注)以下、文中の赤字・太字はシャンティ・フーラによるものです。
————————————————————————
<時代の正体>質問制限 削られた記事「8行」 忖度による自壊の構図
引用元)
カナロコ 19/2/21
(前略)
(中略)共同通信が、加盟各紙に配信した記事の一部を削除すると通知してきた。
(中略)
要請文が出された経緯や、その後に報道関連団体から出された抗議声明、識者の見解などを紹介する記事の終盤に差し掛かる段落のこの記述が削除された。
〈メディア側はどう受け止めたのか。官邸記者クラブのある全国紙記者は「望月さん(東京新聞記者)が知る権利を行使すれば、クラブ側の知る権利が阻害される。官邸側が機嫌を損ね、取材に応じる機会が減っている」と困惑する〉
(中略)
会見の場で質問を遮る妨害、さらには記者クラブに対し要請文をもってかける圧力。権力者によってこれほどあからさまに私たちの報道の自由が抑圧されたことが戦後あっただろうか。
「権力は常に暴走し、自由や権利を蹂躙(じゅうりん)する」という歴史的経験を忘れてはならない。
次なる闇は、その片棒を報道の側が担ぎ始めるという忖度(そんたく)による自壊の構図だ。その象徴は、削られた8行に込められていた。
圧倒的多数を擁する権力者の振る舞いによって、この国の底が抜けそうになっていると感じる。表現の自由を弾圧し、批判をよそに次々と法案を強行採決する。閣僚が不祥事の責任を取らず、まともな説明すらしない。
こうした政治の惨状をしかし私たちは初めて経験するわけではない。先の大戦、到底勝ち目のない戦争へと突き進んだとき、国家の底は抜け、破滅の危機を認識したときには既にその暴走を誰も止めることはできなかった。
自由と権利を持ちこたえさせることができるのは、その行使と、健全な民主主義と、それを支える知る権利の他にない。報道はその一端を担っているという職責を忘れてはならない。
(中略)共同通信が、加盟各紙に配信した記事の一部を削除すると通知してきた。
(中略)
要請文が出された経緯や、その後に報道関連団体から出された抗議声明、識者の見解などを紹介する記事の終盤に差し掛かる段落のこの記述が削除された。
〈メディア側はどう受け止めたのか。官邸記者クラブのある全国紙記者は「望月さん(東京新聞記者)が知る権利を行使すれば、クラブ側の知る権利が阻害される。官邸側が機嫌を損ね、取材に応じる機会が減っている」と困惑する〉
(中略)
会見の場で質問を遮る妨害、さらには記者クラブに対し要請文をもってかける圧力。権力者によってこれほどあからさまに私たちの報道の自由が抑圧されたことが戦後あっただろうか。
「権力は常に暴走し、自由や権利を蹂躙(じゅうりん)する」という歴史的経験を忘れてはならない。
次なる闇は、その片棒を報道の側が担ぎ始めるという忖度(そんたく)による自壊の構図だ。その象徴は、削られた8行に込められていた。
圧倒的多数を擁する権力者の振る舞いによって、この国の底が抜けそうになっていると感じる。表現の自由を弾圧し、批判をよそに次々と法案を強行採決する。閣僚が不祥事の責任を取らず、まともな説明すらしない。
こうした政治の惨状をしかし私たちは初めて経験するわけではない。先の大戦、到底勝ち目のない戦争へと突き進んだとき、国家の底は抜け、破滅の危機を認識したときには既にその暴走を誰も止めることはできなかった。
自由と権利を持ちこたえさせることができるのは、その行使と、健全な民主主義と、それを支える知る権利の他にない。報道はその一端を担っているという職責を忘れてはならない。
————————————————————————
配信元)
政府側も閣僚の記者会見は国民の知る権利を保障するためではなくマスコミ各社への「便宜供与」と考えているし、記者クラブのマスコミ記者たちも『自分の知る権利』は政府の厚意で戴くものだと思っている。これじゃ『国民の知る権利』が保障されるわけがない。まさに「共犯者たち」。 https://t.co/Dm9YsVsdxP
— 布施祐仁 (@yujinfuse) 2019年2月21日
共同通信が記事からこのコメントを削除した理由は「官邸記者クラブを代表している意見と誤読されるおそれがある」ということらしいが、全員とは言わないまでも内心このコメントと同じように考えている記者は少なくないのではないか。記者会見のオープン化が遅々として進まないのがその証左だと思う。
— 布施祐仁 (@yujinfuse) 2019年2月21日
一昨日は沖縄の基地問題を質問していた琉球新報の記者を制限。
— 南 彰(新聞労連委員長) (@MINAMIAKIRA55) 2019年2月21日
昨日は質問制限問題を尋ねた朝日記者(社会部)を妨害。
官邸は東京新聞記者に「事実誤認」のレッテルを貼って質問制限・妨害を正当化しようとしたが、要するに聞かれたくない質問、記者の排除が本質。#質問できる国へ https://t.co/LV0PdfjkFp
それは全国紙の記者のコメントで、東京新聞の望月記者の質問が、記者クラブの知る権利を阻害し、官邸側の機嫌を損ね、取材に応じる機会が減るという困惑を述べた部分でした。
記者クラブの人間が官邸側の質問制限に抗議するどころか、望月記者の質問が迷惑だと思っているという、まさにジャーナリズムの劣化を示す核心部分でした。
これについて、カナロコ「神奈川新聞」が読むべき記事を出しました。
カナロコ記事によると、共同通信が削除した理由は「官邸記者クラブの意見を代表していると誤読されかねないため」のようですが、記事で指摘されているごとく、誤読の懸念があるならば、削除ではなく内容の修正や補強で対応すべきで、そもそも一記者の質問が記者クラブの知る権利を阻害するという理屈が間違っている、むしろ「他の記者が質問し続けることにより、自らの権利もまた同時に守られているという関係にある」と正論を述べています。
記者クラブが、官邸のお情けで出す情報を単に垂れ流して「ジャーナリストの知る権利」と考えておられるのだとしたら空恐ろしい現実ですが、権力による質問制限を唯々諾々と受け入れることの意味を、カナロコ記事が最後に主張されています。
権力の暴走を報道が片棒担ぎ始めるとき、報道自身も国も自壊する。東京新聞への弾圧を許すと、次々とその横暴は拡大することが最後のツイートで見て取れます。
報道は「自由と国民の権利を守る一端を担っているという職責」を忘れるなという、極々当たり前のメッセージがこれほど新鮮に映る時代になったのか。