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[YouTube]宇佐神宮乗っ取り事件 総裁が九州に調査へ

 去年の年末に時事ブログでも取り上げられた、宇佐神宮乗っ取り事件ですが、朝堂院大覚氏がいろいろと動いているようです。朝堂院大覚氏によると、世襲家で本来最も宮司になることが相応しいと思われる到津克子(いとうず よしこ)氏の解任決議の嘆願書を神社本庁宛に出すことを指導したのが田中恒清・神社本庁総長とのことです。その嘆願書の画像が別の動画にありましたので、記事に貼り付けています。
 また"宇佐神宮宮司の永弘は、名誉宮司の娘である到津克子(いとうず よしこ)に、暴力で三週間の重傷を負わせてる"とのこと。別件ですが、神社本庁を題材にして小説を書いた作家が行方不明になったり、神社本庁/山口県神社庁と争っていた宮司が死亡している例もあるようです。また、総裁が宇佐神宮乗っ取り事件の件で神社本庁に電話したところ、相当ガラの悪い顧問弁護士が対応したそうです。
 朝堂院大覚氏は"神に仕える職業で、こういう者を神職として認めて良いのか…神社本庁及び、神社を乗っ取ろうと企む、この利権屋宮司達を神職から追っ払いたい"と訴えかけています。
(編集長)

注)以下、文中の赤字・太字はシャンティ・フーラによるものです。

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宇佐神宮乗っ取り事件 12月4日 総裁が九州に調査へ
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[竹下雅敏氏]当事者しか知り得ない、皇室関係者からのきわめて重要な情報提供

竹下雅敏氏からの情報です。
 時事ブログで掲載した皇室の情報に、一部誤りがあることを関係者の方から指摘されました。情報を精査すると、確かに今上天皇が三笠宮崇仁の子とする部分に誤りがありました。今回の記事で訂正をしたいと思います。
 系図は、以下に紹介する滝山善一氏の情報から作成したものです。これらの情報は、当事者しか知り得ないもので、きわめて重要なものです。文中にある(注)は、こちらで付けたものです。滝山氏からいただいた情報を読みやすくするために、句読点を調整したり、明らかな誤字は修正しています。また細かな情報などは少し省いていますが、情報の大部分はそのままの形にしています。
 途中1か所、時間が明記されていない情報がありますが、これは滝山氏の情報が私の所に転送される際に、順序が逆になっていたためです。情報が送られて来た順序で掲載しています。
 この中で、滝山氏はBの人物を大正天皇と考えておられますが、私が調べたところそうではないようです。どうも石垣純二氏は伏見宮家の血筋のようです。北白川智成は17歳で亡くなっているのですが、娘が1人居たようです。この女性がイギリス人男性と結婚し、彼らから生まれたのがBの男性ではないかと私は考えています。
 昨日は天皇誕生日で、これらの情報を出す予定でいたのですが、滝山氏との調整で今日になりました。これらの極めて貴重な情報を提供して下さった滝山善一氏に感謝します。
 これからの時代は、あらゆる事柄に光が当たり、真実が露わになると考えています。地球上の人々が嘘や隠し事をする必要の無い、平和な社会でなければならないと思います。今日の情報が、そうした社会への扉になれば良いのだがと思っています。
(竹下雅敏)
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滝山善一氏からシャンティ・フーラに送られた情報
2015年12月14日 0時29分
天皇家の真実。 
大正天皇は世界大戦に反対しておられ軍縮も行いましたので、城を留守に外出した折にテロに遭遇した。陛下は頭部に重症を負われた。彼は西郷家の分家筋に匿われ存命したが怪我が元で記憶を無くしており、すぐには帰城出来なかった為不覚にも、その隙に裕仁が天皇に即位した。これが昭和の成立。大正帝には正室と側室12家と彼女らとの間の子供たちが城中に住まいをしていたが、昭和元年以降退去した。

 大正上皇は徳川慶喜の子に拉致軟禁され北陸に住まいを移した。ここにはその昔、乃木希典がテロの追っ手を撒いて避難した家が近所にあった。慶喜の子、徳川五郎衛門=中田九松は裕仁帝を脅しゆすって自分の娘を皇族家に嫁がせた。昭和10年頃ようやく上皇の病が治り、上皇は帰りたいと主張したが、上皇のかつての部下たちが口々に、もしもあなたが今、城に帰ればあなたの子供の部下たちに殺されますよと諭さし諌められました。後々、三日三晩なきはらして、私の子が天皇になったのだからそれで良いと悟られました。

 父親を差し置いて即位した裕仁帝には男子の子は出来ず仕方なく皇太子家を創設したが皇族テロにより多数の死傷者を出して候補の男系男子2名が次々惨殺された。昭和天皇家は急遽、大正上皇側室家の皇統女子の子を迷わず選び、父母妹と別れさせて宮中に上げ、3人目の皇太子として教育と訓練を受けさせた。後、今上陛下となられた、現明仁陛下の祖父は大正上皇、祖母は京都に住まいしたイギリス系日本人。実の父母はドイツ系日本人科学者家族です。

 私の母の実の父は陛下の実の母の兄と聞いております。大正上皇は中田と改姓させられ徳川五郎衛門の身内として戸籍を作られて、長き年月を口の利けないオシのふりをして草むしりや畑仕事縄ないや、カマスつくりわらじ編みに注連飾り作りなどして、過ごされた。待遇は悪く農家の納屋の土間に暮らし、わらの布団に寝泊りし、蚤や虱、藪蚊と同居した。食が貧しいのでかつての部下たちがバナナなどを差し入れしていた。側室家と正田家側での温情を彼ら日本人たちは裏切った。上皇は晩年、九松の子に毎日の様になぐられ続けて後に亡くなられた。その後、美智子皇后の娘と九松のひ孫とを取り替えて人質にしたので、あの紀宮は水戸徳川の家系でした。美智子様の実の娘は,京都大学を卒業後、意に染まぬ奈良県庁への就職を振り捨てて、惚れた男と共に北海道に転居しています。

 竹下様の情報の一部は間違っています。私の話は、要介護5になってしまった、母がまだ元気だったときに聞かせられた話の一部をお伝えしています。事の真偽はあなたがお確かめになればわかるでしょう。 

(注)紀宮清子内親王…黒田 清子(くろだ さやこ、1969年4月18日 - )は、日本の元皇族。今上天皇の第1皇女。東京都職員(現・東京都建設局第5建設事務所用地課長)の黒田慶樹と結婚 

2015年12月14日 15時58分
 石垣姓は私の母方の実の祖父、医事評論家の故石垣純二氏から取っています。彼は今上陛下の家庭教師の一人でした。日本国の裏の特捜のドンでもありました。マッカーサー元帥やケネデイ家とも親交があり彼らとは親友だったと聞いております。また内務省出身という立場で国内外の悪人退治を昭和50年病で倒れるまで行っていました。彼の直接の死因は輸血の失敗、血液型不適合。けれどこれは、医療テロです。祖父の死後、アメリカのギャングたちマフィアが祝賀パーテイを開いて、これでジャパンを盗める大儲けが出来ると前祝をしていたそうですから。そして、彼を失った日本はその後坂道を転げるように国力が落ち込み貧乏になりだします。
 大正上皇は裕仁を自分の子供と信じておりました。祖父は水戸徳川方に、さらに実の娘、実の孫たち、そして姪までもと次々に盗まれていきました。まあもう過ぎた事ではあります。昭和の世は彼と、徳川を含む彼の支援グループによって、今日の国民国家の礎が築かれていったのです。
 人物名称など 私の母 瀧山澄子。 母の養父母名 瀧山勇作は故人 志げ。旧姓中田志げは故人。父古川榮徳は故人。

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[竹下雅敏氏]12烏の系図と八咫烏のメンバー 〜 これまでの八咫烏研究の集大成

竹下雅敏氏からの情報です。
 今回の記事は、これまでの八咫烏に対する研究の集大成です。10月31日の記事では、八咫烏の当時のメンバーを何人か特定しました。今回は、2014年11月1日調べでの八咫烏のメンバーを特定しました。現在は少しメンバーが入れ替わっています。
12烏のメンバーの血筋は、伏見宮家、鷹司家、徳川家、島津家などのごくわずかな一族からなることを示しましたが、今回残りのメンバーを含む系図を作成しました。これをご覧になると、見事に姻戚関係でがっちり固められているのがわかります。
今回の系図と11月20日の記事の系図で、12烏のメンバーのほとんどが出て来ます。今回の系図に書き切れなかった会津松平家に関しては、12月3日の記事の系図の松平容保の七男・松平保男(会津松平家12代当主)、その子・松平保定(13代当主)、その子・松平保久(14代当主)となります。
系図を見て細川護煕(第79代総理大臣)が目に留まります。また、島津忠秀夫人となった近衛昭子はその後整体師野口晴哉氏と駆け落ちして、野口昭子となります。昭子夫人は野口晴哉氏によって闇から救い出された感があります。
(竹下雅敏)
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12烏の系図(クリックで拡大)
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[竹下雅敏氏]大正天皇の子女の配偶者及び、昭和天皇の子女の配偶者の血筋 〜明治維新を首謀し、日本を支配する血筋〜

竹下雅敏氏からの情報です。
 11月16日の記事の系図を見ていただくと、明治天皇の子女の配偶者がすべて伏見宮家の出の者だということがわかります。今回はさらに、大正天皇の子女の配偶者及び、昭和天皇の子女の配偶者の血筋がどうなっているかを調べました。
 下に簡単な系図があります。ご覧になると、わずかな一族によって占められているのがわかると思います。伏見宮家、鷹司家、徳川家、松平家、島津家が目に留まります。
 これらの系図からわかることは、明治維新がこれらの家柄の者たちによる陰謀であったということです。この系図に出て来る家系の者たちが、日本を支配する血筋だと言えます。彼らと財界人との間に姻戚関係による強固なネットワークが築かれているはずです。
 おそらく、彼らの家系の当主に当たる人物のみが裏天皇と八咫烏の秘密を明かされ、代々裏天皇に仕えて来たのだと思います。天皇財閥と言う言葉がありますが、本当は裏天皇財閥というのが正しいでしょう。表の天皇は国民の目を欺く仮の姿なのです。
(竹下雅敏)
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皇室の構成図
記事配信元)
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[マスコミに載らない海外記事]ミヤンマーの新“民主的独裁者”: アウン・サン・スー・チー 〜八咫烏直属の笹川財団が選挙監視→スー・チーが率いるNLDが圧勝 ミャンマーは今後暗黒の時代へ〜

竹下雅敏氏からの情報です。
 ミャンマーの軍事政権が、徐々に中国から離れ始めたのは、日本の工作が大きかったのではないかと想像しています。笹川財団の笹川陽平のブログを見ると、財団とミャンマー軍との交流の様子がよくわかります。おそらく日本得意の接待漬けにしたのだろうと想像します。
 選挙でアウン・サン・スー・チーが率いるNLDが圧勝したということですが、私は個人的に不正選挙だったと考えています。
 3.11は核による人工地震であったことがほぼ明らかになっています。JAMSTEC(独立行政法人海洋研究開発機構)の所有する海底掘削船「ちきゅう」の作業によって核が埋め込まれたことを、作業に関わった者が自白しています。要するに、3.11には、笹川陽平が所有する財団が深く関与しているわけです。
 以前取り上げた記事では、“3.11人工地震日本最大の黒幕は…「前田ゴロウ」なる男性”とあり、3.11は、八咫烏が関与していることがわかります。笹川財団は、その八咫烏の直属の組織なのです。こうした犯罪集団がミャンマーで公正な選挙の監視をやっていたとは、私には到底信じられないのです。
 記事では、今回の選挙の勝利によって、ミャンマーが今後暗黒の時代に入って行くことを予測しています。私はアウン・サン・スー・チーやパキスタンのノーベル平和賞のマララの顔を見ると、気分が悪くなります。権力のためなら、国民はおろか、自分の魂までも悪魔に売ってしまう連中の顔を見るのは、いつの場合も不愉快なものです。
(竹下雅敏)

注)以下、文中の赤字・太字はシャンティ・フーラによるものです。

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ミヤンマーの新“民主的独裁者”: アウン・サン・スー・チー
転載元より抜粋)
Tony Cartalucci

New Eastern Outlook
2015年11月21日


スー・チーは、選挙の前に、百万人の有権者の投票権を剥奪し、今後、自分は憲法を超越すると宣言した。

欧米マスコミは、ミヤンマーの最近の選挙を歴史的快挙として描き出している。”だが、約百万人の有権者が投票を禁じられた選挙で明らかな勝利を得て、既に自分は法律を超越すると宣言している人物から、一体どのような民主主義と政治的自由が生まれるのかと疑わざるを得まい。

彼女が率いるNLDや、彼女を支持する“市民社会”非政府組織(NGO)の巨大ネットワーク全てが、毎年何十億ドルもの支援を、アメリカ合州国とイギリスから長年得て、この支援と引き換えに、ミヤンマーの国有資源、産業と、インフラを、スー・チーの権力奪取に、長年金銭的面倒を見て来たウオール街大企業や機関の口に、大規模に流し込むことになろう。

都合良いときだけ“民主主義” 

現実には、スー・チーと、彼女のNLD支持者たちは、約100万人のロヒンギャ族が、選挙実施前に、投票権を剥奪されるのを幇助したのだ。ロヒンギャ人が投票権を剥奪されたままにしておくという、連中の要求が満たされなければ、暴力で威嚇するという、広範な抗議行動によって、軍を与党とする政府は、投票権を含め、長年求められてきた権利を、少数民族ロヒンギャ族に認める計画を撤回した。

BBCは“ミヤンマー、抗議行動の後、ロヒンギャ人の投票権を取り消し”という見出し記事で、こう報じている。

“暫定的な身分証明書”を持っている暫定住民に投票を認める法律成立後、何百人もの仏教徒が街頭に繰り出した。

ミヤンマーには、100万人以上のロヒンギャが暮らしているが、彼等は、政府からは、国民として認められていない。

BBCは、これら“街頭に繰り出した”“仏教徒連中”が実際には、悪名高い2007年の“サフラン革命”を含め長年、全ての主要なNLD支持抗議行動を率いてきたスー・チーの政治運動の要であることに触れそこねている。

スー・チー自ら法律を超える存在だと宣言 

更に、スー・チーの勝利が明らかになった直後、彼女は、誰が実際に法律に従って、大統領になろうとも、自分が全ての決定を行うと断言して、自らミヤンマー憲法を超越すると文字通り宣言したのだ。

スー・チーの、ロヒンギャ選挙権剥奪や、法の支配の目に余る無視は、何十年も、彼女が非難して来た支配体制の極めて独裁的な特徴を実証している。

ミヤンマーの少数民族ロヒンギャにとって、軍が率いる政府は、時には、スー・チーの超暴力的なサフラン暴徒の手による虐殺を防ぐ唯一の保護勢力だった。

政府における軍の役割が縮小し、スー・チーの虫の良い選択的な法の支配への固執によって、彼女の支持者たちは、ロヒンギャのみならず、あらゆる政治的、社会文化的な敵に対し、自分たちの虐殺の野望を実現する自由を期待する可能性が高い。

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