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ユダヤ問題のポイント(日本 明治編) ― 第4話 ― 討幕派とは誰か

 明治維新の底流には外国勢力の日本侵略計画があることを見てきました。外国勢力とは全体として表現すれば欧州の「黒い貴族」という表現が間違いないでしょう。イギリス東インド会社のアメリカ支店のペリー率いる東インド艦隊来航が日本を大きく揺さぶり、その後の大変換を呼んだのです。
 ただし、無論具体的には外国勢力の働き中心で徳川幕府の転覆から明治維新が成立したわけではなく、日本の内部にある勢力の働きでそれは達成されていったのです。
 この日本内勢力は通常は薩長と捉えられているでしょう。明治維新は定番として“薩長VS徳川幕府”の構図で語られるからです。そして薩長が倒幕から明治維新の一大勢力であったのは間違いはないです。
 しかしそれ以前に倒幕、明治維新を牽引する国内勢力がありました。薩長などが合言葉にしていたのが「尊皇攘夷」で、これは水戸光圀からの水戸学から生まれた思想です。日本全国に広がった「尊皇攘夷」思想が倒幕、明治維新に繋がったのです。
 実は意外かも知れませんが、水戸徳川が倒幕勢力の中心でした。つまり、徳川幕府の内部に倒幕勢力の中心があったのです。そして更に水戸徳川と連携していたでしょうが、倒幕勢力の本体が別にあったのです。
 この勢力が現在の安倍政権とも繋がっている勢力でもあります。
(seiryuu)
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ユダヤ問題のポイント(日本 明治編) ― 第4話 ― 討幕派とは誰か

明治維新の牽引者 〜南紀派と一橋派の争い


明治維新の最功労者は徳川慶喜。こう記すと「まさか!?」と驚かれるかも知れません。私自身もそのような情報に接した時「え!?」となりました。

私達には明治維新は”薩長VS徳川幕府”、この構図が刷り込まれています。それで私の中にも維新の流れを見ると、「徳川は随分あっさりと身を引いたものだな」との感はあっても、「徳川自身が明治維新を進めた」、こういった言葉が存在していなかったからです。

ただし事実として、徳川最後の将軍徳川慶喜はあっさりと「大政奉還」を宣言し、鳥羽・伏見の戦いでは部下を置き去りにし敵前逃亡、その後江戸城を開城しているのです。この慶喜の行動で速やかに維新は成立していったのです。

鳥羽・伏見の戦いでは、外国勢力は抜きにして薩長軍と幕府軍のみを比較したら、全体の兵力は幕府軍が圧倒していたのです。ところが司令塔が不在になり、幕府軍は敗退するのです。将軍慶喜の存在なくしてあのような明治維新は無かったのです。


さて、このような情報を与えてくれたのがリンパ球バンク株式会社の「表に出始めた明治維新の真実 ~総集編」という記事です。少し長いですが文章は巧みで、全文読まれたら良いかと思います。「どうかな??」と思える部分はありますが、概ねは記述されていることに間違いはないと思います。

この目次の中に「討幕の英雄三傑、慶喜将軍、勝海舟、榎本武揚のその後」とあります。薩長VS徳川幕府の視点ではなく、倒幕の英傑を慶喜将軍、勝海舟、榎本武揚の三名としているのです。明治維新を牽引したのはむしろ徳川内部からの勢力だったという視点です。

この記事では「倒幕派の重鎮」としてまず水戸徳川、そして島津斉彬(薩摩)山内容堂(土佐)松平春嶽(福井)の名を挙げています。ここで挙げられている「討幕派の重鎮」メンバーは、「倒幕派」というよりは全体的には「一橋派」とした方が正確で無難かな?とは思えるのですが、幕末に将軍の後継者問題が勃発し「南紀派」と「一橋派」の争いがあったのです。

歌川広景筆 『青物魚軍勢大合戦之図』
編集者註:将軍継嗣問題(一橋派 vs 南紀派)を風刺した幕末の浮世絵。蛸は水戸名産で「徳川斉昭」、藤顔(冬瓜)は「井伊直弼」。詳細はこちら
Wikimedia Commons [Public Domain]

簡単には血統を重視する保守派が「南紀派」、一方の能力主義の根本改革派が「一橋派」です。「一橋派」が推していたのが英名と評判の「一橋慶喜」、後の徳川慶喜です。しかしこの争いは「南紀派」が勝利します。

この流れの中で大老に就任していた井伊直弼は日米修好通商条約に調印し、それに激昂する水戸徳川などに対して「安政の大獄」を断行します。井伊直弼の行為は大老として徳川幕府の権威を守り回復し、外国勢力と正常に対処していくためのものだったと見受けられます。

しかしこの井伊直弼は程なくして凶刃に倒れます。「桜田門外の変」です。脱藩水戸浪士グループに大老が惨殺され、幕府の権威は完全失墜したのです。

そしてこの後は「一橋派」が日本国内を牽引していくのです。即ち「一橋派」が維新の主要メンバーとなるのです。

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ユダヤ問題のポイント(日本 明治編) ― 第3話 ― 明治維新の実働隊形成

 先ず気をつけるべき点を。
 善悪などの相対論で事物を括ると実態が見えなくなります。日米修好通商条約の1858年からわずか10年後の1868年に明治政府が樹立しています。この10年間を切り取るだけでも、大激動の大動乱で様々な出来事が目まぐるしく起きました。
 「倒幕だ」「いや幕府を助ける佐幕が本来だ」「尊皇だ」「攘夷だ」「いや開国だ」と、公家から幕臣、大名、商人そして若者たちが激しく動きました。
 そのそれぞれを大別して「尊皇攘夷」と「佐幕開国」としましょう。このどちらかが例えば「尊皇攘夷」が善で「佐幕開国」が悪とも、逆に「尊皇攘夷」が悪で「佐幕開国」が善であったなどとは括れないのです。
 「倒幕」を主張し行動する人間には、本当にこの国の将来を憂いて自身を犠牲にしてでも道を開かんとした人々もいれば、自身の野心や野望を遂げるのが主目的で「倒幕」を主張した者もいたでしょう。これは「佐幕」を主張する人々も同様です。
 それぞれ見えている風景や考え方や立場の相違で主張とその行動は別となりますが、「倒幕」「佐幕」いずれもがその動機が純粋できれいな心からのものもあれば、どす汚れた野心からのものもあるのです。
 ただ日本全体を巻き込んだ激しい動乱の底流にあったのは、外国勢力からの侵略計画でしょう。結果として見れば維新の志士たちは外国勢力の手駒として実働した人々との見方は成立します。しかしその志士たちが「売国」の徒であったか?と言えばその見方は成立しないのです。
 さて、全体を見通す力があり、外国勢力の動向や動機に気づいた上で、それを利用して自身の野望を遂行しようとした者もいたでしょう。そして同じく外国勢力の動向や動機に気づきそれに乗っかりながらも、その力を取り込み、日本の自立と将来のために役立てようと動いた人々もいたでしょう。
 勝海舟、坂本龍馬、西郷隆盛は一本の線として繋がります。現時点での私の見方では彼ら3名は後者の部類に、日本の将来のため動いていた3名だと現時点では見ています。 
(seiryuu)
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ユダヤ問題のポイント(日本 明治編) ― 第3話 ― 明治維新の実働隊形成

朝敵になっていた長州 〜「尊皇」「勤王」の意味


帝国憲法は主に伊藤博文によって作成され、そこでは天皇について「御一身は神聖にして侵すべからず」とあります。尊皇攘夷を叫び、勤王の志士として明治維新を成し遂げた伊藤博文たち長州の志士たち、彼らが天皇を「万世一系にしてこの上なく神聖」と規定したのです。

しかし、逆に彼らほど天皇に対する崇敬の念を持たない日本人はいなかったのでは?とも思えます。幕末期、尊皇攘夷を叫び暴れまわる吉田松陰の弟子たちなどの長州勢は京都を席巻していました。しかし逆に孝明天皇に疎まれ、京都を追放された彼らは遂には実力行使の暴力クーデターを起こします。

それはなんと孝明天皇の長州への拉致等を計画したものからで、これが1864年の「禁門の変(蛤御門の変)」です。京都でのこの戦闘の中で、長州勢は孝明天皇、睦仁親王が住む皇居へ砲弾を撃ち込むという前代未聞の行動を起こしているのです。


結果長州勢は敗退し、孝明天皇から「朝敵」とされ討伐の命がくだされます。孝明天皇の命は当然でしょう。ところが紆余曲折はあったのですが、その明らかな「朝敵」長州が、明治天皇を前面に押し出して新政府を樹立して運営していくことになったのです。彼らは担ぎ上げた天皇を「神聖にして侵すべからず」と最大の崇拝姿勢を見せつけ、それを日本全国民に強制させました。

しかしその崇拝の言動は表に見せる部分であって、内心はどうだったのでしょうか? 彼らのもともとの「尊皇」だとか「勤王」だとかは、天皇を拉致して自分たちに都合よく利用しようとすることで、それがうまくいかないとなれば公然と天皇に刃を向いて孝明天皇、睦仁親王の住居に砲弾を打ち込んでいるのです。

天皇を利用しようとしてそれが叶わないとなれば砲弾を撃ち込むこのメンタリティ、これは危険なテロリストもしくはストーカーのそれでしょう。

「朝敵」の烙印が押されたのが1864年、大政奉還が1867年です。「禁門の変」から見るならば、彼ら長州の勤王の志士にとっての天皇は、担ぎ上げることで都合よく利用できれば「誰だって」「何だって」良かったのではないか? そう思えてしまいます。

尊皇の志士たちにとってまことに都合よく、「孝明天皇は1867年1月崩御」と記録されます。壮健だったはずの満35歳で逝去でした。孝明天皇は最後まで長州に嫌悪を示された様子です。

そして孝明天皇は都合よく崩御されたとはいえ、長州に対する嫌悪は睦仁親王も同様、それ以上の嫌悪感・不信感を持っていた可能性は高いです。幼い時分に受けた精神的な傷は成人になってからのもの以上に大きいですから。伊藤博文たちにとっては睦仁親王もまた邪魔な存在であったのは確かでしょう。

五姓田義松による「御物 孝明天皇御肖像」
編集者註:1900年に描かれた肖像画とは明らかに雰囲気が異なりますが、皇室と密接な関係があり、孝明天皇陵のある泉涌寺の肖像画や、桓武天皇と孝明天皇をご祭神としている平安神宮の肖像画とは似ています。

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ユダヤ問題のポイント(日本 明治編) ― 第2話 ― 明治の逆転劇、北朝天皇はありえない

 平気で嘘をつき続る人たちがいます。彼らの特徴は言葉と思いが全く別、おまけに言っていることと実際の行動がアベコベで、支離滅裂なことです。
 彼らのその主張は整合性が全くなく論理破綻していて、それを指摘されたところで平気であって、恥というものを知りません。ビョーキなのです。もちろん安倍一派がこれなのですが、彼らのビョーキは遺伝なのだろうなと感じます。
 明治天皇を担ぎ上げることで明治政府は成立して稼働していきました。明治天皇の前の天皇、壮健だったはずが満35歳の若さで崩御したと記録される孝明天皇は北朝の天皇です。南北朝の争いを経て室町時代中期以降、天皇は代々北朝の天皇なのです。
 ウィキペディアによると明治22年『(旧)皇室典範』制定に当たった伊藤博文は、皇位継承をできるのは父親である天皇の胤を受けた男子とします。その上で大日本帝国憲法第一条に「大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス」とします。
 こうなると明治天皇は孝明天皇の胤を受けた息子のはずです。でなければ「万世一系」でも「之ヲ統治ス」も成立しません。睦仁親王が孝明天皇の胤を受けた皇太子ならば、この条件をクリアし「万世一系ノ天皇」となります。そしてこの天皇は当然ながら北朝の天皇となるのです。
 しかし明治天皇は、前回見た「招魂社」の件から見て、そもそも天皇としてあまりにも異質で代々天皇とは乖離しています。その上ましてや北朝の天皇としては全く「ありえない」のです。実際に明治政府が日本国民を統治するために行ってきた数々の事柄は、北朝天皇の日本統治としては完全に矛盾するのです。辻褄が全く合わないのです。
 ある事柄同士が相矛盾し、辻褄が合わない、これは虚偽の特徴です。田布施出身の伊藤博文はその理由までは分かりませんが、意図的に数々の虚偽を押し通してきたのは明瞭です。血縁があるかは不明ですが、安倍晋三氏は伊藤博文と同じく田布施の系統です。
(seiryuu)
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ユダヤ問題のポイント(日本 明治編) ― 第2話 ― 明治の逆転劇、北朝天皇はありえない

200年間の「朝敵」が神に 〜建武中興十五社の怪


神戸市中央区に湊川神社があります。明治2年にその場所は確保され、社殿は明治5年に完成。明治期最初から全国に設立されていった招魂社と同時並行的に湊川神社は設立されたのが分かるのですが、湊川神社は最初から“神社”として創建されました。この神社の祭神は「楠木正成」です。


楠木正成は朝廷が南北に別れ争った南北朝時代の武将で、後醍醐天皇に仕えた南朝側の武将です。楠木正成は「日本史上最大の軍事的天才」として高名ですが、1336年の湊川の戦いで北朝側となった足利尊氏によって自刃に追い込まれました。その後に南北朝の争いは北朝側の勝利となります。

その結果、楠木正成はどのような扱いとなったかは彼のウィキペディア記事に次にある通りです。

南北朝の争いが北朝側の勝利に終わると、南朝側に尽くして死んだ正成は朝敵とされてしまった。だが、永禄2年(1559年)11月20日、正成の子孫と称した楠木正虎が朝敵の赦免を嘆願し、正親町天皇の勅免を受けて正成と楠木氏は朝敵でなくなった。ただし、この時点では『先祖である朝敵・正成の非を子孫が深く悔いたから』許されたという形式になっており、正成に非があるとする汚名の返上にまでは至らなかった。」

いつの時代でもそうですが、その人物の評価は時の為政者で権力を握った側の都合で決められます。「勝てば官軍、負ければ賊軍」です。朝廷への子孫の嘆願と献金によって正成は約200年間の「朝敵」とのレッテルは外されました。しかし北朝側からすればやはり正成は大悪人です。そして室町時代中期以降の天皇は代々北朝の血統子孫なので、基本的に正成は幕末までは大悪人の扱いのはずだったのです。

ところがそれが明治になると、その元は朝敵であった悪人が一転して大忠臣の大英雄で神として奉られるのです。実は明治の世におけるこの逆転劇は正成だけではありませんでした。湊川神社は明治に次々と建設された建武中興十五社の一つで、ウィキペディアによると「建武中興十五社(けんむちゅうこうじゅうごしゃ)とは、建武中興(建武の新政)に尽力した南朝側の皇族・武将などを主祭神とする15の神社である。」とのことです。

要は明治になると、楠木正成をトップとしてそれまで北朝側にすれば大悪人であったはずの南朝側の皇族や武将を神として奉るようにしたのです。これは政府による国民統治のための施策です。

しかし明治天皇は北朝の天皇のはずで統治権を有していますが、本当に北朝の天皇ならば、国民統治のために敵方であった南朝の皇族や武将を神として奉る神社を創設していくでしょうか?


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ユダヤ問題のポイント(日本 明治編) ― 第1話 ― ヤスクニのウソから

 今年もあの8月15日を迎えようとしています。毎年この時期に取り沙汰されるのが、首相の「ヤスクニ」への参拝です。
 「靖国神社は日本古来の伝統ある神道の神社で、そこではお国のため死んでいかれた多くの方々が祀られ、鎮魂と慰霊の祈りが捧げられている」。日本人の多くはこのように漠然と思っておられるようにも感じます。それで「その参拝に文句を言う近隣諸国は内政干渉だ」と…。
 しかしその認識は完全に誤りです。「ヤスクニ」は国家神道の象徴となる神社です。ところが本質から見れば、国家神道は本来の神道とは全く異質、そして「ヤスクニ」は本来では神社ではありえない代物です。
 神社と称している「ヤスクニ」の実体を日本会議・神道政治連盟の議員である稲田朋美元防衛相が言い表しています。WiLL2006年9月号特集で彼女はこう主張しています。

「靖国神社というのは不戦の誓いをするところではなくて、『祖国に何かあれば後に続きます』と誓うところでないといけない」

 この発言は彼女のウィキペディア記事に出ていますが、意味は分かるでしょうか?
 「ヤスクニ」の祭神?は戦死者です。太平洋戦争での戦死者はその多くが餓死であり、戦死者の殆どは苦しく無念の思いで亡くられた方々でしょう。その彼らの前で「申し訳なかった。貴方方のように苦しく無念の思いをされて死んでいく方たちを二度と出さないように戦争はいたしません」、このように誓ってはならない、と主張しているのです。
 そして「お国のため苦しく無念の思いを抱かれ戦死した貴方方は後続の鑑です。どうぞその怨念をお持ち続け下さい。そしてその怨念で貴方方の後に続く者たちを募って下さい。私達もそれに大いに助力します。」、「ヤスクニ」ではこのようにお誓いしなければならない、このように稲田元防衛相は主張したのです。これが「ヤスクニ」の実体です。「ヤスクニ」はこういう装置として設立されたのです。
 今日でも「ヤスクニ」では戦死者への「招魂祭」を執り行っています。しかしこの死者への招魂祭は、古来から日本では禁じられていた儀式です。国家神道の靖国神社とは、本来の日本の神道と神社に「成りすまし」「乗っ取り」、日本国民に呪詛をかけ続けている。こう表現するのが正しいように思えるのです。
(seiryuu)
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ユダヤ問題のポイント(日本 明治編) ― 第1話 ― ヤスクニのウソから

日本全国に招魂社が設立 〜明治天皇の命名の問題


天皇は大神官であり、日本の最高神官である。このことを否定する方はいないでしょう。明治維新もそうですが日本の歴史を見るには、天皇は最高神官であるとのこの超重要事項を踏まえた上で見ていく必要があるでしょう。

日本では明治以降は天皇を政治的な側面で見ていく傾向が強いように感じますが、天皇の原点、本来の役割は神官なのであってこの視点を欠くと日本の歴史観は歪曲を生じると見ています。そして天皇は大神官であるとの当たり前の原点から見るならば、天皇を担いだ明治新政府が、日本の伝統的文化や宗教的慣例に対していかに“異様な行為”を断行したかが見えてきます。

明治以降日本は「国家神道」に傾いていくのですが、それの象徴というか手始めが「招魂社」の設立です。明治に入って早々に岩倉具視の発布によって日本全国に招魂社が設立されていきます。


官祭招魂社(かんさいしょうこんしゃ)」で検索してみてください。そうすると「官祭招魂社は、政府が管理を行った招魂社」で、この政府管理の招魂社だけでも日本全国に114、とりわけ旧長州の山口県には21もの官祭招魂社があることが分かります。

このうち東京九段の招魂社が明治天皇の命名によって国家神道の象徴たる「靖国神社」になります。他の招魂社の多くは「護国神社」の名となっているのです。

実は日本全国における招魂社の設立が明治新政府からの国家事業の一つであったのです。しかしこの招魂社は普通の日本人的な常識や語感からは大いな”違和感”がいくつもあるのです。

ウィキペディアの「招魂社」を見れば、招魂社は「明治維新前後から、また以降に国家のために殉難した死者を奉祀した各地の神社」、そしてそのルーツは「1863年(文久3年)に高杉晋作は、下関戦争での戦没者の霊を慰めるため、また、今後の戦いに臨むに当たって自分たちの生墳(生前にあらかじめ建てておく墓)が必要であると発起し、奇兵隊の賛同を得て隊員共同の招魂場を設置することになった。日本初の招魂社となる櫻山招魂場(現・櫻山神社)は1864年(元治元年)5月に山口県下関市に築かれ、翌年8月に社殿が完成した」とのこと。


招魂場は幕末まで日本に存在しない新しい施設ですが、要するに、主に戊辰戦争以降の戦死者を祀る施設と見なせます。もとは招魂場の招魂社は墓や霊園と見なすのが自然なのです。従ってこの時点では招魂社は“社”の文字があっても“神社”ではありません。

ところがこの招魂社を明治天皇は「神社」と命名したのです。これが大変な問題なのです。1879年(明治12年)に東京招魂社を「靖国神社」と命名した明治天皇のふるまいは、大神官、国家の最高神官としてのふるまいとしては大変な違和感があるのです。善悪は別として全くおかしいのです。

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