金塊の歴史年表6:ドラゴン・ファミリー金融商品(DFFI)の横領事件

翻訳チームからの情報です。
 前回はキーナン氏が金塊史に関与するきっかけをご説明しました。ドラゴン・ファミリーの使者として、二人の日本人がDFFI(ドラゴン・ファミリー所有の債券)の一部をキーナン氏に手渡そうと試みるも、イタリアのキアッソで警察にいちゃもんつけられて更にその内の一部を没収されてしまいます。
 今回は、無事キーナン氏の手元に届けられた残りのDFFIのお話しです。こちらもやっぱりイタリア人に横領されます。うーむ、国家権力から銀行家まで駆使して手段を選ばず蛮行を繰り返してます。…てことは、最初のキアッソ盗難にもPS2とかバチカンとか裏で絡んでないかね?などと疑ってしまう訳者でした。国連なんぞはただの使いパシリでしょう。やはり悪の親玉はイルミナティでしょう、カバールでしょう。
 ちなみにDFFIはこれまでの金塊史に登場した連邦準備券とか日本国債とかケネディ債券とか、金の亡者垂涎のシロモノの寄せ集めなようです。その危険な魅力に屈することなく、世界を良くする事業計画の資金源に充てる方を選べるキーナン氏やドラゴン・ファミリーの方々は凄いです。しかも今のところ、かなりの労力に関して無償ですよ、キーナン氏(←成功報酬は約束されている模様)。おまけに思いっきり試されている気がするんですけど…。盗まれても再発行可能な金融商品を餌に敵と味方をふるいにかけましたよね、ドラゴン・ファミリーの皆さん?恐るべし、”中国四千年の歴史”。
(Yutika)

注)以下、文中の赤字・太字はシャンティ・フーラによるものです。

————————————————————————
金塊の歴史年表
転載元より抜粋翻訳)

7.05 ダル・ボスコがニール・キーナンに紹介される


2009年7月 ‐ 自称フリーメーソンの33位階でモンテカルロのP2(プロパガンダ・ドゥエ)ロッジ所属のミスター・レオ・ザガミという男が、真実(解明)運動のアジア特派員でジャーナリストであるベンジャミン・フルフォードと話すために来日した。ザガミがフルフォードに教えたところによると、山口とワタナベはキアッソで「嵌められた」のであり、当地でのDFFI【=ドラゴン・ファミリー金融商品】押収に関する「内部情報」を彼自身が有しているという。

【フルフォードとザガミ】

【フルフォードとザガミ】


イタリアに戻ったザガミは、フルフォードとローマで会う手筈を整えた。そこでもキアッソのことが話し合われ、スカイプ通信を通してダニエーレ・ダル・ボスコをフルフォードに紹介した。この男はザガミの代理人で、信頼の置けるバチカン銀行家であり、P2フリーメーソン・ロッジと繋がりがあるとのことだった。ザガミはフルフォードに、ダル・ボスコなら「イタリア財務警察によって押収された債券を現金化する」手助けをすることができるだろうと述べた。

この話し合いの結果、ダル・ボスコは照会先としてザガミの名を挙げてキーナンに面会の申込みをしてきた。ダル・ボスコとキーナンは9月に直接会うまでの約6週間、ほぼ毎日スカイプで話し合った。ダル・ボスコは単にザガミ個人だけではなく、バチカン【教会】、バチカン市庁国、ローマ市の財務顧問を務めており、ローマとモンテカルロのPSフリーメーソン・ロッジにおける会計責任者でもあると主張していた。

2009年9月 ‐ キーナンはダル・ボスコにDFFIの管理を任せることが、彼にとって最良の選択だと納得するようになっていた。9月8日、アレッサンドロ・サンティという非常に親しい友人と会うため、キーナンはイタリアへと飛んだ。キアッソ没収事件に先だって山口も会っていた人物である。ダル・ボスコがサンティにキアッソ事件で自分が知っていることを話したがっていたので、キーナンとサンティはミラノでダル・ボスコとも合流することにした。

DFFIを手渡されてからというもの、ヨーロッパでの旅の間中も含めてだが、キーナンは万全を期すために全てのDFFIを自分自身で所持していた。そしてこれまでは、出歩く前にDFFIをホテルに貴重品として預けていた。

【しかし】9月18日にスイスへ戻った際、ブルガリアの自宅へチューリッヒ空港から帰る前に、キーナンはそれまでの両者の話し合いで決めた通り、DFFIをダル・ボスコに手渡した。

以降ヨーロッパやチューリッヒ中を何度も旅する間、ダル・ボスコはキーナンと会っては、キーナンが所持するDFFIを出立時まで預かるようになった。【中略】

2010年1月 ‐ キーナンはダル・ボスコを連れて、金融トレーダーのH・エドワード・ウェールに会いにスイスのジュネーブへ行った。これ以外にも少なくとも2度、ダル・ボスコはチューリッヒでの会合に【キーナンから預けられた】DFFIを持参して来た。それが保管人としての役割であり、とあるPPP【=ドラゴン・ファミリーの世界救済計画】にDFFIを投入するというキーナンの計画を容易にするという理由からだった。

7.06 ダル・ボスコに対する疑念



2010年2月 ‐ キーナンがチューリッヒに滞在中、ダル・ボスコは唐突にそして驚いたことに、ジャンカルロ・ブルーノと世界経済フォーラムを介して国連の高官と接触することを提言して来た。そうすれば自分たちは、DFFIに含まれていた米国連邦準備券と引き換えに1億USドル得られるとのことだった。

2010年2月 ‐ キーナンが気付かない内に【中略】、ダル・ボスコはドラゴン・ファミリーという存在と彼らの所有する様々なDFFIの価値に強い興味を示し、【中略】独自の調査を開始していた。イタリア政府やイタリア財務警察の内通者から、キアッソで押収された連邦準備券とケネディ債券が本物だったと教えられると、ダル・ボスコはさらなる関心を抱くようになる。

2010年2月 ‐ 以上のような調査や繋がりの結果として、デイヴィッド・セールやOITC【=国際財務管理機構】、レイ・ダムといった連中(被告)を知らされることになるとはキーナンは思ってもみなかった。彼らは2010年3月16日付けで、ダル・ボスコと書面にて契約を取り交わしている。

この契約によると、OITCはダル・ボスコがキーナンからDFFIを盗み出し、OITCへと渡す目論見を完全に認識している。DFFIを受け取った後は、国連憲章や国連の“国家主権免責”保護云々の取り決めに基づいた権利とやらを振りかざし、OITCが所有権を主張する手筈だった。
ダル・ボスコのヨーロッパにおける繋がりは、国連と直接接触することのできるジャンカルロ・ブルーノや世界経済フォーラムも含まれていた。

【ジャンカルロ・ブルーノ】

【ジャンカルロ・ブルーノ】


以降、これら様々な人物と組織が獲物を狙って様々な犯罪計画に参入するようになる。ダル・ボスコはキーナンやドラゴン・ファミリーの受託者としての全責務を反故にして裏切り、自らの私利私慾のためにDFFIを盗み、その所有権を書き換えようとしていたことを、キーナンは後に知ることとなる。


7.07 ダル・ボスコからDFFIを取り返す時の到来



2010年5月 ‐ キーナンはダル・ボスコに対して、自分としてはヨーロッパの3つの国が関与した取引をまとめたいと思っており、それにダル・ボスコも参加して欲しいとの旨を明確に伝えた。ダル・ボスコは前述の国連からの1億ドル売買の申し出を繰り返したが、キーナンはそれを再度拒絶し、国連が違法行為をしていると警告した。

キーナンが実現しようとしている取引とは「国々を助けるもので、国連やらOITCや世界経済フォーラムやブルーノではない」のであって、前者から「還元されるもの」は関係者全員にとってもより大きく、ドラゴン・ファミリーも自分たちの人道的計画のために大いなる利益を受け取ることになるだろう、とダル・ボスコに説明した。

2010年5月 ‐ キーナンはこの時、ジュネーブのウェールズ氏を介して合法的に承認されたPPPへ日本国債のみ動かそうと動いているのであって、連邦準備券やケネディ債券を投資したり移動させる予定は全くないことを繰り返しダル・ボスコに伝えた。実際には同時並行で、連邦準備券を米国やアジアそして幾つかの欧洲の国々を支援する別の計画に移すことをキーナンは試みてもいた。

ダル・ボスコはローマの滞在先をわざと変更してはキーナンに自らの居場所を混乱させようとしているのが見て取れた。結局これはコンタクトを避け、最終的には消えるための算段だったのだ。

2010年6月 ‐ キーナンは自分の仲間で米国国籍のジョセフ・ベンダナ氏がジュネーブまでやって来て、計画に用立てるために全DFFIを回収するとダル・ボスコに直接伝えた。奇妙なことに、時を同じくしてOITCがキーナンとその仲間に対して“排除停止”命令(OITCの命令)を“電子的に送り付け”てきたのだ。この排除停止命令は、国際財務管理者という国連憲章によって任命された地位に基づき“レイ・C・ダム博士閣下”が発行したとされていた。

2010年の6月9日、ダル・ボスコがキーナンに接触して来て、自分がOITC命令に関連づけられはしまいかと恐れていること、DFFIについて決定を下す権限が自分に与えられていないことを訴えた。キーナンはダル・ボスコに対して、自分は何も間違ったことはしていないこと、OITCは詐欺集団であって、世間への見せかけとは異なり国連や連邦準備制度理事会や国際決済銀行からいかなる保護も処分権限も提携関係も承認も与えられておらず、たとえ何らかの資格をかつて享受していたとしてもそれは何年も前に無効となっている、と保証した。

そしてダル・ボスコは名前すら(訴訟)書類に挙げられていないことを指摘し、このOITC命令は無視するように伝えた。しかしOITCがどうやってキーナンのEメールアドレスを知ったのかという点も問い詰めた。それまでOITCと接触していたことはキーナンにも露呈していたというのに、ダル・ボスコはしらを切り通したのだった。

6月10日、OITCはキーナンにEメールで手紙を送り付け、OITC命令を無視することは努々なきよう“強く忠告申し上げる”と言って来た。


7.08 ジョセフ・ベンダナによるDFFI回収の試み



2010年6月 ‐ ジョセフ・ベンダナは以前キーナンと共同でPPPに携わったことがあり、ドラゴン・ファミリーにも認知されていた。例えば2008年9月23日に「ケネディ債券10枚とAU(金塊)415トンの合法的所持者として」、山口はベンダナのために委任状を発行し、ベンダナが「債券とAU双方のPPP関連の全活動を監督する」権限を与え、プロジェクト・コーディネーターのキーナンの周囲で発生するあらゆる問題の処理において常時ドラゴン・ファミリーの面々を守ることとしている。

6月14日、ベンダナはダル・ボスコからの電話を受け、彼の権限について話し合った後、ジュネーブでダル・ボスコと会ってDFFIを回収する約束を取り付けた。

6月15日、ベンダナはダル・ボスコの手からDFFIを取り戻すという目的のためだけにジュネーブに飛んだ。正確に言うと、ダル・ボスコが預けた金庫から連邦準備債券、日本国債、ケネディ債券といった全てのDFFIを取り戻し、キーナンに渡す手はずを整えるためだけに、だが。

【説明が何もないですが、おそらくはジュネーブで待ちぼうけをくらった場所の写真?】

【説明が何もないですが、おそらくはジュネーブで待ちぼうけをくらった場所の写真?】


 実際にはダル・ボスコは約束の時間に現れることはなかった。ベンダナはジュネーブで3日間過ごした後に、キーナンと会うべく手ぶらでブルガリアに向かうしかなかった。【中略】

キーナンとの夕食の席で、ベンダナはダル・ボスコへ自身の日程を漏らしてしまったことを詫び、ボスコがDFFIを盗もうとしているのは確かだと思うと述べた。ベンダナは2010年7月4日に米国に戻った。

やがて、ダル・ボスコ自身がDFFIを返還する意思がないこと、そして「自分の人生を立て直さないといけない」との旨をキーナンに直接告げて来た。これはキーナンにかなりの経済的損失を与えることとなった。キーナンが取り引きしていたヨーロッパの勢力は、DFFIの一部である連邦準備債券を使用させて貰い、尚且つとあるPPP案件の50%に関わらせて貰う見返りとして、小切手の形で140億ドルを投資に充てるべく、必要とされる経済的な手筈を整え終えていたからだった。

ベンダナが帰国してから数日後、ダル・ボスコがDFFIの返還を再度検討していること、そして「もう少し待ってみようかと思っている」ことを電話でベンダナに伝えた。

2010年6月 ‐ ドラゴン・ファミリーがキーナンに、盗まれたDFFIについては心配無用と知らせてきた。なぜならDFFIは無効化することが可能であり、半年で再発行できるため、キーナンが受け取って現金化し、PPPへと投入することも問題ないからだった。但し、もしキーナンが再発行されたDFFIを受け取るのであれば、国際担保口座群については彼は追及できないとも明確に宣言した。どちらの道を選択しようとドラゴン・ファミリーは一切の援助をするつもりがないので、キーナンは自ら資金調達する必要があるとのことだった。

【中略】キーナンが再発行を選択しなかった第一の理由はDFFIが自分の監視下において盗まれたこと、それ故に盗人から取り戻す責任があると痛感していたからだった。また第二に、人道的な目的のため、全人類を助けるために、国際担保口座群がいかに重要かを今や理解したからだった。キーナンは盗まれたDFFIを取り戻す戦いに挑むこと、そしてその後により大きな国際担保口座群を人類のために追及することを、ドラゴン・ファミリーに告げた。

後になってIMFの銀行カバール側も、もしキーナンがDFFIを使って現金化を試みれば、国際担保口座群を追及することは許さなかったであろうと告げてきたので、DFFIの盗難事件と口座群の取戻しの両方を選んだのは結局のところ正解だった。

翻訳者:Yutika
※【 】内の文字は、訳者が付け加えたものです。
読み易さを重視しましたので、正確な情報は元記事をお確かめください。

Comments are closed.