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ぴょんぴょんの「少年Aの物語(1)」 ~小さくて痩せっぽちでおとなしい、ノンビー君
事件の概要
第一の事件
1997年2月10日 4:00pm頃、神戸市の路上で、小学生の女児2人がショックレスハンマーで殴られ、1人が重傷を負った。
第二の事件
3月16日 0:25pm頃、公園で、小学4年生の女児が頭を金づちで殴られ、3月23日に脳挫傷で亡くなった。 その直後(0:35pm頃)、別の小学3年生の女児が腹部を刃渡り13センチの小刀で刺され、2週間のケガを負った。
第三の事件
5月24日 11歳男児(淳君)が行方不明になる。
5月27日 早朝、神戸市の友が丘中学校正門で発見された男児の頭部は、行方不明だった淳君の頭部だった。彼の口には、「酒鬼薔薇聖斗(さかきばらせいと)」による「さあゲームの始まりです 愚鈍な警察諸君 ボクを止めてみたまえ ボクは殺しが愉快でたまらない 人の死が見たくて見たくてしょうがない 汚い野菜共には死の制裁を 積年の大怨に流血の裁きを SHOOLL KILL 学校殺死の酒鬼薔薇」という、犯行声明文が挟まれていた。
6月4日 神戸新聞社に、「酒鬼薔薇聖斗」からの第二の犯行声明文が郵送された。
6月28日 警察は14歳の中学生「少年A」に任意同行を求め、事情聴取で犯行を自供したため、殺人及び死体遺棄の容疑で逮捕した。自供により第1の事件、第2の事件も少年Aの犯行とされた。
1997年2月10日 4:00pm頃、神戸市の路上で、小学生の女児2人がショックレスハンマーで殴られ、1人が重傷を負った。
第二の事件
3月16日 0:25pm頃、公園で、小学4年生の女児が頭を金づちで殴られ、3月23日に脳挫傷で亡くなった。 その直後(0:35pm頃)、別の小学3年生の女児が腹部を刃渡り13センチの小刀で刺され、2週間のケガを負った。
第三の事件
5月24日 11歳男児(淳君)が行方不明になる。
5月27日 早朝、神戸市の友が丘中学校正門で発見された男児の頭部は、行方不明だった淳君の頭部だった。彼の口には、「酒鬼薔薇聖斗(さかきばらせいと)」による「さあゲームの始まりです 愚鈍な警察諸君 ボクを止めてみたまえ ボクは殺しが愉快でたまらない 人の死が見たくて見たくてしょうがない 汚い野菜共には死の制裁を 積年の大怨に流血の裁きを SHOOLL KILL 学校殺死の酒鬼薔薇」という、犯行声明文が挟まれていた。
6月4日 神戸新聞社に、「酒鬼薔薇聖斗」からの第二の犯行声明文が郵送された。
6月28日 警察は14歳の中学生「少年A」に任意同行を求め、事情聴取で犯行を自供したため、殺人及び死体遺棄の容疑で逮捕した。自供により第1の事件、第2の事件も少年Aの犯行とされた。

Author:KishujiRapid[CC BY-SA]

不自然な供述内容と証拠物件

5月24日 1:40pm、淳君は祖父の家に行くと言って自宅を出た。たまたま淳君と会った少年Aは、「向こうの山にカメがいたよ。一緒に見に行こう」と、「タンク山」と呼ばれる高台に淳君を誘い出し、山頂手前のケーブルテレビ施設の入り口で、淳君を絞殺した。
少年Aは、指紋が付かないように【手袋】をしたあと、淳君の真後ろから右腕を首に巻き付け、首を締め上げた。淳君は泣き叫び、手をバタバタさせた。Aは淳君を前に倒して、覆い被って首を絞め上げた。それでもなかなか死ななかったため、今度は淳君を仰向けにして、腹の上に馬乗りになって【両手で】首を締め付けた。ナイフで殺害しようと思ったが【ナイフを忘れた】ことに気付く。石で撲殺しようと思ったが、石は土に埋まっていて動かせない。そこでAは、首を締めている右手はそのまま、【左手】で運動靴の紐を取り外し、その紐を首にかけて、しばらく締め続けたところで、淳君の呼吸音が止まった。
その日、少年Aは友人と、午後4時にレンタルビデオ店で待ち合わせをしていた。待ち合わせをしていた友人は、Aは自転車で来たが30分くらい遅れたと証言している。その際、Aはさやのある長めのナイフを、ポケットから出したり引っ込めたりしていたと、友人は証言している(「神戸事件を読む」76p)。
なかなか死なないので腹を立てたが、同時に淳君を殺していること自体を楽しんでいた。また、淳君が死んだ時、Aは、「淳君が自分だけのものになった」という満足感でいっぱいになり、「その満足感はそれまで僕が人を殺した時のことを考えて、得られるであろうと思っていた満足感よりも、もっと素晴らしいものでした」「ハンマーで殴った女の子は死んだということを知ったが、この時は一瞬のことであり、大した満足感は感じなかった。しかし、淳君の場合は、殺すのに時間がかかったので、それだけ満足感が得られた」 と話した。
じつは淳君は「右手一本」で首を締められ、殺されているのである。「犯人が淳君の首を、右手だけで締めて窒息死させていたことが(略)遺体の解剖結果で分かった」〈毎日新聞〉(神戸事件を読む79p)





Aは、淳君の死体の発見を遅らせたいと思った。見回すと、アンテナ施設の床下が見えにくいので、そこに死体を隠そうと考えた。が、フェンスで囲まれている上に、入り口には南京錠がかかっていて入れない。Aは、南京錠を壊すための糸ノコギリと、替えの南京錠を手に入れるためにホームセンターに行き、糸ノコギリ(後に金ノコに修正)と南京錠を万引きした。そして、古い南京錠を金ノコで切ってフェンス内に入り、淳君を引きずって床下に押し込んだ。金ノコを落ち葉の下に隠し、入り口に新しい南京錠を掛け替えて山を下りた。
悪魔崇拝者のような精神状態
5月25日 いつものように起床し、淳君の首を切るために自宅を出たAは、遺体を床下から引っ張り出した。淳君はあおむけの状態で、眼は見開いていた。取調官に「男児の死体の目や顔を見ながら、その首を切るのに抵抗はなかったか」と尋ねられたが、Aは「別にありませんでした。僕が殺した死体であり、いわば僕の作品だったからです」と答えた。 Aは左手で、男児の額を押さえながら首を切った。この時「現実に人間の首を切っているんだなあと思うと、エキサイティングな気持ちになった」。Aはしばらく頭部を地面に置き、正面から鑑賞しながら「この不可思議な映像は僕が作ったのだ」という満足感に浸り射精した。
Aは、眠たそうな男児の目が気に入らなかったため、小刀で男児の両目を突き刺した。さらに、2、3回ずつ両方のまぶたを切り裂き、口の方からそれぞれ両耳に向け、切り裂いた。「殺人をしている時の興奮を、あとで思い出すための記念品」を持ち帰ろうと考え、舌を切り取ろうとしたが、死後硬直のためできなかった。さらに、ビニール袋に溜まった男児の血を飲んだ。血を飲んだ理由は、「僕の血は汚れているので、純粋な子供の血を飲めば、その汚れた血が清められると思ったからです。幼い子供の命を奪って、気持ち良いと感じている自分自身に対する自己嫌悪感の現れなのです」と供述している。
その後Aは、入角ノ池(いれずみのいけ)へ行き、首を2、3分眺めてからビニール袋にもどし、木の根本の穴の中に隠した。首の切断に使った金ノコは、向畑ノ池に投げ捨てた。
5月26日 須磨警察署が公開捜査を開始。兵庫県警・PTA・消防団合わせて150名が捜索にあたった。 Aは、昼過ぎに「首をじっくり鑑賞」するために、自転車で入角ノ池へ向かい、穴から取り出した淳君の頭部を観察し、家に持ち帰って風呂場で洗い、自分の部屋の天井裏に隠した。Aは首を洗った時も興奮して勃起し、髪の毛にクシを入れながら射精した。 どこに置こうか考えた結果、男児を殺したのは学校であって、自分じゃないから、自分が通っている友が丘中学校の正門に置こうと考えた。そこは、警察にとって一番盲点になると思ったからだ。
その夜、警察の目を自分から逸らすため、淳君の口に手紙を咥えさせようと考え、手紙の文章を考えた。これまで読んだ本などから、本で覚えていた言葉、漫画からの引用を組み合わせて手紙を書き上げた。「その他、ほとんどの文章は、僕が頭で考えたものであり、テレビで言っているような、何か小説から引っぱり出したといったものではありません」と供述している。

5月27日 1:00〜3:00am、Aはビニール袋に入れた淳君の頭部を補助カバンに、手紙をジーパンのポケットに入れて、両親に気付かれないよう部屋の窓から外へ出た。自転車で友が丘中学校へ向かい、正門右側の塀に男児の首を置いたが、据わりが悪かったのか落ちてしまったので、正門の鉄扉の中央に、顔を道路に向けて置き、手紙を口にくわえさせた。この時Aは「性的興奮は最高潮に達し、性器に何の刺激も与えてないのに、何回もイッてました」という。Aはのちに、その時の光景を「作品」と呼んでいる。
当日の5:00am、中学校の正門に来た人が、淳君の首はなかったと話している。それについてAはこう答えている。「単なる思い違いです。なぜなら僕の親は、5:00amには台所にいるので、とてもその様な時間帯に、淳君の首を持って家を出ることなど不可能です。少なくとも3:00amまででなければ、親に知られずに行動することはできない。従って、淳君の首を正門前に置いたのは、遅くとも3:00amまでだと思う」。
Aは当日のテレビで、男児の首が発見されたことを知る。(中略)...犯人はAの自宅付近以外の人物であるように報道されていたことから、ここまで上手くいったなら、自分が犯人だとは分からないだろうと思い、6月2日夜、「神戸新聞社宛ての手紙」を書いた。この声明文には、淳君の頭部に添えられていた犯行声明と同じ文書が同封されていた。
(つづく)
それから7年、逮捕された「少年A」は刑期を終えて2004年に社会復帰しており、2015年には「絶歌」という手記を出版して、再び社会を驚かせました。
気持ち悪い事件ですが、ネットでは少年Aの冤罪が噂され、冤罪を訴える本も数多く出版されています。
ただ、冤罪を確かめたくても、少年Aの供述調書などの資料は膨大で、すべてに目を通すのは大変です。そこで、ネットで気になった記事と数冊の本から、真実を探ってみたいと思います。