ままぴよ日記 134 「母の人生に乾杯!」

 子どものメディア問題を3回に分けて書くつもりにしていましたが、母が危篤状態になり私の生活が一変しました。
 今を生きることが最優先の私。身も心も母のことが中心になったので、今回はそのことしか書けなくなりました。
(かんなまま)
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どのベッドも絶飲食の寝たきり老人


99歳で特別養護老人ホームに入所した母が救急車で運ばれて市立病院に入院したのは3か月前。102歳でした。その時も覚悟を決めていましたが、誤嚥性肺炎や尿路感染症の治療を受けて生還しました。

でも、誤嚥予防のために絶飲食になりました。酸素吸入、痰除去などが必要なので元の老人ホームには戻れなくなり、医療型の療養病院に転院しました。2ヵ月前です。


転院した時に説明を受けましたが、面会時間は午後2時から5時までの間の30分間。2名まで。15歳以下は不可との事でした。

4人部屋で、どのベッドも絶飲食の寝たきり老人です。人手不足が深刻なのでしょう、スタッフは東南アジアから来た介護実習生がほとんどで、3時間おきに体位交換とおむつ替え、部屋や器具の掃除をしてくれていました。

看護師さんも3時間おきにバイタル検査の見回りをしてくれます。その時に名前を呼んで声をかけてくれますがほとんどの人は応答なしです。それ以外は誰も訪れず黙って寝ている状態です。

時々奇声を発する人や、小さな声で訴えっている人がいますが誰も来てくれません。最低限死なないように管理してくれている病院です。そこに居るだけで胸が詰まりそうでした。

面会時間になっても面会に来ている人の姿はありません。「会いたくない」「こんな姿を見たくない」「仕事があるから行けない」「行っても反応がないから」などの理由で足が向かないのでしょう。まるで姥捨て山です。


今でも面会禁止で孤独死が当たり前


人生100年時代。療養型病院のニーズは増えているのに人手不足で病院が閉院の危機に瀕しています。母の場合は院長先生が兄の知り合いなのでやっと入院できたようです。

先生の回診の時に母の病状を聞くと「お強いですね。頑張っていらっしゃいますよ。耳は聞こえますからたくさん話しかけて手を握ってください」と言われますが、その後に必ず「亡くなるのはたいてい夜中です。死に目には会えないと思ってください」と付け加えられます。

そのたびに私の胸が締め付けられるのです。30分の面会時間が終わって母を1人でこの病院に置いていくのが辛くてたまりません。

兄に「母のそばに居てあげたい。どうにかならないか」と話しても「病院の方針だから」「ここ以外に引き受けてくれるところはない」と逆に私を諭します。

終末期の患者が最期を快適に過ごすために身体的、心理的ケアと支援をしてくれるホスピスがありますが老衰の人は対象外です。

母は88歳になるまで家族の世話をして、2歳上の父を老々介護しました。父が最後に入院した時は父の入院室のソファに寝泊まりして看取りました。

自分の役割をやり遂げた感があるのか、それ以降の母は「あるがまま 今を楽しく生きよう」が口癖で誰にも頼らず、自分ができる範囲で満足し、動けなくなるまで人に頼りませんでした。

でも時代は大きく変わり、コロナ禍以降人の分断が加速しました。

赤ちゃんを産むのも計画分娩が主流になり病院主導の安全管理が優先です。妊婦健診も産後の面会も制限があり、もう出産は家族のイベントではなくなりました。

今回、もっとひどいのは老人施設や看取りの病院だと思いました。コロナの集団感染で大変な目にあった施設や病院は今でも面会禁止で孤独死が当たり前になっているようです。


母を慕っている叔母が家で転倒して特別養護老人ホームに入所しました。最近面会に行きましたが、殺風景な部屋にひとり。10分間、ガラス越しの面会しかできません。声も聴きとれません。差入れ禁止。お花も持っていけませんでした。まるで無罪刑務所。生きる気力が萎えてしまいます。ここまで一生懸命に生きてきた人に対しての尊厳はどこに行ったのでしょうか?
https://www.yomiuri.co.jp/yomidr/article/20230410-OYTET50007/

厚生労働省が面会制限を解く様に指導していますが、施設としてはその方が楽なのでしょう。なかなか改善されません。
https://vmed.jp/7806/


延命治療はしないと伝えているはずなのに


さて、もう一つ気がかりなことがありました。延命治療はしないと伝えているはずなのに高カロリーの点滴が投与されていたのです。時々利尿剤や抗生物質も投与されていましたが母の血管はそれに耐えられずボロボロになっていました。母は病気がないのでカロリーを与えられたら自動的に延命につながります。


そのことを先生にお尋ねしたら「通常の半分以下のカロリーだから1か月はもたないのですがお強いから3か月もってますね。凄いですね」と言われました。そして「ここは病院ですから何らかの治療をしないといけないのです。病院では死因を老衰と書けません。厚生労働省が認めてくれません」との説明でした。

すでに褥瘡もできはじめました。点滴のための血管を確保できなくなったので止めますと連絡が来たので喜んだのもつかの間、今度は皮下点滴になりました。

母は目の前の試練を受け入れて生きてきた人です。母の事を心配している私に「鷹揚に構えなさい」と言った母。時々、奇跡のように覚醒して「くたびれた」「仕方がない」「ありがとう」「わかってるよ」と言います。

でも、私の感情が乱れます。本当は寿命が来ているのに死ねないのではないか?点滴で逆に苦しみを与えているのではないか?と。

面会に行くたびに母の顔を両手で包み「おばあちゃん」と声かけると「はーい」と返事をしたり頷きます。苦しそうな顔をしていないのが救いです。

長兄は内科の医者。ずっと母の主治医をしていました。母が以前大腸がんになった時に長兄は放射線治療をさせたかったのですが、母が先生に直接「治療しません。死ぬ時にお世話になるかもしれないのでその時はよろしくお願いします」と言って帰ってきたことがありました。長兄は頑固な母と思ったようです。

長兄と母は考え方が違います。この場合は母の立場で考えてあげたいのです。

祈りながら神様にお任せしようと何度も思うのですが、この病室に母を一人ぼっちにして帰るのが辛すぎます。


夫に相談すると「僕が主治医なら点滴もしない。する意味が分からない」と言います。でも長兄に意見できないようです。

思い切って長兄に電話しました。「点滴を辞めて欲しい。母も延命は望んでいない。母の生命が尽きるのを認めてあげたい」と言いながら涙が出てきました。兄は「わかった」と言いました。主治医の先生に伝えてくれたようですが何にも変わりませんでした。

逆に私が感情的になっていると思われたようです。コロナの時と同じです。でも、喧嘩しても始まりません。母が一番望まない事です。


「私が引き取ってわが家で看取りたい」


眠れない夜を過ごしていたら朝方病院から「徐脈になりました。血圧も下がっています」「危篤状態ですから面会時間や人数制限も解除します」と連絡が来ました。

母のもとに駆け付けると、手足が冷たくなって壊死しかけていました。手を握って話しかけると脈が強くなります。兄夫婦たちも全員駆けつけました。大勢の家族が集まるのは珍しい光景のようで「皆さんがおみえになると心電計や脈が強くなります。凄いですね」と、看護師さんたちの間でも話題になっているようでした。

結局、母は乗り切りました。血圧や呼吸が安定してきたのです。でも、危篤には変わりなく、面会解除のままです。

私は覚悟を決めて母の傍に居ることにしました。私と母だけの時間が流れます。母がいつも歌っていた童謡を歌ったり、愛のマントラを唱えながら過ごしました。

でも、一日中パイプ椅子に座っていると腰が痛くなり、留守の夫の食事も気になります。実は7月8月は病院の決算の時期で仕事の焦りも出てきました。

少し呼吸が安定してきたら家に帰って食事を作り置きして仕事をしました。夫は気が済むまで介護した方がいいよと応援してくれます。ありがたいのですが、自分の疲れとともに医療への不信感と長兄への不満が大きくなっていきました。

私のモヤモヤと怒りはなぜ?それは母のため?と自問しました。そこから出た答えは「私が引き取ってわが家で看取りたい」ということでした。誰のせいでもない、私がそうしたいのです。

覚悟が必要ですが気持ちは落ち着きました。すぐに夫に相談しました。点滴はしない。最低限の処置で看取りたい。でも医者である夫に頼ることも多くなります。

体位交換やおむつ替え等、病院がしてくれていた事も引き受けることになります。痰が絡んで苦しそうになる時もあるでしょう。現に私の祖母はそれであっけなく亡くなりました。

夫は「いいよ」と言ってくれました。問題は長兄が認めてくれるかです。他の2人の兄に相談しました。兄たちは喜んでくれました。その上で長兄に話を聞いてほしいと電話しました。


皆に看取られた母の逝去


会って話すことにしたその日、母の面会に行くといつもと様子が違いました。手をバタバタさせて胸を搔きむしる動作をするのです。母に声をかけるとしっかり私を見て「ありがとう、ありがとう」と言いました。

呼吸がおかしいので看護師さんを呼ぶと、脈が17,血圧は測れない、体温が33度でした。下顎呼吸が始まっています。すぐに兄たちを呼びました。


みんな集まってきました。兄が紙に「ありがとう」と書いて見せました。母はそれを見て頷きました。みんなで先生に点滴を外してくださいと頼みました。酸素などのバイタル装置も外してもらいました。

その夜、体温は30度、血圧測定不能、呼吸も0表示、心臓だけが弱く動いている状態になりました。まるで冬眠状態です。夜の9時になったので兄たちは家に帰りました。

私は頼み込んで母のそばに居ることにしました。夜警の警備員さんや看護師さんたちが仮眠ベッドはありませんがと言いながら快く認めてくれました。私をねぎらってくれて「マスクも外していいですよ」と言ってくれました。

夜勤の看護師さんは飛び回っています。人手不足で母が危篤でも見回る回数は少ないのが現実です。心電図などのデータが表示されているナースステーションに誰もいません。亡くなった後に気が付くことも多いのでしょう。先生が前もって「死に目に会えない」と念を押した理由がわかりました。

母の体はどんどん冷たくなっていきました。下顎呼吸も止まり呼吸はかすかです。人はこんな状態でも生きているのかと思いました。母の魂がどうなるのか私にはわかりませんが、そこに母がいるような気がしました。全てを感謝の気持ちで包んで送り出したいと思いました。

夜中、瞳孔が開いてきたので兄たちを呼びました。母のベッドの周りに兄弟夫婦8人が集まりました。母は皆に看取られて静かに静かに息を引き取りました。

母を見送った後は、悲しみより大きな安堵感でいっぱいになりました。「今世、生き切ったね。おめでとう」という気持ちです。

その後「生前に話があるって言ってたけど、何だった?」と義姉が聞いてくれましたが「母を一人ぼっちで逝かせたくないと思っただけで、それが叶ったので私は幸せ」と答えました。母は私に苦言を吐かせたくなかったのでしょう。考えは違ったけれど長兄に「ありがとう」と心から言えてよかったと思います。

母の葬儀は笑いに溢れていました。身内だけで兄弟夫婦8人、孫14人。ひ孫23人です。全員は集まれませんでしたが、母への手紙を棺に入れました。

人が集まっているだけで嬉しい4歳の孫が母の棺に嬉々として花を入れ、火葬場で母の棺を見送る時に「今から焼くの?楽しみだね!」と嬉しそうに言ったので大笑いになりました。

母の世界は家の中だけでした。目立たず、評価されずとも、確実に私達家族の心に愛の種を撒いていってくれました。


さて、母を看取りながら、あらためて思ったのは自然死の何と難しいことか・・・です。医療介入させたくなかったら病院に入院してはいけません。

でも、自宅で看取るには仕事を辞めて、かかりきりになります。その覚悟があるのか問われます。

今回は母の気持ちというより、私の気持ちが揺らぎました。母は、どこでどんな形で死んでもOKだったのではないかと思っています。私も死ぬまでにそんな境地になりたいです。


Writer

かんなまま様プロフィール

かんなまま

男女女男の4人の子育てを終わり、そのうち3人が海外で暮らしている。孫は9人。
今は夫と愛犬とで静かに暮らしているが週末に孫が遊びに来る+義理母の介護の日々。
仕事は目の前の暮らし全て。でも、いつの間にか専業主婦のキャリアを活かしてベビーマッサージを教えたり、子育て支援をしたり、学校や行政の子育てや教育施策に参画するようになった。

趣味は夫曰く「備蓄とマントラ」(笑)
体癖 2-5
月のヴァータ
年を重ねて人生一巡りを過ぎてしまった。
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