 22, 2014
その後の試合はもちろん、オシムの考えたメンバーで勝ち残っていったから、メディアも静かになったし、ユーゴはベスト8まで行ったんだ。でも、「たられば」じゃないけど、もしも、あの初戦の西ドイツ戦をオシムのメンバーで戦っていたら、ユーゴは優勝していたかもしれない。と言うのも、その年の優勝は西ドイツだったから。
民族対立の最後の砦として命がけでサッカーを守りたかった
オシムの気持ちを思ったら、泣かずにはいられないよ。だって、彼らがヨーロッパ選手権の予選を戦っている最中に、スロベニアとクロアチアが独立宣言した。スロベニアはすんなり独立、セルビア人を抱えるクロアチアは、セルビア人を追い出す「民族浄化」を始めた。セルビア人が大半を占めるユーゴ連邦軍は、セルビア人の民族浄化を黙って見過ごせるはずがない。連邦軍とクロアチア軍の戦闘が激しさを増す。
チームはサッカーで団結していたから、民族同士の争いもなかった。だが周囲はそれを許さなかった。徐々に、オシムの招集に答えられない選手が増えてきた。「私は呼んだが、行かれないと彼らは言った。」(オシムの言葉101p)そして、ヨーロッパ選手権まであと3ヶ月の1992年3月27日、オシムの故郷サラエボが戦場になった。ついに、オシムは代表を退くことを決意した。
首都サラエヴォのあるボスニア・ヘルツェゴビナの位置
Author:Rei-artur[CC BY-SA]
でもね、オシムは、民族対立の最後の砦として命がけでサッカーを守りたかったんだよ。だから、たくさんの脅迫やいやがらせに耐えてきた。平和の道具であるはずのサッカーが戦争に屈したことが、悔しかったんじゃないかな。
Author:DzWiki & NordNordWest[CC BY]
オシムが指摘する日本の問題点
だよねえ。オシムは日本の問題点を鋭く指摘している。たとえば、「日本人が大事にしているメンタリティーや慣習の中には、教わり学ぶ、という人と人とのよい関係を妨げる要素もあるようですね。‥‥1つ例を挙げれば、“曖昧さ”でしょうか。私は日本人に、あまり責任や原因を明確にしないまま次に進もうとする傾向があるように思います」。(オシムの言葉323p)
さらに、こんなことも言ってる。「日本人は平均的な地位、中間に甘んじるきらいがある。野心に欠ける。これは危険なメンタリティだ。受け身すぎる。『精神的に』周囲に左右されることが多い。」(オシムの言葉 42p )
オシム「私には、日本人の選手やコーチたちのよく使う言葉で嫌いなものが二つあります。『しょうがない』と『切り替え、切り替え』です。それで、全部を誤魔化すことができてしまう。(中略)...『どうにもできない』はあっても、『しょうがない』はありません。これは、諦めるべきではない何かを諦めてしまう、非常に嫌な語感だと思います」。(オシムの言葉289p)
チームの勝利を請け負う必殺仕事人
レアル・マドリードのホームスタジアム
Author:Daniel Schroeder[CC BY-SA]
きっと、大金を積まれたと思うよ。なのに、チーム予算も乏しく、観客数も少なく、毎年のように選手が流出する、優勝争いと縁遠かったジェフをオシムは選んだ。そして彼は、ジェフを根底から改革していく。どんなに、ベテラン選手の不評を買ってもね。オシム「今のジェフには、生活を維持することができればいいという『年金選手』が多すぎる。」(YouTube)
選手たちが感心したのは、他チームに選手が引き抜かれても、オシムは補充しなかったこと。オシムは生え抜き選手を一流に育てる方を選んだ。オシム「古い井戸があるのに、新しい井戸を掘るのは止めたほうがいい。チームを作るならば、経験のある選手たちを中心にして作らねばならない。」(YouTube)
でも、彼は応じなかった。オシム「ひとつの仕事を引き受けたら、それを全うすることだ。良いオファーがあれば、すぐに飛びつくという監督もいるだろう。しかし私は、一度受けた信頼を勝手に裏切りたくない。ひとつのチームを任されたら、簡単には捨てられない。」(YouTube)
ジェフ市原が優勝した2005年ナビスコ杯
Author:Ko1[CC BY-SA]
彼はレジェンドなんだよ。オシムの故郷のサラエボ市民は言う。「オシムは、この街だけじゃなく、旧ユーゴ全土のレジェンドだ」「オシムはヨーロッパ最高の監督だよ、間違いないね。彼は『考える人』なんだ。スターばかりのチームは相手にしない。並の選手しかいないチームを勝たせるのが、オシムの仕事さ。彼について話すのは恐れ多いよ。生きる伝説だからね。」(YouTube)
神様からの贈り物のような人間
一言で言うと、彼はインテリなんだよ。「監督というものは心理学者であり、教育者でなければならない。」(YouTube)労働者階級の裕福じゃない家に生まれたオシムは、東欧の名門サラエボ大学・理数学部・数学科で学んだ。ほんとは「教師になりたかった。数学が好きで、数学の教授になるのが夢だった。」(YouTube)
13歳のとき彼は、地元のサッカーチーム「ジェリェズニチャル」に入った。そして20歳で大学を中退して、プロサッカー選手になった。
オシム「私は監督と呼ばれるのが嫌いだ。(中略)...言うならば教師だ。サッカーの基本や人生の基本を選手たちには教えている。」(YouTube)
その通り。オシムの出す指示は科学的で、理路整然としていた。練習メニューもその日の天候、芝の状態、選手の顔色、考えうる限りのデータを頭に入れ、ベストの答えを弾き出して決めると言う。(YouTube)オシム時代のジェフにいた巻誠一郎も話している。「すべて、先のことを考えながら指導してくれる。目先のことを見ていない。2〜3年後に生きてくるようなトレーニング方法。知らない間に、1つずつステップアップさせられている。」(YouTube)
オシムに才能を認められたおかげで世界の大舞台で活躍した、ピクシーことストイコビッチもこう言っている。「オシムはチーム構成のスペシャリストだ。どれだけ苦境に立たされても、必ず正しい解決策を見つける。育成術も一流で、選手の能力を最大限に引き出せる。」(YouTube)
ドラガン・ストイコビッチ
Author:Južne vesti[CC BY]
それは、バルカン星人だからだよ。オシム「歴史的にあの地域の人間はアイデアを持ち合わせていないと生きていけない。(中略)...今日は生きた。でも明日になれば何が起こるか分からない。そんな場所では、人びとは問題解決のアイデアを持たなければならなくなるのは当然だ。」「バルカン半島からテクニックに優れた選手が多く出たのは、生活の中でアイデアを見つける、答えを出していくという環境に鍛え込まれたからだろう。」(オシムの言葉49~50p)
オシムは、サッカーから人生を学んだと言っている。「私はサッカーから人生の全てを学んだよ。サッカーは人生の大学だ。これほど素晴らしい大学は他にない。医学や科学の大学はあるが、人生を学べる大学はない。」(YouTube)
彼の残した名言は、いつまでも人々の心に残っています。