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歴史の襞の中から2 ― 忍びの者より ―
基本情報1 〜徳川慶喜に軟禁された大正天皇
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大正天皇がテロ襲撃によって頭に重症を負い記憶喪失に。その時期は1925年前後と思われる。
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襲撃され、負傷した大正天皇を匿ったのが西郷隆盛の家系の末裔。彼らは治療療養のため、同族の住む村に大正天皇を移送した(移送先の村の同族の名字は西郷と異なり瀧山姓)。
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西郷隆盛の同族の瀧山一族が住んでいて、大正天皇が移送されたのが富山県のある村。この村のとある寺に西郷隆盛は自分の子どもたちを預けていた。西郷一族の隠れ里であった様子。
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ところが、この村に15代将軍徳川慶喜が既に移住していた。徳川慶喜は1913年11月22日に死去となっているがこれは偽装。この村に移住した慶喜一族は中田姓を名乗るようになり、慶喜の息子の徳川五郎右衛門は中田久松を名乗った。
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西郷隆盛の子どもたちが預けられた寺と目と鼻の先の近所に住んでいた徳川(中田)一族は移送されてきた大正天皇をすぐに発見。自分の屋敷に拉致・軟禁した。この間に昭和天皇が即位。
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大正天皇を軟禁した慶喜は昭和天皇に手紙を出し脅す。「自分の孫娘を嫁にしてくれ。さもないとお前の親の大正天皇はどうなるかわからんぞ」と。
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昭和10年(1935年)頃、大正天皇の病が癒えて記憶を回復。大正天皇は帰城を希望するが、部下の「殺される」との説得で断念。
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大正天皇はこの頃、長年の体調悪化もかなり回復。体調悪化の原因は、天皇時代12番目の若い側室が鉛を入れた飲み物を飲ませていたため、この鉛毒による可能性がある。
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一方、この頃に徳川慶喜は1935年(昭和10年)1月25日に死去。享年99歳。
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大正天皇は慶喜の息子・徳川五郎右衛門こと中田久松の弟として戸籍を作られ、この村に居住。
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大正天皇はこの村で妻子を得るが、その妻子もテロで死去。大正天皇家族の家屋に工作がされていて、住居が台風の際に崩壊しその下敷きとなって妻子が死去した。
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大正天皇は納屋の土間での藁ぶとんでの寝起き。口の聞けない唖のふりをさせられ、野良仕事などでの生活。
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大正天皇は中田久松たちと奇妙な共同生活をするが、中田久松死去後も存命。しかし中田久松死去後は、久松の息子にいびられ殴られの生活。
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中田久松には息子と娘の兄弟がいた。息子の名前は不明。娘の名前は中田志げ。志げさんが大正天皇の世話をしていた。
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大正天皇は久松の弟として、90歳の長寿の祝いを地元市長から授与されるが、その後1977年2月27日に、死体になって発見された。
滝山善一氏からの情報提供をもとに作成した系図
Wikimedia Commons [Public Domain]
Wikimedia Commons [Public Domain]
富山の薬売り=間者組織? 〜富山と薩摩の関わり
さて出発としようか。
今日は大正天皇がテロに遭遇し、徳川慶喜の一族に軟禁された背景の検討だったね。
今日は大正天皇がテロに遭遇し、徳川慶喜の一族に軟禁された背景の検討だったね。
へい。ご隠居。
おさらいしやすと、テロに遭遇した大正天皇を匿い、治療したのが西郷隆盛の末裔で、その末裔たちは大正天皇の療養のため、自分たちと同族の瀧山一族が住む富山の村に大正天皇を移送したんでやすね。
ところがその村には徳川慶喜の一族が既に移住していて、発見した大正天皇を自分の家屋に拉致・軟禁した。こういう流れでやしたね❓
色々腑に落ちないこともありやすが、西郷隆盛の同族がなぜ富山の村に?
ふむ、そうだね。
西郷隆盛は島津氏薩摩藩。富山とは随分離れてはいるが、案外と薩摩と富山は縁が深く、密な関わりがあったようだ。
そうだね、越中富山と言えば?何が浮かぶ?
❓ そうでやすね、…「富山の薬売り」?
ああ、薬売りなら日本全国津々浦々まで行ってやすね。これで❓
ああ、薬売りなら日本全国津々浦々まで行ってやすね。これで❓
浮世絵検索 [Public Domain]
そう。
日本全国津々浦々まで網が敷かれていた薬売りの組織、あたしはこれが重要だと睨んでもいるよ。
薩摩でも「富山の薬売り」が大活躍したそうだ。そのおかげで薩摩藩は財を蓄えられてもいるよ。
富山の薬売りのおかげで薩摩藩が蓄財❓ それはどういうこって❓
NHKの番組でやっていたようだが、薩摩は琉球貿易で中国とも密貿易していた。
で、中国では風土病があり、それには北海道などの昆布が有効で重宝された。
この昆布を調達して薩摩藩に渡したのが富山の薬売り。これで薩摩藩は貿易で蓄財、また昆布を売った代わりに中国から薬の原材料も仕入れたとのことだよ。"「倒幕のための資金集めに奔走していた薩摩藩は、北前船の昆布に目をつけて、琉球を通じて中国と密貿易をやっていたんですよ。その仲介をしたのが薩摩藩に出入りしていた富山の売薬商人。彼らはその見返りに中国から貴重な漢方薬の原材料を手に入れていたそうなんです」"
— ∧ (@amzkhb) May 14, 2018
へー、なるほど、薩摩藩は排他的な藩であったようでやすが、富山とは深い縁ができていたんでやすね。
そう、そしてもう一つ重要なワードが忍者、サンカと言ってもいいかな…。
忍者❓サンカ❓
あっしらにすれば、子供時代のテレビ番組や映画の影響で、忍者といえば山里奥深くで術を磨いて、手裏剣など忍者同士の術比べなどをつい連想してしまいやすが…。
ふーむ、ちょっと待てよ…、忍者の任務は本質は諜報員、情報収集でやすね。
あ、なるほど❗ 全国津々浦々に張り巡らされた薬売りの形態は、そのまま日本全国から情報を収集できるネットワークになっていやすね。一大情報網だ❗
忍者は、現在で言うと、マーケットリサーチ等情報収集の人で、少し前の富山の薬売りが一番近いのでは…と思う。紙風船も懐かしい。冬あちこち隙間から雪吹き込んでくる北海道の僕の家にまで、毎年やって来て日本中の情報を教えてくれるので楽しみだった
— 道産子詩人pikkibikki (@pikkibikki02212) July 12, 2016
その通り❗
DuckDuckGoで「富山の薬売りと忍者」で検索してごらん。両者を結びつける情報がいくつでも出てくるよ。製薬・薬売りの原点は甲賀忍者との説もあるね。
いずれにしても富山の薬売りとは間者組織と見て取れる。そして忍者と種々の薬は結びついているだろ?
確かにそうでやすね❗
薩摩藩と富山の関わりは分かりやしたが、それで西郷隆盛の同族が富山に? 西郷隆盛の家系はたしか島津氏に仕える下級武士でやしたね。
「お庭番」❗忍者でやすね。
急に忍者の役を勤められるはずもありやせんから、西郷の家系は薩摩の下級武士となっていやすが、代々島津氏に仕える忍者の家系だった?
急に忍者の役を勤められるはずもありやせんから、西郷の家系は薩摩の下級武士となっていやすが、代々島津氏に仕える忍者の家系だった?
ふむ、その可能性は十分あるだろうね。
それに、実は薩摩武士そのものが忍者というか、サンカというような見方を落合莞爾氏はしているね。製薬と売薬も関連してくる。
それに、実は薩摩武士そのものが忍者というか、サンカというような見方を落合莞爾氏はしているね。製薬と売薬も関連してくる。
うーん、サンカ…、あれ❗❓なんか出ていやしたね。
…そうか、明治編23、24、25話に関連しやすね。
…そうか、明治編23、24、25話に関連しやすね。
あっしたちのイメージにある「サンカ=漂白の民」は亜流で、意図的に植え付けられたもの、それで「上原勇作ら薩摩武士までも山窩と呼んでいた」とありやしたね。
確か薩摩武士をサンカの中でもその中核となる「タカス」だと落合氏は分類していやしたね。
そう。
それを記してある本の題名が『國體忍者となったタカス族とアヤタチ』だね。
題名からして薩摩武士でもある「タカス」が忍者だとしていて、表紙の帯部分には「いいかい。サンカは金で使う忍者だわさ。」とあるよ。
それを記してある本の題名が『國體忍者となったタカス族とアヤタチ』だね。
題名からして薩摩武士でもある「タカス」が忍者だとしていて、表紙の帯部分には「いいかい。サンカは金で使う忍者だわさ。」とあるよ。
[4F] 落合莞爾著『國體忍者となったタカス族とアヤタチ 周蔵手記が明かす「サンカ」の正体 (落合・吉薗秘史5)』(成甲書房刊) 入荷しました。#新刊情報 #落合莞爾 #成甲書房 pic.twitter.com/TLcrDrEupo
— 書泉グランデ【営業時間_11:00~20:00】 (@shosengnd) June 20, 2018
密接な関係にあった徳川慶喜と西郷隆盛
サンカが忍者❗ありゃ、もうそのままでやすね。
で、サンカと製薬と売薬の関連は?
で、サンカと製薬と売薬の関連は?
この本の150〜152頁には「サンカの三門」という言葉があり、三門とは黒門(食品市場)、赤門(生薬屋)、大門(風俗業)とのこと。赤門の傘下には「赤ひげ」や「赤だるま」など薬店チェーンがあるとしているね。
サンカ、そして忍者と薬はセットもの、というところかね。
サンカ、そして忍者と薬はセットもの、というところかね。
ふーむ、薩摩武士、サンカ、西郷隆盛、忍者、製薬と売薬、富山、これらが全て重なって繋がってきやすね。
ふーむ、西郷隆盛も富山のいわば忍者ネットワークに繋がっていて、それで同族の瀧山一族が富山の新しい村に住むようなったということでやすかね?
ふーむ、それにここには「國體忍者になったアヤタチ」が…。つまりアヤタチ上田サンカもこのネットワークに繋がっていた?
ふむ、西郷隆盛の同族の瀧山一族が富山の村に住むようになったのは、お前さんの推測どおり忍者、サンカ、薬の繋がりだと思えるね。そして、こういったネットワークには上田サンカも当然繋がっていただろう。
この本には「幕末の当主・上田吉松はケシを用いた御祓いを看板に全国を徘徊し、公家の密偵を務めた。」とあるように、上田サンカは製薬やそれを利用した活動をしており、富山の忍者ネットワークと連携していたと思える。
忍者、サンカ、八咫烏、これらはイコールとは言い切れないがかなり重なるね。
そう。
それとね、話を戻すと、西郷隆盛と徳川慶喜もまたどうも密接に繋がっていたようにも思えるね。
それとね、話を戻すと、西郷隆盛と徳川慶喜もまたどうも密接に繋がっていたようにも思えるね。
❓んん❓
一般的には明治維新で薩長対幕府軍での敵対するそれぞれの将で、西郷隆盛と徳川慶喜は宿命の敵といったイメージが作られていやすが、…
うーん、しかし実は徳川慶喜こそが明治維新の最功労者であって、世間で作られているようなイメージと、実際の西郷隆盛と徳川慶喜の関係は全く異なっているということでやすね。
一般的には明治維新で薩長対幕府軍での敵対するそれぞれの将で、西郷隆盛と徳川慶喜は宿命の敵といったイメージが作られていやすが、…
うーん、しかし実は徳川慶喜こそが明治維新の最功労者であって、世間で作られているようなイメージと、実際の西郷隆盛と徳川慶喜の関係は全く異なっているということでやすね。
戊辰戦争、そして江戸城開城で西郷隆盛と徳川慶喜は互いに敵を演じている。
しかし、上層部に置いては戊辰戦争は八百長だ。慶喜はあえてわざと敵役、負け役を演じたに過ぎない。維新を進めるためにね。
しかし、上層部に置いては戊辰戦争は八百長だ。慶喜はあえてわざと敵役、負け役を演じたに過ぎない。維新を進めるためにね。
徳川慶喜
ふーむ、水戸徳川は南朝正統を唱えていやしたが、確か慶喜自身は北朝天皇である孝明天皇からの信頼は厚かったようでやすね。
孝明天皇が死を偽装し、裏に回る際に孝明天皇を守護したのが慶喜だったと落合氏は見ていたような…。
それに戊辰戦争で借りを作った西郷隆盛が、それを返すのに西南の役となったということを落合氏がどこかで語られていたような気もしやすね。
孝明天皇が死を偽装し、裏に回る際に孝明天皇を守護したのが慶喜だったと落合氏は見ていたような…。
それに戊辰戦争で借りを作った西郷隆盛が、それを返すのに西南の役となったということを落合氏がどこかで語られていたような気もしやすね。
多分そんなところだろう。
西郷隆盛が仕えていたのは島津斉彬だが、島津斉彬の養女となった篤姫が将軍家に嫁ぎ、幕末期には大奥を仕切っていたのは有名だね。
西郷隆盛が仕えていたのは島津斉彬だが、島津斉彬の養女となった篤姫が将軍家に嫁ぎ、幕末期には大奥を仕切っていたのは有名だね。
そうか、そうでやしたね。
西郷隆盛以前からして島津氏と徳川が密接な関係にあったんでやすね。
西郷隆盛以前からして島津氏と徳川が密接な関係にあったんでやすね。
そういうことさ。
特に島津斉彬と慶喜は密接な関係にあった。英領日本の条約が交わされるあたりから将軍職継承をめぐり、当時の一橋慶喜と徳川家茂のそれぞれを擁立する争いが生じていたね。
特に島津斉彬と慶喜は密接な関係にあった。英領日本の条約が交わされるあたりから将軍職継承をめぐり、当時の一橋慶喜と徳川家茂のそれぞれを擁立する争いが生じていたね。
ああ、そうでやしたね。
ペリー来航以来日本が大揺れになっていた、その争乱の一つでやしたね。
ペリー来航以来日本が大揺れになっていた、その争乱の一つでやしたね。
そう、慶喜を推していた有力大名が島津斉彬だよ。西郷隆盛のウィキペディア記事では以下のように出ているよ。
西郷隆盛は水戸の諸氏とも面談している。
斉彬の考え方は、篤姫を通じて一橋家の徳川慶喜を第14代将軍にし、賢侯の協力と公武親和によって幕府を中心とした中央集権体制を作り、開国して富国強兵をはかって露英仏など諸外国に対処しようとするもので、西郷はその手足となって活動した。
西郷隆盛は水戸の諸氏とも面談している。
ふーむ、慶喜を推す斉彬、お庭番として斉彬のすぐそばで仕えていた西郷隆盛は、斉彬の考えを実現すべくその手足として江戸で活動したということでやすね。
ふーむ、てぇことは…。
ふーむ、てぇことは…。
そう、西郷隆盛は斉彬直属の忍者だ。
忍者には武芸を誇るものもいただろうが、その本分は情報の収集と分析、そして当事者間で渡りをつける連絡調整役だろう。あとはプロパガンダを含む情報発信かな。
忍者には武芸を誇るものもいただろうが、その本分は情報の収集と分析、そして当事者間で渡りをつける連絡調整役だろう。あとはプロパガンダを含む情報発信かな。
なるほど❗
てぇことは、西郷隆盛は斉彬と篤姫の間の渡りをして、篤姫の意向も含めてでやすが、斉彬と慶喜との間の渡り役で連絡調整をしていた可能性が高い、こういうこって?
てぇことは、西郷隆盛は斉彬と篤姫の間の渡りをして、篤姫の意向も含めてでやすが、斉彬と慶喜との間の渡り役で連絡調整をしていた可能性が高い、こういうこって?
そう思えるね。
戊辰戦争時には西郷隆盛と徳川慶喜は互いによく知っていて、考えは共有していただろう。
それで明治維新は成立し、孝明天皇は死を偽装して裏に回ることができたと見受けられるね。
戊辰戦争時には西郷隆盛と徳川慶喜は互いによく知っていて、考えは共有していただろう。
それで明治維新は成立し、孝明天皇は死を偽装して裏に回ることができたと見受けられるね。
なるほど❗
話をまとめやすと、
話をまとめやすと、
- 西郷隆盛は情報処理役の忍者で、富山の薬売りの忍者ネットワークに繋がっていた。
- その縁もあり、西郷隆盛の同族の瀧山一族が富山の新しい村に住むようになり、その村が西郷一族の隠れ里ともなっていた。
- 一方、西郷隆盛は島津斉彬と徳川慶喜との連絡調整役をしていて、それが明治維新を成立させた。
そう、あたしにはそのように見受けられるね。
そして密接な関係にあった徳川慶喜と西郷隆盛、その西郷隆盛の同族の瀧山一族が住む富山の村に慶喜の一家も移住していて、テロにあった大正天皇をその村で人質にしたわけだね。
この大正天皇の軟禁に関しては、慶喜一家と瀧山一族は初めから協力関係にあっただろう。
ふーむ、徳川慶喜と瀧山一族がグルだったということで?
うーむ、てぇいうことは、大正天皇にテロを実行させたのも…。
うーむ、てぇいうことは、大正天皇にテロを実行させたのも…。
おやおや、鼻を効かせてきたね。
まぁ長くなったのでそのあたりは次回にして、今日はこのあたりで。
まぁ長くなったのでそのあたりは次回にして、今日はこのあたりで。
Wikimedia Commons [Public Domain]
Wikimedia Commons [Public Domain]
Wikimedia Commons [Public Domain]
従って、この一連の事件には天皇一族、徳川一族、そして西郷隆盛の同族の瀧山一族の3つの流れがあり、この3つの流れが絡み合って一連の事件が成立したことになります。そして更には、この一連の事件と絡み合い、付随するような事件も生じています。
今回は一連の事件の背景を把握すべく、西郷隆盛とその同族という瀧山一族に関することを中心に見ていきます。このことで、なぜ富山の村が一連の事件の舞台になったのか❓がかなり見えてくると思われます。
西郷隆盛は島津氏に仕える下級武士と大方は認識されていますが、ウィキペディア記事を見れば、彼が忍者であったことが浮かんできます。西郷隆盛の家系が忍者であり、同族の瀧山一族も忍者であった可能性は相当高いと思えます。ここに富山の土地柄の製薬、そしてサンカも絡んできます。
まずは大正天皇が徳川慶喜に軟禁された基本情報1を改めて掲載し、そこから話を進めていきます。