歴史の襞の中から1 ― 偽装死より ―

 昔の古い歌のフレーズがついつい頭をよぎってしまいます。
 落合莞爾氏の著書を読むと偽装死だらけなのですが、実際に偽装死が多くあったのには驚かされます。偽装死には、自ら死を偽装した場合と、死を偽装させられた場合もあります。死を偽装させられ、天皇の座を追われたのが大正天皇です。
 天皇で言えば、逆に死を偽装した側が孝明天皇で、それにより明治が成立していきました。そして、その孝明天皇の偽装死からの明治維新に影で協力した有力者が徳川最後の将軍・徳川慶喜でした。
 そして、徳川慶喜もまた偽装死を行った人物でした。この偽装死をさせられた大正天皇と偽装死を行った徳川慶喜が非常に深く、そして長期間に渡り絡み合った事実、既にそのおおまかな内容は、2015年12月の滝山善一氏から情報を受けられた竹下さんの記事によって明かされています。
 この貴重な情報を提供された滝山善一氏と最近連絡を取り合わせていただくようになり、更に多くの情報を得ています。その情報は、まるで歴史の深いの中に隠され、表面からは決して見ることができないような内容です。
 情報量が膨大である上、入り組み、通常の感覚ではにわかには把握できかねる部分もあります。それで、これから情報をいくつかに分けて整理して見ていきながら、日本というこの国がどうであったのかも浮彫にしていきたいと思います。
 しばらくはユダヤ問題のポイントとは別立ての形にして、あの二人に登場してもらい、歴史の襞の中に埋もれていた事実を見ていきます。
(seiryuu)
————————————————————————
歴史の襞の中から1 ― 偽装死より ―




大正天皇へのテロとその後の徳川慶喜のからみ(基本情報


2015年12月の情報を含め、滝山氏から提供いただいた情報は貴重かつ膨大でもあります。そのためその情報を大きく3つに分けています。

今回からその一つ、大正天皇へのテロとそれに伴う徳川慶喜のからみを検討していきます。該当部分の滝山氏からの情報を整理したのが以下です。この整理した情報を弥次と喜多に検討してもらいます。

  • 大正天皇がテロ襲撃によって頭に重症を負い記憶喪失に。その時期は1925年前後と思われる。
  • 襲撃され、負傷した大正天皇を匿ったのが西郷隆盛の家系の末裔。彼らは治療療養のため、同族の住む村に大正天皇を移送した(移送先の村の同族の名字は西郷と異なり瀧山姓)。
  • 西郷隆盛の同族の瀧山一族が住んでいて、大正天皇が移送されたのが富山県のある村。この村のとある寺に西郷隆盛は自分の子どもたちを預けていた。西郷一族の隠れ里であった様子。
  • ところが、この村に15代将軍徳川慶喜が既に移住していた。徳川慶喜は1913年11月22日に死去となっているがこれは偽装。この村に移住した慶喜一族は中田姓を名乗るようになり、慶喜の息子の徳川五郎右衛門は中田久松を名乗った。
  • 西郷隆盛の子どもたちが預けられた寺と目と鼻の先の近所に住んでいた徳川(中田)一族は移送されてきた大正天皇をすぐに発見。自分の屋敷に拉致・軟禁した。この間に昭和天皇が即位。
  • 大正天皇を軟禁した慶喜は昭和天皇に手紙を出し脅す。「自分の孫娘を嫁にしてくれ。さもないとお前の親の大正天皇はどうなるかわからんぞ」と。
  • 昭和10年(1935年)頃、大正天皇の病が癒えて記憶を回復。大正天皇は帰城を希望するが、部下の「殺される」との説得で断念。
  • 大正天皇はこの頃、長年の体調悪化もかなり回復。体調悪化の原因は、天皇時代12番目の若い側室が鉛を入れた飲み物を飲ませていたため、この鉛毒による可能性がある。
  • 一方、この頃に徳川慶喜は1935年(昭和10年)1月25日に死去。享年99歳。
  • 大正天皇は慶喜の息子・徳川五郎右衛門こと中田久松の弟として戸籍を作られ、この村に居住。
  • 大正天皇はこの村で妻子を得るが、その妻子もテロで死去。大正天皇家族の家屋に工作がされていて、住居が台風の際に崩壊しその下敷きとなって妻子が死去した。
  • 大正天皇は納屋の土間での藁ぶとんでの寝起き。口の聞けないのふりをさせられ、野良仕事などでの生活。
  • 大正天皇は中田久松たちと奇妙な共同生活をするが、中田久松死去後も存命。しかし中田久松死去後は、久松の息子にいびられ殴られの生活。
  • 中田久松には息子と娘の兄弟がいた。息子の名前は不明。娘の名前は中田志げ。志げさんが大正天皇の世話をしていた。
  • 大正天皇は久松の弟として、90歳の長寿の祝いを地元市長から授与されるが、その後1977年2月27日に、死体になって発見された。

滝山善一氏からの情報提供をもとに作成した系図
参考:時事ブログ 2015/12/2411/1311/15
Wikimedia Commons [Public Domain]
Wikimedia Commons [Public Domain]

大正天皇が人質となった舞台の村と歴史の生き証人


やぁ喜多さん、久しいね。元気にしていたかい?

へい。ご隠居もお元気そうで。
久方ぶりにあっしたちの出番となりやしたが、今回の旅路は?
ありゃ?タイトルが変わっていやすね?
「歴史の襞の中から」❓ 襞ってあの「ひだひだ」のことで❓

そう、歴史の「ひだ」の中に深く埋もれている、見えなくなった事実を洗い直すのが今回の旅路のようだ。

こりゃ、またややこしそうだ。
ややこしくなるとあっしらの出番、これはいつものパターンでやすね。

そうだね。
上の基本となる情報をまずはよく読んでおくれ。a.からo.までだよ。

…ご隠居、ここに記されてあることはほんとにあったことなんで?
ようは、大正天皇が生きていて徳川慶喜の人質になっていたということでやすね?
実は2015年12月にこの内容の記事は目を通してはいたんでやすが、どうも入り組んでいるというか、飲み込めなかったんでやす。

そうかい、既に2015年のものは目を通していたか…なら、話が早いや。
基本情報の内容は全て事実と見なせるよ。
ただ…これだけだと、なぜ? どのようにして? このような事態になったかが謎になるんだね。

へい。先ずこの一連の事件の舞台となった富山県の村とはどんな村だったんで?

Author:Lincun [CC BY-SA]

そうだね。基本情報c.に関することだが、この村には事件に関連した方の子孫などが現在も当然生活されているので、具体名称は2015年12月に公開されている情報以外は避けるとしよう。
この村は富山県の海に面した村だ。安政の地震などで地形が変化して人が住めるようになったが、それ以前は人の住めない不毛の地だったようだ。明治の開拓村だと滝山氏からは伝えられているよ。
そして、滝山氏からは実際の住所も示されてあるし、あたしも西郷隆盛が子供を預けたとされるお寺の住所や現在のご住職の名前も確認している。

ふーむ、この村の地図住所やお寺についてなども確認済みというわけでやすね。
それにしてもこの村、厳しい環境の村だったわけでやすね。この土地に瀧山一族が住んでいて、その瀧山一族とは西郷隆盛の同族ということでやすね。
そしてこの村に徳川慶喜の一族も移住していたと、そういうことでやすね?

この村だが、当時の村の名称と現在はもちろん名称は変わっている。そして厳しい環境の土地ではあったが反面、新しい村だから古くからの因習・しがらみから開放されていた面もあったようだよ。
「村を作った時に、幕末維新の時には敵味方に分かれたが、“これからは、皆が笑って暮らせるようにしよう”というのは、皆の合言葉だったようですよ」と滝山氏からは伝えられている。

なるほど、そういう側面もあるんでやすね。で、この村に移住した徳川慶喜の一族は中田姓を名乗るようになったんでやすね。
ところで滝山氏とこの村の瀧山一族は関係が?

そう、基本情報には出ていないが、そこがある意味最も重要なところだね。
中田姓を名乗るようになった徳川慶喜の一族と瀧山一族は同じ村に住むいわば隣組だ。
そして、この村で出生した徳川慶喜の孫娘が中田志げさん。中田志げさんは結婚し一旦は村を離れるが、離縁し帰郷、そこで再婚されたのが村の瀧山勇作氏。どうも瀧山勇作氏はc.に出ている西郷隆盛のお孫さんのようだ。
そして戸籍上、中田志げさんと瀧山勇作氏夫婦の子供になり、実際に家族として一緒に過ごされたのが瀧山澄子さんだ。
この瀧山澄子さんこそが情報を提供くださった滝山善一氏のお母様だよ。瀧山澄子さんはもう故人になられているとのことだが。

えっ?戸籍上?
てぇことは子供として一緒に生活はしていたが、瀧山澄子さんは中田志げさんと瀧山勇作氏夫婦とは血のつながりはなかった、ということで?

そう、ここの部分は煩雑になるから今回は言及を避けるが、瀧山澄子さんは、戸籍上は中田志げさんと瀧山勇作氏夫婦の実子、しかし実際は養女となる。
瀧山澄子さんが歴史の生き証人さ。瀧山澄子さんの息子である滝山氏もこの土地に住まわれていた。

ふーむ、それであれだけの情報が出されたんでやすね。
基本情報から、大正天皇が人質として同居していたのが徳川慶喜、慶喜の息子さん徳川五郎右衛門こと中田久松さん一族。本当は血は繋がっていなかったとしても、中田久松さんは、戸籍上からも瀧山澄子さんにとってはごく近所に住んでいる祖父。
そしてそこに同居している大正天皇は、基本情報によると戸籍上は中田久松さんの弟になるので、瀧山澄子さんにとって大正天皇は大叔父になりやすね。

ふむ、瀧山澄子さんと大正天皇の関係は他にもあるが、ともあれその土地で一緒に生活されていた。
滝山氏は亡くなられたお母様・瀧山澄子さんの相続関連で、中田志げさんが嫁入りした先の瀧山勇作氏(戸主)の家の原戸籍を所得されていて、慶喜の息子さん・徳川五郎右衛門こと中田久松さんの名前などそこにあるようだ。


徳川慶喜と大正天皇の死亡月日 〜そこから見えてくること


晩年の徳川慶喜
Wikimedia Commons
[Public Domain]
大正天皇
Wikimedia Commons
[Public Domain]

瀧山澄子さんが、村中(むらなか)では中田(徳川)一族と瀧山一族と一緒に生活し体験されたこと、そして色々聞かされたこと、それが滝山氏から提供された情報になっているんでやすね。
こりゃ情報は事実だというのには納得でさぁ❗
ところで、基本情報には徳川慶喜は1935年(昭和10年)1月25日に死去、大正天皇は1977年2月27日に死去とありやすが、これは2015年12月の情報には無かったような、これについては?

そうだね。
公には徳川慶喜の死去は1913年11月22日だがこれは偽装。実際には1935年(昭和10年)1月25日に死去、これが正確だね。享年99歳驚くほどの長寿だった。
一方、大正天皇は90歳のお祝いがされた後の1977年2月27日が実際に死去された日。お年は満90歳のようだがこれは中田久松さんの弟としての戸籍上。ウィキペディア記事では大正天皇は1879年8月31日生まれだから享年でいえば99歳だ。こちらも驚きとなるご長寿だ。

へい。だが疑うわけではありやせんが、二人の死亡月日、本当に間違いはないんで?

間違いない。
あたしも…実はここが万が一でも間違っていたら大変なので、二人の死亡月日は竹下さんからの確認も頂いている。

ふわぁー❗
いやー、疑っていたわけではないでやすが、これはすごい話だ❗
なにせ驚愕の事実でやすから、この二人の死亡月日に間違いないとの確認がついた時点で、二人の死が偽装であったことが確定されたわけでやすからね。
これでいろんなことがひっくり返りやすね

そう、いろいろとね…。
その一つが大正天皇の実像かな。死を偽装させられ、天皇の座から引きずり降ろされたのが大正天皇だ。これが死亡月日からもはっきりしたわけだね。

そう、そして大正天皇に覆わせられていたイメージ、つまり病弱でひ弱で脳病を患っていた、これが全くの虚像だとわかりやした。
どういう亡くなり方かは不明でやすが、大正天皇は享年99歳の老齢にて死去されている。病弱でひ弱で脳病を患っていた方がこのようなご長寿であるはずがない。

その通りだね。
大正天皇は実際には積極的・精力的な人物だっただろう。
公然秘密のように語られていたのは「大正天皇には子種がない。」これもおそらくは意図的に流されたデマ情報

基本情報h.「体調悪化の原因は、天皇時代12番目の若い側室が鉛を入れた飲み物を飲ませていたため、この鉛毒による可能性がある」が現実的だね。
ウィキペディア記事でも、大正天皇の体調悪化や脳病の原因に鉛毒が推量されている。ただし、この鉛毒は幼少時におしろいに含まれていた鉛を多量に吸い込んだためとなってはいるがね。

12番めの側室❗こりゃお盛んだ❗
その壮健・精力的な大正天皇が急激に体調悪化しているんでやすから、毒をもられていたと見るほうが自然でやすね。皇城を離れ、温泉にでも浸かっているうちに徐々に体内に溜まった鉛毒が抜けていって体調回復されたんでやしょう。
それで体調回復されたら村で妻を娶って子もなしている。「種なし」どころか❗この時、大正天皇のお年は50代後半でやしょう?

そうだね。
「偉人伝」に出てくる人物の姿などことごとく虚構だが、大正天皇も違った意味での虚構が作られ、世間に大いに流されていたわけだね。意図的にね。

そうでやすね。
ふーむ、まぁ死亡月日の確認で大事な部分の事実は確認はできたわけではありやすが、なぜ?どのようにして?の疑問は湧いてきやすね。例えば、
  • 大正天皇にテロを仕掛けたのが誰でその目的は
  • 大正天皇を人質にした徳川慶喜の狙いは
  • そもそも、徳川慶喜はなぜ死を偽装してこの村に移住したのか
  • 徳川一族と瀧山(西郷)一族の関係は
こんな疑問でやすね。

そうだろうね。
大まかな大事な事実は確認できたが、その背景などはこれからの旅路で探ることになるね。
ぼちぼちと。ま、よろしく頼むよ。

へい。ご隠居、こちらこそよろしくお願いしやす。


Writer

seiryuu様プロフィール

seiryuu

・兵庫県出身在住
・いちおう浄土真宗の住職
・体癖はたぶん7-2。(自分の体癖判定が最も難しかった。)
・基本、暇人。(したくないことはしない。)
・特徴、酒飲み。アルコールには強い。
・歯が32本全て生えそろっている(親不知全て)原始人並み。

これまでのseiryuu氏の寄稿記事はこちら


Comments are closed.