文字起こし1/3:円の支配者(日本語字幕・シャンティ・フーラオリジナル翻訳)ドキュメンタリー映画 <中央銀行の真実 - Princes of the Yen >

翻訳チームからの情報です。
 これから3回に分けて「円の支配者」の文字起こしをお届けします。今回は、0:00~29:27の部分です。
 良きにつけ悪しきにつけ社会の仕組みを変える程の絶大なパワーをもつ信用創造と窓口指導。成功していた戦後の日本型経済構造を破壊し、アメリカから押し付けられた自由主義経済を導入するために危機を創り出すことを目論んだ円の支配者達。信用創造と窓口指導に煙幕を張りつつ、円の支配者によって破裂目的のバブルが演出されていく様が描かれています。
(編集長)

注)以下、文中の赤字・太字はシャンティ・フーラによるものです。

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円の支配者 - 中央銀行の真実 (ドキュメンタリー)
転載元)
日本語字幕の設定方法はこちら


(0:00)
これは中央銀行がもつ支配力をテーマとする映画である。中央銀行には経済・ 政治・社会を変える権力がある。それはこのようにして行われる...


リチャード・ヴェルナー教授の著書に基づく 『円の支配者 - 中央銀行と経済の変革


(2:14)

アメリカ軍による占領


    (ニュース映像)
    9時30分 横浜到着予定。 当初の予定通り上陸する。


ダグラス・マッカーサー元帥が、横浜に近い厚木海軍飛行場に到着したのは、1945年8月30日のことだった。

航空機から現れた彼は、タラップを降りる前に立ち止まり、片手をポケットに入れ、 コーンパイプをきつく咥えて、 自分達が征服した地を見渡した。

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このポーズはカメラマンたちが様々なアングルから撮影し、各紙でこの好場面が何度も繰り返された。

民主主義が日本人に植えつけられようとしていた。
まるで初めて耳にする話であるかのように...

    (ニュース映像)
    「問題は日本人の頭の中身だ 。 彼らの脳は私たち同様によく働くが、中身の良し悪しは、頭の中で考えていることによって決まるのだ。」

忠義なサムライを演じる歌舞伎は、禁止されるか、厳しい検閲を受けた。広島や長崎の原爆に関する本や映像も禁止。マッカーサーを風刺した漫画も禁じられた。 占領による検閲に言及することも厳格に禁止されていた。

    (ニュース映像)
    山下陸軍大将

    山下陸軍大将


    戦犯法廷:「委員会は被告を有罪と判決し、絞首刑を宣告する。山下陸軍大将は裁判は公正だとして委員会に謝意を述べた。

太平洋戦争の際首相だった東条元帥は公判中次のように答えた。
「日本国の臣民(自分)が、陛下のご意思に反してかれこれすることはありえぬことであります。」
反対尋問は即座に打ち切られた。一週間後、東条は律儀に述べた。「天皇は常に平和を愛し平和を欲していた」と。

    (ニュース映像)
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    東条英機元帥


    東条英機元帥は戦争遂行の責任を負っていたが、天皇の戦争遂行責任を免除するためにできることは何でもした。

後にマッカーサーはアメリカ上院でこう述べた。
「現代の文明から見ると、日本人は12歳の子供のようだ。」

(5:21)  
戦争が終わると銀行の貸付状況は悪化していた。銀行が保有する資産は、主に戦時国債と戦争で破壊された諸産業への貸付金だった。銀行部門自体が事実上破産していた。

この問題は日本銀行によって容易に解決された。日本銀行は、銀行部門の不良債権を新たに創出した準備金を使って買取りさえすればよかった。

しばしば無価値となっていた資産と引き換えに良貨を与えたのである。

終戦後、まず2人の中央銀行総裁が、アメリカ占領軍によって任命された。最初に任命された日本銀行総裁は、新木栄吉(あらき・えいきち)だった。

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新木栄吉(あらき・えいきち)


だがこのポストに就くとまもなく新木は戦犯検事によって起訴され、辞職しなければならなかった。そして1951年、公職にあった戦犯容疑者に対する大赦の後、新木はアメリカ合衆国大使に任じられた。1954年、大使としての職を辞して帰国すると再び中央銀行総裁の任につけられた。

(6:44)
1951年に行われた戦犯に対する特赦の後、戦時中の官僚の多くが戦争当時の地位に復帰した。この中には戦時中の政治家や内務省官僚の大半が含まれていた。彼らは思想警察を統制していた者たちで、その多くが文部省に異動した。

    (ニュース映像)
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    アメリカ陸軍:極東の運命の鍵は日本だ。近代史の流れで今再びこの言葉が差し迫った現実味を帯びている。

田園地域での騒乱を避けるうえでこれは中国共産党の助けとなった。アメリカは大土地所有者から小作人への土地の再分配に着手した。財閥と呼ばれる、日本で影響力をもつ資本家エリート(支配層)は犯罪的な戦争の支持者達として一掃されビジネスを続行することを禁じられた。

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    ヴェルナー: 「ドイツで戦争が行われた1930年代に改革主義派ファシスト官僚にも実施できなかったファシスト政策をアメリカ占領軍が達成したのです。土地改革や財閥に対する政策もこれと同様でした。」

    (対談の相手):「そうですね、これは戦時中の日本のファシストたちと米ニューディール政策推進者とのとてもこっけいな出会いですね。」


(8:10)  

占領終結後の政治体制


    (ニュース映像)
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    国会、日本の衆参両議院の本拠
    「日本では、狂信的な学生と左翼グループが数日間ぶっ続けで暴動を起こし、アメリカとの相互防衛条約を阻止しようとしています。社会党議員が国会自体の内部で騒動を起こしました。警察は秩序を回復するため社会党員をも強制退去させました。」

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    「議長が演壇に連れていかれ、条約を批准する国会の開会を宣言しました。」

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1957年、元A級戦犯容疑者の岸信介が日本の首相になった。彼は戦時中、東条内閣の商務大臣だった。その職責の範囲は、軍需品の調達から奴隷労働に及ぶものだった。

    (ニュース映像)
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    ヴェルナー:「ヒットラーの戦時経済担当相だったアルバート・シュピアがベルリンのシュパンダウ刑務所に収監されていた当時、同じく戦時に日本で大臣を務めた人物が首相になったわけです。


岸は戦後、民主主義の擁護者となったが、 戦前と戦時中は、自分を国家社会主義者と名乗っていた。暴力団からの資金、企業からの出資、CIAの裏金を使って岸は自由民主党を強力な政治装置に築き上げた。

日本では、戦後の経済・政治の最も重要な指導者達の多くが戦時中のエリート官僚グループの出身だった。つまり日本を戦争へと追いやった同じ人々が戦後の経済界、政界で再び指導者となったのである。その後、自由民主党はほぼ40年の間、政権政党であり続けた。

    (ニュース映像)
    「アメリカの軍人さん達に日本語でお帰りなさい!韓国での勤務期間を経て兵士達は日本の基地に戻ろうとしています。ほんのしばらく前まで彼らは占領軍として駐留していました。今度はどうやって戻ってきたかって?兵士達は占領国の人々にどのように迎え入れられたでしょうか...

    人々を支配する権力者としてではありません。敵対者としてでもありません。不信の目で見られ、恐れられ、腹立たしく思われる人達としてではなく友人として迎えられたのです。」

戦時経済体制


(11:19) 
東京千代田区、大蔵省所在地。 ここから大蔵省は日本の経済生活の大抵の面で統制を行った。

    (ニュース映像)
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    ヴェルナー: 「大蔵省は最も大きな権限を持つ省でした。日本銀行は大蔵省の指示を仰がなければなりませんでした。

大蔵省官僚を見ると、人々は沈黙のうちに深い畏怖と尊敬の念のあまり嘆息した。大蔵省退職者は、公立・私立の公共機関の長として影響力のあるポストに就いた。だがある分野で、大蔵省は実際には統制を行っていなかった。それは信用創造の量とその配分である。これを決定するのは日本の中央銀行、つまり日本銀行だった。

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    (ニュース映像)
    ヴェルナー: 「日本銀行は、大蔵省、国民、ジャーナリストに対してこう言いました。『私どもは金利によって金融政策を実施します。』大蔵省は日銀の上に「君臨」し、日銀の金利政策に介入しましたが、日銀による事実上の「統治」は、金利という通貨の価値ではなく通貨の量を手段として行われたのです。


(12:34) 

窓口指導:中央銀行が市中銀行に対して信用創造の増加と信用の配分を指図するプロセス。


    (ニュース映像)
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    ヴェルナー:「これは窓口指導と呼ばれ、次のようにして行われます。日本銀行は、諸銀行に対して次の四半期にいくら貸出さなければならないか、しかも誰に、経済のどの部門に貸出さねばならないか指図しました。これは信用配分であり、信用統制です。

日本銀行は、四半期毎にそれぞれの銀行に貸出額について指示をだし、貸出がどの産業部門に割り当てられるべきかを指導した。 貸出はすべて産業部門・下位部門に内訳され、大口融資先はリストに名前を載せなければならなかった。

日銀は、どの事業が推奨されるべきか、 またどの事業が推奨されるべきでないか決めることができた。これは、銀行が誰に、何を目的として貸出を行うことができるかを指図することによって行われる、消費財の生産に適合した戦時経済の体制だった。

    (ニュース映像)
    「日本の9千5百万の人々は、 今やアメリカ合衆国と西ヨーロッパの最も繁栄した国々に次ぐ国民所得を得ています。」

    ヴェルナー: 「これは資本家・株主にとって望ましい体制ではありません。ところが国民にとっては多くの富が創出されました。所得と富の配分がきわめて均等で、非常に高度に経済が成長しました。生活の質と水準がたいへん急速に向上しました。

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1959年だけでも、経済は17%成長した。だが戦時経済体制の一つの結果として、産業部門のすべてにおいて、競争は利潤のために行われるのでなく、マーケット・シェアを目標として行われた。

企業はマーケット・シェアを獲得するため破産するまで戦おうとした。間もなく人々はこの現象を認識して「過当競争」と呼んだ。

この問題を解決したのは、
あからさまか否かを問わず、カルテルの創出である。銀行部門では、窓口指導がカルテルを統制するしくみとなった。何故ならば日銀は、銀行の貸出件数と貸出額を指図することができたからだ。

この結果、戦後期を通じて銀行の格付は合併後を除いて決して変化しなかった。ある銀行家は言った。

「もし窓口指導がなかったとすれば我々は腹切りをするまで競争していただろう。」


(15:28) 

戦時経済と国際貿易


    (ニュース映像)
    「米国の経常収支の赤字はこの9年間で最も大きくなっています。この増加の大きさに多くのエコノミストが驚いています。

日本国内の競争はカルテルによって統制されていたが、国際市場にはそのような制限がなかった。日本企業は、まもなく世界の多くの市場で優勢となった。

米国では「日本の生産性-アメリカにとっての教訓」という議題で公式の議会聴聞会がいくつも開かれた。

主要な経済理論が示すところによると、成功することのできる市場は自由市場だけだ。だが日本は数十年で世界第2位の経済大国となった。

これは自由市場にはたらく「見えざる手」だけを頼みの綱としたのではなかった。日本の戦後経済は国民を総動員した戦時経済であり、生産の対象が武器から消費財に転換されたものだった。


     一萬田尚登 [いちまだ・ひさと]

    一萬田尚登 [いちまだ・ひさと](出典


    「日銀は鎮守の森のように静かで目立たないほうがいい。」
    一萬田尚登 [いちまだ・ひさと] 第18代日本銀行総裁

(17:14)  
日銀が自由市場の擁護者として自らをアピールしていたため、窓口指導はきまりの悪い代物だった。公式刊行物ではこれに言及することができないか、信用統制は「自主的」に行われるものだと称してその役割を軽く扱った。

大蔵省が日銀の信用創造と信用配分政策について問い質(ただ)す時はいつも、日銀の職員は、専門家以外にはプロセスがわからないようにするため、専門用語だらけの複雑な議論をする習慣だった。

1965年11月、第一回国債が市場に登場した。これ以後、政治家たちは一層多くの資金を使いたい場合、もはや日本銀行に圧力をかけるのではなく、大蔵省にかけたのだった。ますます増える負債の山を最終的に統括するのは大蔵省だった。


(18:31) 

中央銀行家達による改革の要求


1980年代は、工業化社会で、金融緩和が行われた時期だった。工業先進国の大半は、資本の動きに対する制限を撤廃した。

佐々木直 (ささき・ただし)

佐々木直 (ささき・ただし)


日本では、前日本銀行総裁、佐々木直 (ささき・ただし) が日本経済の変革と自由化を目的とした五カ年計画の実施を求めた。

前川春雄(まえかわ・はるお)

前川春雄(まえかわ・はるお)


次いで1986年、前日銀総裁・前川春雄が座長を務める経済構造調整研究会が、日本人の生活水準が一層西洋並みになるようはかる経済改革計画 (「10年計画」) を提出した。

この提案によると

「今や我が国は、従来の経済政策及び国民生活のあり方を歴史的に転換させるべき時期を迎えている。かかる転換なくして、我が国の発展はありえない。」

この「前川レポート」を読むとまるでアメリカ通商代表の要望リストのような内容だ。まず行政改革を要求し、官僚の権限を廃止することを求めた。目ざすは、国家の政治体制を構成する全国民の改革であり、戦時経済体制を廃止して、米国型自由市場経済を導入することだ。諮問グループのメンバーで異議を唱えた者達は任を解かれた。

報道関係者のレポートは非常に批判的で、この計画の内容が過激であることを評者達は認めた。あまりにも野心的と思われ、日本の経済、政治、社会体制のあらゆる部分を無差別に変える一つの革命を求めていた。

このレポートで何が望まれているかは明らかだったが、これらの目標を達成するやり方について言及がないのはあきれるばかりだった。

レポートで唯一の手掛かりとなるのは、

「これらの推奨事項の実施にあたっては、税制を含む財政・金融政策の役割が重要」

とされている点だった。

    (ニュース映像)
    スクリーンショット 2015-05-12 13.57.30 ヴェルナー:「記録によると、常に日本銀行は日本の体制を完全に廃止し、アメリカ型資本主義を導入するべきだとしてきましたが、 国民がこの考えに賛成するかどうかはまったく別の問題です。」

    「さて次の問題は、どうやってこれを実行するかです。大蔵省 [現・財務省] は戦後期のほとんどの期間、合法的に主導権を握り、官僚機構、政治家、既存のすべてのカルテル等がすでに定着しています。これは古い体制ですが、歴史が教えるところでは体制が根本から変わるのは、危機がある場合に限られます。

委員会が提案したのは、金融政策を利用して大きな歴史的危機を進展させ、大蔵省、政治家、日本株式会社から成る既得権益を打ち破ることだった。

あらゆる体制には当の体制から利益を得、その変革を決して望まないグループがある。おそらく世界には、危機なくして経済・社会・政治体制を大幅に変革した国は存在しない。変革の必要を市民と利益団体が納得するのは、危機に直面する時なのだ。

    ヴェルナー:「どうすればこれを達成できるか?そう、だから危機が必要になる。危機をつくる一番良い方法はバブルを起こすことです。なぜなら、起こすのがバブルであれば、こちらの動きを妨げる者は誰もいないからです。


バブルの起こし方


日本銀行は、窓口指導の銀行貸出目標額を大幅に増やし始めた。1980年代の貸出割当額の増加は年平均でほぼ15%に達した。

後に都市銀行のある職員は次のように述べた。
「バブル期の間に私たちは貸出額を一定量増やしたいと思いましたが、日銀は私たちがもっと多く使うことを望みました。」

    元OL:「当時は、20代とか30代で、年収300万ぐらいで銀行がお金を貸してくれる。どんどん貸してくれる…そういうことだったから、随分若いのにマンション2個とか3個とか持っている人がいっぱいいた…」

信用拡張は不動産ブームの原因となっただけでなく株式市場のブームを引き起こした。1985年から1989年にかけて 株価は240%上昇、地価は245%上昇した。

1980年代末まで東京の中心にある皇居を取り囲む庭園の価額は、カリフォルニア州全体と同じ額だった。日本の国土面積はアメリカ合衆国の26分の1の広さしかないが、日本の土地全体の価額は合衆国の4倍だった。東京23区の1つ、千代田区の市場価額はカナダ全体の価額を超えた。

エコノミスト達は、市場の成り行きを真に受けるよう訓練されているので地価の高さを正当化しようとした。一部には土地の不足がその理由だと考える者があった。光り輝く新しい企業本社が東京の高級オフィス街に誕生した。労働市場もにわかに活気づき掛け値なしに深刻な労働者不足が懸念された。

最終学年の大学生を釣ろうとする企業は、就職の意図がある旨を署名させようとホリデー・リゾートへの高価な旅に誘うようになった。

    ヴェルナー:政治家達にも、大蔵省にも、この状況は好ましかったのです。税の歳入額が上昇しました。企業にもこの状況は好ましかった バブルではすべてがすばらしかったのです。

    元OL:「毎日が本当にお祭りだった気がする。女子は飲みに行っても全部奢(おご)りだし、帰りは必ずタクシー券をもらえたし、電車で帰るなんて考えもしなかった。皆が飲み会に行って、上司からタクシー券をもらって帰るっていう…」

資産価格と株価の上昇は止まらず、従来の製造業者でさえ、相場に手を出してみる誘惑には逆らえなかった。

まもなく投機そのものを取り扱うために、大蔵省の財務部と理財局国庫課が拡張された。財テクとして知られる企業ヘッジファンドは、借入金を使って資産と株の投機を行った。

その熱狂ぶりは非常な水準にまで高まり、日産をはじめ、多くの自動車トップメーカーが投機的投資によって儲けた利益は、自動車の製造によって得られた額よりも多かった。

日本の新たな奇跡の経済を主題として、文字通り何千もの記事が書かれた。誰もがよく知っている、エコノミストの説明は生産性の向上と水準から日本経済の印象的な実績が説明できる、というものだった。

日本的な経営管理手法に関する書籍が国際的にベストセラーとなった。西欧のビジネスマン達がサムライの戦略を主題とした17世紀の小冊子を読んだ。

ところが実は、1980年代の日本の非常にすばらしい実績は経営管理手法とほとんど関係がなかった。信用を制限し指導するために窓口指導を用いる代わりに、巨大なバブルを生み出すために窓口指導を用いたのだった。

    ヴェルナー:「私は日銀の職員と銀行家達にインタヴューして調査を行いました。双方ともテープに収録しています。調査の結果、日銀は実際に非公式な窓口指導を続けたことがわかりました。実のところ、銀行に貸出額をこれほどにも増やすよう強いたのは日本銀行だったのです。

日銀は知っていた。銀行が貸出目標額を達成する唯一の方法は、非生産的貸出額を増額することだと。

ある銀行家の言葉を用いるならば
「低リスクの借手に信用に対する需要がない場合、 貸出割当額をすべて消化したいと望むと、リスクは悪化する。」

いま一人の銀行家は次のように述べている。「貸出を増やす窓口指導のルールの副作用は、貸出の需要がまったくない時も銀行が貸出額を増やしたことだ。
(29:27)

つづく…

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