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ユダヤ問題のポイント(日本 大正編) ― 第14話 ― 大正期の終焉
大正天皇はポンコツ人間だったのか? 〜内部情報漏洩の意味
大正天皇が葬られた当時の多摩陵
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日本の大正期、それは唐突な印象で終了します。1926年12月25日に享年47歳にて大正天皇が崩御、これにて大正の終わりとされているのです。
その頃中国では張作霖が12月に北京で大元帥に就任し、中華民国の主権者であることを宣言していました。一般に大正天皇は元々病弱であった上に、脳病も発症していたとされます。そのため1921年には裕仁親王が、3月から9月の欧州外遊から帰国後には大正天皇の摂政についたとされます。
大正天皇のウィキペディア記事によれば、裕仁親王が欧州訪問に出発の頃には大正天皇は、著しく心身が不安定な状態にあった上に、しばしば記憶喪失状態に陥る状態であったとし、同年の10月には大正天皇の病状が深刻であり、事実上公務を行うことができなくなっている旨の発表がなされたとしています。
そして11月に、大正天皇に側近などが摂政設置について報告と了解を求めようとしたが、 «大正天皇は「アーアー」というだけで意思疎通できない状態であった。» としています。ところが11月25日に正式に皇太子裕仁親王が摂政に就任した際には大正天皇は抵抗の姿勢も見せ、 «また、12月には侍従に対し「己れは別に身体が悪くないだろー」と何度も話しかけたりしていた。» と記しています。
これらの記述を読むと 大正天皇は心身、そして脳も壊れたどうしようもないポンコツ人物ということになりそうです。
しかし少し違和感を覚えます。大正天皇に関して脳病のことまでも含めて、一般にも大正天皇の病状が深刻であると知られるような情報が流れていたようなのですが、なぜそのような情報が?
帝国憲法上は天皇は「神聖にして侵すべからず」の現人神のはずなのに、まだ40代になってほどない大正天皇の病状は脳病を含めて深刻だと一般人にも知られたらならば、天皇家の威信を大きく傷をつけることにならないか?
天皇を中心とした国家像にゆらぎが生じてしまうのではないか?
安定した国家運営を考えるならば、むしろ逆に病状が本当に深刻であるならば徹底してその情報は漏らさないようにするのでは?と思えるのです。
つまり、むしろ天皇家の威信を傷つけてでも宮内庁からして大正天皇を排除しようとしていたのでは?と思えるのです。
大正天皇はいわば“つなぎ天皇”でした。明治編で見たように明治天皇は1910年台初めに朝鮮半島に移住し、その代理の表天皇として即位したのが大正天皇でした。そしてどう見ても大正天皇は周囲からも“無下な扱い”を受けているのですが、それは彼の出生に原因があったのでしょう。
2015/11/11の竹下さんの記事で、大正天皇は明治天皇(大室寅之祐)の側室の柳原愛子と大隈重信との子であったことが明かされています。要は大正天皇は血統としては全く北朝も南朝も関わりなく、天皇家の血筋を引いていないのです。
明治天皇・大正天皇・昭和天皇の系図
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大正天皇に暴力テロが 〜イメージと異なる大正天皇の姿
大正天皇がどのような人物であったのかは情報が少なく不明です。ただしネット上で、ディビット・バーガミニ著の『天皇の陰謀』の翻訳記事があげられていて参考になります。
この翻訳記事を読むと明治、大正、昭和の3名の天皇に使えた側近の言葉では、3名の天皇の中で最も知性が優れていたのは大正天皇とのことでした。また病弱でひ弱が大正天皇に対する一般イメージですが、この翻訳記事では、実際の大正天皇は一般イメージとは全く異なっていて、大正天皇は“お飾り天皇”を良しとしない積極・野心的で、西洋社会を範とした強大な支配者として君臨せんとしていたようです。
西洋的な皇帝として君臨しようとした非常に頭の切れる野心的な人物、…確かに大正天皇の実像はこうだったのかもしれません。この大正天皇の非凡さこそが彼の運命を暗転させたように思えるからです。
1917年(大正6年)、帝国議会の開院式に向かう大正天皇
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禁裡を仕切っていたのは八咫烏であり、八咫烏が奉じるのは裏天皇です。八咫烏にとっては表の政体天皇はいわばダミー、裏の國體天皇の代理に過ぎません。その表天皇が皇帝として君臨するのを裏天皇グループが見過ごすはずがありません。
そして、裏天皇グループは暴力装置、つまり脅し、テロ、殺人をいつでも稼働できる実行部隊を擁していました。八咫烏自体が暗殺部隊との言い方も成立しますが、暴力実行部隊の代表が頭山満であり、アムール川の黒龍会でしょう。『天皇の陰謀』の翻訳記事では、頭山満を裏社会を仕切る暗殺卿として表現していますが、これは“言い当て妙”でしょう。
玄洋社総帥 頭山満(中央)と黒龍会主幹 内田良平(右側)
左側の人物は大本教主輔 出口王仁三郎
左側の人物は大本教主輔 出口王仁三郎
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そして大正天皇に決定的な瞬間がやってきます。2015/12/24の竹下さんの記事に「滝山善一氏からシャンティ・フーラに送られた情報」が掲載されています。その冒頭は次のものです。
天皇家の真実。
大正天皇は世界大戦に反対しておられ軍縮も行いましたので、城を留守に外出した折にテロに遭遇した。陛下は頭部に重症を負われた。彼は西郷家の分家筋に匿われ存命したが怪我が元で記憶を無くしており、すぐには帰城出来なかった為不覚にも、その隙に裕仁が天皇に即位した。これが昭和の成立。
大正天皇は世界大戦に反対しておられ軍縮も行いましたので、城を留守に外出した折にテロに遭遇した。陛下は頭部に重症を負われた。彼は西郷家の分家筋に匿われ存命したが怪我が元で記憶を無くしており、すぐには帰城出来なかった為不覚にも、その隙に裕仁が天皇に即位した。これが昭和の成立。
大正天皇の崩御とされるのが1926年12月25日、その前年になるのでしょうか、何と大正天皇は皇居を出た際にテロ遭遇し、頭部に重症で記憶喪失、これを機会にして昭和天皇が即位したというのです。
大正天皇にテロが実行されたこと、これは「天皇家の真実。」の続く記述内容から事実としか受け取れません。そしてテロの実行部隊は禁裡内に入り込んでいる集団以外は考えられません。となると…。
天皇の周辺にある暴力装置 〜大正天皇を拉致した徳川家
大正天皇がテロに遭遇したその時、大正天皇の社会的な生命は完全に抹殺され、復活は許されませんでした。しかも大正天皇の抹殺は社会的生命にとどまりませんでした。
テロ後、大正天皇は「西郷家の分家筋に匿われ存命した」と明かされていますが、その後、大正天皇は拉致されるのです。2015年12月の滝山氏からもたらされた続きの情報を、大正天皇に関してのみ抜粋していくと以下の内容が語られています。この内容は当事者以外には、決して知ることも明かすこともできないものです。
晩年の徳川慶喜
実は死を偽装して引退し、北陸に移住。
実は死を偽装して引退し、北陸に移住。
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①大正上皇は徳川慶喜の子(徳川五郎衛門=中田註久松)に拉致軟禁され北陸に住まいを移した。
(註:徳川慶喜の一族は拠点を北陸に移して中田姓を名乗っていたそうです。)
(註:徳川慶喜の一族は拠点を北陸に移して中田姓を名乗っていたそうです。)
②大正天皇は昭和10年頃、ようやく病が癒え帰城を希望するが、かつての部下たちの「殺される」との説得で断念、「私の子が天皇になったのだからそれで良い」と自らを慰撫した。
③大正上皇は中田姓を名乗らされ、久松の弟として戸籍が作られて、田舎村で農家の納屋の土間に暮らした。いわば下人生活。
④大正上皇は村で妻子を持つが、ここでもテロがあり妻子を失う。結局、大正天皇は徳川慶喜から中田久松、そして久松の子という形でこの一家にいびられ、最後は殺された。
上の大正天皇に対する仕打ちを眺めるならば、大正天皇に対する全人的な抹殺が徳川慶喜の一族によってなされたと言っても過言ではないでしょう。一体なんのために?
大正天皇以外に対しても、徳川慶喜の一族により種々の工作がなされたと情報では記されていますが、その目的は「徳川将軍家を再建したいという願望怨念がそれですよ。」と明かされています。
倒幕と明治維新の最功労者は徳川幕府最後の将軍・徳川慶喜だったことは明治編第8、9話で見ました。徳川慶喜の動きの背景には水戸光圀が、さらには家康まで遡るのも見ました。将軍が倒幕に動いたその目的は「徳川家を存続させること」だったことも。
徳川慶喜とタッグを組み、皇室に関わる陰謀を進めてきたのが久邇宮朝彦親王であり、八咫烏たちでもありました。血流は繋がっていないとはいえ、即位した天皇にテロを仕掛ける集団が天皇周辺に存在したことは刮目すべきでしょう。
天皇の身近に天皇の命を脅かす暴力装置が稼働していたはずなのです。
人間の行為は身口意の三業の3つに分けられます。暴力という行為も身体による暴力、言葉(言論)による暴力、精神(思想統制など)による暴力という3種になります。また、個人による暴力と集団による暴力もあります。暴力とは法と秩序から逸脱した力の行使と言えるでしょう。同じ力の行使でも、それが法と秩序に基づくならばそれは暴力とは呼びません。
1700年代後半からその展開を始めた世界革命(ヴァイシャ革命)は暴力革命でした。暴力によって生み出された社会体制は、やはり暴力をその基底に置くことになります。
明治維新も世界革命の一環であり、間違いなく暴力革命でした。現に当時は京都を中心した暴力テロの嵐でした。暴力によって生み出された明治、そして引き継がれた大正期も暴力に振り回される社会だったと言えたでしょう。自分たちにとって意に沿わない都合の悪い人物や組織は、暴力でもって排除する行為が横行していたのです。
この暴力テロの実行部隊の代表が、杉山茂丸が社主で頭山満が率いた玄洋社=白龍会だといって間違いないでしょう。別の言い方をすると裏社会を仕切っていたのが彼らだということです。伊藤博文の暗殺の背後には玄洋社=白龍会がいたことはこれまでに見てきた通りです。
大陸に進出し、力による支配を計画していた八咫烏の目論見に反対していたのが伊藤博文でした。また、大隈重信が命を狙われて爆弾を投げつけられ脚を失っていますが、このテロ実行犯は玄洋社社員だったことは明らかにされています。ちなみに大隈重信は大正天皇の実父のようです。
大正期を終焉させたもの、それはやはり暴力テロだった模様です。大正天皇ご本人が暴力テロを受けてしまったことで、大正期が終わったのが事実のようです。警備が厳しいはずの天皇がテロに遭遇、外部者がテロを成功できるでしょうか? 誰がそのテロ計画や実行に携わったかはおおよその見当はつくでしょう。