ぴょんぴょんの「最強のバルカン星人」 ~今なお愛されるボスニアの哲人、イビツァ・オシム

 先日、NHK番組「オシムの涙 〜W杯サッカー 知られざる闘い〜」を見ました。2022年5月1日に80歳で亡くなった、サッカー日本代表の元監督イビツァ・オシムのお話です。見た後、「オシムの言葉」がむしょうに読みたくなり、本棚から引っ張り出して夜遅くまで読みふけりました。
 彼の残した名言は、いつまでも人々の心に残っています。
(ぴょんぴょん)
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ぴょんぴょんの「最強のバルカン星人」 ~今なお愛されるボスニアの哲人、イビツァ・オシム

旧ユーゴチームは史上最強のチームだった


くろちゃん、「オシムの涙」見た? ぼく、もう、テレビの前で泣いちゃったよ〜。


いい年して、なんで泣いたんだ?

旧ユーゴスラビア代表監督を辞めるときの、記者会見で見せたオシムの涙が・・ウワ〜ン・・。

おいおい、ここで泣くなよ。

彼は必死だったんだよ。でも、勝てなかった。

なにに?

戦争に。

ユーゴスラビア戦争のことか?

そう。ユーゴスラビアはクロアチア人、セルビア人、ボスニア人、モンテネグロ人、などの多民族国家だから、戦争になる前だって民族同士が張り合うことはあったんだ。でも、いざ戦争になったら、そんなもん、かわいいもんだよ。

旧ユーゴのヤツら、バラバラになった今もサッカーの試合になると、ライバル心むき出しだもんな。

オシムが代表監督を務めた旧ユーゴチームは、1990年のイタリアワールドカップの時点で、優勝してもおかしくないくらい、史上最強のチームだった。でも、外野はセルビア人を出せ、クロアチア人を出せとうるさかった。ボスニア・サッカー協会のスマイロビッチ氏「他の国の方々には理解しにくいでしょうが、ユーゴの代表監督は民族問題とも戦うのです。自分たちの民族を使え、と監督には様々な圧力がかかる。だが、オシムは屈することなく、自分が信じる選手を使い続けた。批判や逆風に耐え、チームへの真摯な意志を貫いた。かんたんなことではありません。オシムはそれをやったのです。」(YouTube



ご苦労さんなこった。

オシムは「そんなにうるさく言うのなら」と、ワールドカップ初戦の西ドイツ戦で、メディアの言う通りのメンバーを出した。

ヒエー! 大事な初戦にそんなことしちゃったのかよ。

「『記者諸君が使え、使えとうるさい攻撃タレントを3人一緒に使うとどうなるか』結果は無残だった。」(オシムの言葉72p)

あ〜あ、もったいない。

その後の試合はもちろん、オシムの考えたメンバーで勝ち残っていったから、メディアも静かになったし、ユーゴはベスト8まで行ったんだ。でも、「たられば」じゃないけど、もしも、あの初戦の西ドイツ戦をオシムのメンバーで戦っていたら、ユーゴは優勝していたかもしれない。と言うのも、その年の優勝は西ドイツだったから。

なんてことしたんだよ〜。メディアのバカのせいで、優勝のチャンスを逃したのか。


民族対立の最後の砦として命がけでサッカーを守りたかった


ユーゴがワールドカップで優勝できる、最後のチャンスだったのにね。

最後? ワールドカップは今もやってるぞ?

ユーゴとしてワールドカップの舞台に立てたのは、その年が最後だったんだ。その後、ユーゴは崩壊していったからね。

そういうことか。オシムは最後のユーゴ代表監督だったんか。

そして1992年、ユーゴ代表監督を辞任するときの記者会見で、オシムは涙を見せた。

それで、おめえも泣いたんだな。

オシムの気持ちを思ったら、泣かずにはいられないよ。だって、彼らがヨーロッパ選手権の予選を戦っている最中に、スロベニアとクロアチアが独立宣言した。スロベニアはすんなり独立、セルビア人を抱えるクロアチアは、セルビア人を追い出す「民族浄化」を始めた。セルビア人が大半を占めるユーゴ連邦軍は、セルビア人の民族浄化を黙って見過ごせるはずがない。連邦軍とクロアチア軍の戦闘が激しさを増す。

チーム内もギクシャクしたろうな。

チームはサッカーで団結していたから、民族同士の争いもなかった。だが周囲はそれを許さなかった。徐々に、オシムの招集に答えられない選手が増えてきた。「私は呼んだが、行かれないと彼らは言った。」(オシムの言葉101p)そして、ヨーロッパ選手権まであと3ヶ月の1992年3月27日、オシムの故郷サラエボが戦場になった。ついに、オシムは代表を退くことを決意した。

首都サラエヴォのあるボスニア・ヘルツェゴビナの位置
Author:Rei-artur[CC BY-SA]

無念だったろうな。

でもね、オシムは、民族対立の最後の砦として命がけでサッカーを守りたかったんだよ。だから、たくさんの脅迫やいやがらせに耐えてきた。平和の道具であるはずのサッカーが戦争に屈したことが、悔しかったんじゃないかな。

しかし、サラエボは大変だったろ? 盆地だから、四方を包囲されたら水も食料も手に入らない。オシムは大丈夫だったのか?

Author:DzWiki & NordNordWest[CC BY]

戦闘が始まる前、オシムは息子とセルビアにいて、奥さんと娘さんはサラエボにいた。オシムは奥さんと、2年半ほとんど連絡が取れず、互いの生死もわからない状況だった。最終的に二人は無事だったけどね。

2年半は長すぎる‥‥でも、無事で良かった。


オシムが指摘する日本の問題点


戦争も終わり、家族とも再会したオシムは、各国で監督を務め、2003年、Jリーグ「ジェフ市原」の監督に就任した。

あんな厳しい体験をして「ぬるま湯日本」に来たのか。「なんじゃ、ここは?」ってなったろうな。

だよねえ。オシムは日本の問題点を鋭く指摘している。たとえば、「日本人が大事にしているメンタリティーや慣習の中には、教わり学ぶ、という人と人とのよい関係を妨げる要素もあるようですね。‥‥1つ例を挙げれば、“曖昧さ”でしょうか。私は日本人に、あまり責任や原因を明確にしないまま次に進もうとする傾向があるように思います」。(オシムの言葉323p)

わかるわかる! これ以上聞くと、くどいと思われるから、お茶を濁してわかったふりをする。

さらに、こんなことも言ってる。「日本人は平均的な地位、中間に甘んじるきらいがある。野心に欠ける。これは危険なメンタリティだ。受け身すぎる。『精神的に』周囲に左右されることが多い。」(オシムの言葉 42p )

わかる〜! でも、このせまい島国じゃ、出る杭は打たれる。流されやすくて目立たない方が生きやすいからなあ。

オシム「私には、日本人の選手やコーチたちのよく使う言葉で嫌いなものが二つあります。『しょうがない』と『切り替え、切り替え』です。それで、全部を誤魔化すことができてしまう。(中略)...『どうにもできない』はあっても、『しょうがない』はありません。これは、諦めるべきではない何かを諦めてしまう、非常に嫌な語感だと思います」。(オシムの言葉289p)

たしかに、「しょうがない」は便利な言葉だから、つい使っちまうな。

オシム「日本人は伝統的に、責任を他人に投げてしまうことに慣れてしまっている。」(YouTube

わかる!今の日本も、おれたちが政治家や役人に丸投げしたことが原因だからな。おれたちは、他人を信じすぎかもしれん。


たしかに「バルカン星人」は、あきらめない、自己主張をちゃんとする、平均点に甘んじない、やたらと人を信用しない、ちょっと見習った方がいいかもね。


チームの勝利を請け負う必殺仕事人


いやいや、熱くて粘くて血気盛んすぎるのも、どうかなあ。バルカン星人も、日本人と足して2で割ったらちょうどいいんじゃね? で、オシムはどんな監督だったんだ?

2003年、Jリーグ「ジェフ市原」の監督に就任する前、あのレアル・マドリードの監督オファーを蹴ってたんだ。

レアルと言えば、金持ち強豪チームじゃねえか。

レアル・マドリードのホームスタジアム
Author:Daniel Schroeder[CC BY-SA]

きっと、大金を積まれたと思うよ。なのに、チーム予算も乏しく、観客数も少なく、毎年のように選手が流出する、優勝争いと縁遠かったジェフをオシムは選んだ。そして彼は、ジェフを根底から改革していく。どんなに、ベテラン選手の不評を買ってもね。オシム「今のジェフには、生活を維持することができればいいという『年金選手』が多すぎる。」(YouTube

ベテランが大きな顔してのさばっている、低迷チームにありがちだな。

選手たちが感心したのは、他チームに選手が引き抜かれても、オシムは補充しなかったこと。オシムは生え抜き選手を一流に育てる方を選んだ。オシム「古い井戸があるのに、新しい井戸を掘るのは止めたほうがいい。チームを作るならば、経験のある選手たちを中心にして作らねばならない。」(YouTube

ジェフが強くなると、オシムにもあちこちからオファーがあったと聞くが。

でも、彼は応じなかった。オシム「ひとつの仕事を引き受けたら、それを全うすることだ。良いオファーがあれば、すぐに飛びつくという監督もいるだろう。しかし私は、一度受けた信頼を勝手に裏切りたくない。ひとつのチームを任されたら、簡単には捨てられない。」(YouTube

昔の日本人みたいに、義理がたいお人じゃ。

この義理がたさは、選手の心にも響いたと思う。彼が手掛けるチームは、いつも無名の低迷チームだけど、必ず一回は優勝させている。

ジェフ市原が優勝した2005年ナビスコ杯
Author:Ko1[CC BY-SA]

チームの勝利を請け負う必殺仕事人。

彼はレジェンドなんだよ。オシムの故郷のサラエボ市民は言う。「オシムは、この街だけじゃなく、旧ユーゴ全土のレジェンドだ」「オシムはヨーロッパ最高の監督だよ、間違いないね。彼は『考える人』なんだ。スターばかりのチームは相手にしない。並の選手しかいないチームを勝たせるのが、オシムの仕事さ。彼について話すのは恐れ多いよ。生きる伝説だからね。」(YouTube

並の選手しかいないチームを勝たせるのが、オシムの仕事かあ。


神様からの贈り物のような人間


オシムの幼なじみも言う。「オシムは子どもの頃から目立つ存在だった。成績も抜群にいい子どもだった。オシムはまるで、神様からの贈り物のような人間さ。私は少しも誇張していないよ。」(YouTube

神様からの贈り物のような人間! イエス・キリストは「預言者は生まれ故郷では敬われない」と言っているが、オシムには通用しない。

一言で言うと、彼はインテリなんだよ。「監督というものは心理学者であり、教育者でなければならない。」(YouTube)労働者階級の裕福じゃない家に生まれたオシムは、東欧の名門サラエボ大学・理数学部・数学科で学んだ。ほんとは「教師になりたかった。数学が好きで、数学の教授になるのが夢だった。」(YouTube

そうだったのか。

13歳のとき彼は、地元のサッカーチーム「ジェリェズニチャル」に入った。そして20歳で大学を中退して、プロサッカー選手になった。

なんで中退したんだ? もったいない。

親孝行だよ。オシム「私がプロ選手になったのは、家庭の事情からだ。母は望んでいなかったけれど、お金を稼いで両親を喜ばせたかった。」YouTube

インテリは頭でっかちの冷たいヤツが多いけど、オシムには愛がある。

現役時代は12年間で85得点、特筆すべきはイエローカードを1枚ももらったことがなかったこと。

そして、ジェントルマン!


オシム「私は監督と呼ばれるのが嫌いだ。(中略)...言うならば教師だ。サッカーの基本や人生の基本を選手たちには教えている。」(YouTube

やっぱ、オシムの本分は教師だな。夢だった数学の教師にはなれなかったが、聡明な頭脳はサッカーに生かされた。

その通り。オシムの出す指示は科学的で、理路整然としていた。練習メニューもその日の天候、芝の状態、選手の顔色、考えうる限りのデータを頭に入れ、ベストの答えを弾き出して決めると言う。YouTube)オシム時代のジェフにいた巻誠一郎も話している。「すべて、先のことを考えながら指導してくれる。目先のことを見ていない。2〜3年後に生きてくるようなトレーニング方法。知らない間に、1つずつステップアップさせられている。」(YouTube

ほんとにすごい監督だったんだ。

オシムに才能を認められたおかげで世界の大舞台で活躍した、ピクシーことストイコビッチもこう言っている。「オシムはチーム構成のスペシャリストだ。どれだけ苦境に立たされても、必ず正しい解決策を見つける。育成術も一流で、選手の能力を最大限に引き出せる。」(YouTube

ドラガン・ストイコビッチ
Author:Južne vesti[CC BY]

どんな苦境でも、必ず正しい解決策を見つけるって、すごいな。 

オシムも「サッカーには常に解決策がある、そこが面白いのだ」と言ってる。YouTube

どうやったら、解決策をかんたんに見つけられるんだ?

それは、バルカン星人だからだよ。オシム「歴史的にあの地域の人間はアイデアを持ち合わせていないと生きていけない。(中略)...今日は生きた。でも明日になれば何が起こるか分からない。そんな場所では、人びとは問題解決のアイデアを持たなければならなくなるのは当然だ。」「バルカン半島からテクニックに優れた選手が多く出たのは、生活の中でアイデアを見つける、答えを出していくという環境に鍛え込まれたからだろう。」(オシムの言葉49~50p)

日本人も、バルカン星人から学ばないと。

オシムは、サッカーから人生を学んだと言っている。「私はサッカーから人生の全てを学んだよ。サッカーは人生の大学だ。これほど素晴らしい大学は他にない。医学や科学の大学はあるが、人生を学べる大学はない。」(YouTube


おそらくオシムは、どんな仕事についても人生を学べたと思う。

心を込めて仕事をすると人生が学べる、そう言われているような気がするね。


Writer

ぴょんぴょんDr.

白木 るい子(ぴょんぴょん先生)

1955年、大阪生まれ。うお座。
幼少期から学生時代を東京で過ごす。1979年東京女子医大卒業。
1985年、大分県別府市に移住。
1988年、別府市で、はくちょう会クリニックを開業。
以後26年半、主に漢方診療に携わった。
2014年11月末、クリニック閉院。
現在、豊後高田市で、田舎暮らしをエンジョイしている。
体癖7-3。エニアグラム4番(芸術家)

東洋医学セミナー受講者の声

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