映画「沖縄スパイ戦史」を観た 〜 沖縄戦から現代の辺野古につながるキーワードは「軍隊」「秘密」「スパイ」

 映画「沖縄スパイ戦史」を観ました。
三上智恵監督は、これまで高江を追った「標的の村」、辺野古の反対運動を追った「戦場ぬ止み」など沖縄をリアルに映すドキュメンタリー作品で高い評価を受けています。今回のテーマは、例えば「ひめゆり」のような沖縄の知られざる悲惨な過去を取り上げたものかと思っていました。
 しかし、そのような安易な予想はバッサリ裏切られました。
三上監督は、「不幸の再現に加担する者たちを焼き尽くす火炎放射器」を放つようにこの映画を作ったそうです。その照準の先には、過ぎ去った過去ではない、今、まさに辺野古を脅かす者も入っています。翁長知事死去の後、映画に関するツイッターのコメントも熱が増したようです。かつてなく上映館も増えているそうです。
 今、私たちの日本が置かれている危機的な状況を浮き彫りにし、同時に歴史を俯瞰する、恐ろしくも価値の高い力作です。お近くの方はぜひ観るべし。
(まのじ)

注)以下、文中の赤字・太字はシャンティ・フーラによるものです。

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映画「沖縄スパイ戦史」を観た〜 沖縄戦から現代の辺野古につながるキーワードは「軍隊」「秘密」「スパイ」
『沖縄スパイ戦史』劇場予告篇


陸軍中野学校出身者によって組織された「裏の沖縄戦」があった


 映画は、沖縄戦を丁寧に追うところから始まります。これまで語られてきた「表の沖縄戦」とは別に、沖縄にはゲリラ戦やスパイ戦という「裏の戦争」がありました。その一つは驚いたことに10代半ばの少年達からなるゲリラ部隊「護郷隊」による秘密裏の戦いでした。子供と思って油断した米軍に相当の打撃を与え、また沖縄で合流した日本軍ですら護郷隊の勇敢さ、機敏さに感心したそうです。

 その組織を作り、彼らにスキルをつけたのは、1944年、陸軍中野学校から沖縄に送り込まれた若きエリート達でした

中野学校から沖縄に身分を隠して送り込まれた工作員は42名。生き残った少年兵の証言とその周辺の人々の記憶、そして資料の綿密な調査を通じて見えてきたことは、国家によって周到に準備された惨劇でした

絶望的な白兵戦で「こちらがパン、パン、パンと打つ間に、敵はババババッと凄まじい銃を打つ」ような中、埋めきれない仲間の遺体が積み上がり、自らの負傷、飢餓に苛まれ、奇跡的に生き残った少年兵も、戦後PTSDの発作のため座敷牢に閉じ込められる悲惨な人生を送ります。戦死と思っていた少年兵が実は、上官に射殺されていたという証言も出ます。少年達だけでなく軍服を着せ誇らしく送り出した家族達にも、心身を狂わせるほどの衝撃を与えます。
中野学校のエリート将校は、負け戦の捨て石となることが分かっていて、少年達を利用したのでした。



戦闘の無かった島での悲劇:強制移住によるマラリア地獄


 この映画は、三上監督ともう1人、若き俊英、大矢英代監督との共作です。
大矢監督は、陸軍中野学校出身者の一人が向かった波照間島での悲劇を追いました。

離島、波照間島には、米軍は上陸せず、空襲や戦闘による死者は一人もいなかったそうです。にもかかわらず、全島民の3分の1が亡くなりました。なぜ?

 本土からやってきた若い先生は、子供達に慕われ、島民に溶け込みました。散歩をしても、なぜか道に迷うことのない、いつも木刀を下げている人気者が、ある日突如豹変し、本物の軍刀を抜き、全島民を強制移住させる命令を出します。移住先は有名な悪性マラリア地帯で島民は激しく反対しますが、島のリーダー達はなぜか逆らえません。しかも島で大切に育てていた家畜は全て強制的に屠殺されます。表向きの理由とは裏腹に、日本軍が食用に奪ったのでした。

移住先の島民達は酸鼻を極め、ここでも遺体の山を見ることになります。家族の中でたった一人残された子供も多く居ました。

 他の島々でもこのような理不尽な強制移住が行われ、八重山諸島ではおよそ3600人もの人が「殺され」ました。この軍の方針は、実に戦時下の取り決めによるものでした。日本軍の食糧の確保、情報漏洩の防止、作戦の足手まといになる老人や子供の移住など、全て軍の都合で計画的に処分されたのでした

軍機を脅かす“スパイ”は虐殺する


 さらに加えて、沖縄で軍によりスパイとされた人々の虐殺は数百を数えるそうです。
地元に駐留する海軍に献身的に協力していた10代の少女が、作業中に見たものを他言しないよう口封じのためスパイリストの上位に載せられ、危うく殺される状況だったことなどが戦後の証言で発覚します。そこには、日本兵により殺されたケースだけでなく、「スパイは人殺し」という恐怖を植え付けられ、住民同士の監視、疑心暗鬼が生み出した虐殺も多くあったことが解明されています。

こうした虐殺事件の背景には、戦前の「軍機保護法」があり、軍の機密を漏らした者は死刑も当然でした

軍は国民を守らない 沖縄は日本の雛形


 軍は国民を守らない。軍の必要のためには、徹底的に国民を利用し、軽んじ、殺しても構わないという行動規範が沖縄で実行されていました。それは、沖縄ゆえの悲劇だったのか。
当時、陸軍中野学校の出身者は全国に派遣されたと言います。あのまま戦争が長引けば、同じ状況が全国にも起こったはずだったのです。さらに言えば、スパイ容疑がかかれば死刑になりうる状況は、かつてのものでしょうか。

 三上監督の眼目は、まさにここにありました。
軍隊、秘密、スパイ、これらのキーワードでつながる「沖縄スパイ戦史」は、そのキーワードのまま現代の「自衛隊法」や「野外法」に繋がっているのではないか。
「特定機密保護法」の危険性を沖縄が証明しているのではないか。
今、私たちは、沖縄戦で見た世界の只中にあるのではないか


 米軍基地や自衛隊基地は、国民を守らない。「始末する」行動に出る。
そのことを血の涙を流して体験してきた沖縄の人々だからこそ、辺野古に反対し、米軍基地に反対してきました。平穏に暮らしていただけなのに、軍の、国の方針が国民の生活を大きく破壊することを、私たちの代わりに知り尽くしている人々なのです。

陸軍中野学校のエリート将校も国によって軍人に仕立て上げられた


 三上監督は、映画本編ではあまり描かれていない、中野学校出身の2人の将校に対しても深い洞察を寄せています。かっこよく勉強も教えてくれる強い日本軍の象徴であるエリート将校は、少年達の記憶の中でも好ましく、大変慕われていました

 護郷隊を束ねた村上隊長は、元々生物の教師になりたくて、軍人の道を歩む気は全くなかったそうです。しかし模試のつもりで受けた陸軍予科士官学校に合格してしまったことから、16歳の村上少年は時代に大きく動かされるように、否応無く陸軍師範学校から参謀本部、後方勤務要員(スパイ)に送られ、さらに気乗りのしないうちに精鋭として22歳の時に陸軍中野学校へ入校させられます。陸軍予科士官学校では、16歳から19歳までの青少年を軍人として仕立て上げ、戦場へ送り込んでいたわけです

住民を掌握し、ゲリラ隊に協力させる体制を作り上げた、住民にとっては冷酷な、国にとっては忠実で優秀な工作員だった村上隊長を知るうちに、三上監督は心から敬服できる人柄だと知ります。しかし「『軍命に従うしかなかった者たちの罪を問うてはいけない』という論理では、次の戦争は止められない」との強い思いで映画の制作に向かったと言います。
映画で証言された2人の隊長もまた、国によって利用された人々であったことが分かります。

 村上氏は戦後、少年達への慰霊を込めて多くの種類の数万本もの苗木を沖縄に送り続けました。しかしソメイヨシノは沖縄の風土に合わず、一本も根付かなかったそうです。
それとは対照的に、生き残った少年兵だった老人が仲間を想って植えたカンヒザクラは、山を覆い、鮮やかな緋色を見せていました。かつての少年兵達はカンヒザクラに、兄弟の、友の笑顔を見ていました

pixabay[CC0]


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