ままぴよ日記 70 「母が教えてくれた人生の終わりへの覚悟」

今回はままぴよ日記40の続編です。あの時の私は何もわかっていなかった。
(かんなまま)
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実家で1人で暮らす98歳の母


実家のさくらが満開です。
私が小学1年生になる時に母が手植えしたもので、見上げると薄桃色の花が空を覆いつくしています。桜が春の気配を感じて一気に開花する瞬間も好きですが、花びらがまるで雪のように舞う様も好きです。


そこに、98歳になる母が1人で暮らしています。今年は足がふらついて庭に出る事が出来なくなったので、花を手折って花瓶にさしました。次の桜まで生きていてくれるだろうか?と毎年案じていますが、母の命は灯り続けています。それも亡き父を想いながら。

「逝きてなお 家守るごと 表札に 夫(つま)の名前 鮮やかにあり」
(詠み人知らず。広告紙の裏に母が書き留めていたものです)


でも、確実に弱ってきました。家の中で何度も転んで起き上がれなくなりました。隣に住んでいる兄に発見されるまで床に横たわったままで、夜中に倒れて体が冷え切っていた時もありました。そのたびに周りは心配するのですが、母は「このまま死んでも構わないと観念したけど、まだ死ぬなという事ね」とケロッとしています。

ガスの火を消し忘れて鍋を焦がすことも増えました。そのたびに、「もう食事を自分で作るのは止めて」と頼むのですが、「自分の事は自分でする。父の食事の用意をするのは自分の仕事だから」と、頑なです。

そして、毎朝、仏壇に食事を運び、ろうそくの火を付けてお参りをするのが日課です。亡き父と語らえる一番大事な時間なのです。以前は家族中の名前を言って無事も祈ってくれていたようですが、最近は体力がなくなってしまいました。今は父とのおしゃべりも長く続かないので歌を歌ってあげるのだそうです。忙しく働いていた頃は、さっぱり思い出さなかった童謡です。

「問いかけに 応えるごとく ゆらぎいる ローソクの灯は 亡夫のまなざし」(詠み人知らず)



ろうそくの火をつけるのにマッチを使うのですが、よく見ると仏壇の周りにマッチの燃えカスが落ちて、絨毯が少し焦げています。

「どんな風にお参りするのか見せて」と、頼んで再現してもらいました。まず、杖なしで立つことができないのに、足をぶるぶるふるわせて立ち、マッチの火を何度も挑戦してつけます。そのまま、ぶるぶる震える手で2本のろうそくに火を灯します。だからマッチの火が母の指まで迫り、熱くて捨てます。

そして、座布団に座ると立てなくなるので、杖を突いて立ったまま長々とお話をしていたようです。よくぞ、ここまで無事でいられたものです。気力だけで生活している母。後ろで見ていて涙が出てきました。この母の気持ちを損なわないように対策をとらなければいけません。これは母の生きがいなのです。

まず、椅子を置くことにしました。でも、次の日に行くと片付けてあります。高さや安定を吟味して、何度も言い聞かせて、やっと気に入ってくれました。日常が変わるのを嫌う母。危ないから注意をすると「今まで自分でしてきたのよ」と、語気を強めます。自分を否定されたような気がするのでしょう。

そして、今まで通りにできなくなった時は死ぬ時と思っているようで、娘の介入さえ拒みます。現に、私に頼みごとをしたことがありません。

「枯れてたまるか! とかく此の世はおもしろい オサラバ迄は 全力投球」(嵐山光三郎)


でも、マッチは怖いです。仏壇の火で家が焼けて死んだ高齢者の話を聞きます。そんな最期は迎えさせたくないので強制的に電気のろうそくを買ってセットしました。マッチとろうそくは回収です。

そして、母を仏壇の所に連れて行って、スイッチを付けて見せました。「明るくなったし、一日中明かりをつけていいのよ」「この椅子に座って、ゆっくりお父様と話してね」と言ったら気に入ったようでした。

「しわの顔 どうでもいいのに 紅をさす」(詠み人知らず)


次の心配は父の食事です。朝、父の食事を作って仏壇に供え、それを自分の食事にするのが習慣でしたが、昔みたいにこまめに食事を作れなくなったので、何日も同じおかずです。もちろん腐ります。それに気が付かないで食べてしまいます。私もいろいろ作って持っていくのですが、自分で作るのを止めません。まあ、母の胃腸の強さにはびっくりするのですが、夜中に何度も下痢をして倒れていたこともありました。

私が行くたびに冷蔵庫をチェックして腐ったものを処分するので怒ります。最近は汚れた食器をあちこちに置いて忘れてしまうようです。見つけ出して洗っていると「洗わないで!自分でするつもりで置いていたのよ。そのくらい自分でしないと体が動かなくなる」と、怒ります。

黙って、近くの郵便局まで歩いて行ってお金を引き出したり、お世話になった人にお礼をしたいからと、デパートにタクシーで行ったりしている事を後で聞き、よく無事で帰ってきたものだと思います。きっと、たくさんの人に助けられている事でしょう。

「よきことも きっとあるはず 梅二月」(詠み人しらず)


でも、1人で出かけてほしくないので、私が通帳を預かって管理することにしました。長年、金銭管理をして家業を支えていた母。娘の私には遠慮がないので、泥棒扱いです。私もつい、「これがお母様のためなのよ。いつでも銀行に行ってあげるから、もう一人で出かけたりしないで!」「こんなに心配しているのに」「バカ!」と、今まで抑え込んでいた感情が噴き出して泣いてしまいました。そんな私を見て「握手しよう。仲直り」と言う母。思わず吹き出しました。

となりに住んでいる兄嫁も良くしてくれるのですが、母の自立心に負けて手を出せません。そういう母を見て困ったものだと思ってしまう自分。母のやる気より、安全を考えてしまう自分。そして、手を出されるほど「私の仕事をとらないで」「もう帰りなさい」と怒る母。

「体調のメモ」


今まで気が付かなかったけれど、母は老いていく自分の愚痴を言ったことがありません。自分の世話をしてくれないとか、会いに来てくれないなども言いません。もうとっくに自分の体を神様にお任せして、父との再会を待っているのでしょう。

「生きているうちに ありがとうと伝える」(母のメモ)


帰りの車の中で、私は何をしに母の所に行っているのだろうと思いました。母は命がけで自活しているのに、私は母を監視して、小言ばかり。心を許す娘にだけ「私は必死で生きているのよ。私の邪魔をしないで!」と、訴えているのです。

「私は母を尊重していなかった」と、思いました。私が安心したいがために母の必死のやる気を奪おうとしていたのです。これは母の問題ではなく、私の問題でした。

90歳を過ぎて母にがんが見つかって入院した時から、いつお別れが来てもいいように、母に恩返しをしたいと思うようになりました。車で30分の距離です。なるべく会いに行こうと決めました。そして、母の最期は私の腕に抱いて愛のマントラを唱えながら送りたいと願うようになりました。

でも、毎日そばに居ても叶わないかもしれません。現実、1人で暮らしている母は「気が付いたら亡くなっていた」という可能性の方が高いのです。

母の座右の銘は「明日ありと思う心の仇桜 夜半に嵐の吹かむものかな」(親鸞聖人の和歌)です。「明日の命があるかは誰にもわからない。だから今を精いっぱい生きる。そしていつ死んでも幸せだから心配しないで」と母は会うたびに言います。母の覚悟は本物のようです。

母の生き方と覚悟が本物なら、それを看取る家族の覚悟も本物でなくてはいけません。最後まで母らしく全うできるように母を丸ごと支援してあげようと思いました。

「あなたが受けた思いやり 明日は誰かに 恩おくり」(詠み人知らず)


それぞれが人生の終焉に向かって生きている


今、私の周りには98歳の母を始め、93歳の義理母、93歳の叔母、92歳の親戚がいます。なぜかすべてが私を頼っています。それぞれが人生の終焉に向かって生きているのですが、それぞれの人生模様があり、どう関わればいいのか考えさせられています。

身寄りがいない遠い親戚の叔母は自宅で急に腰が痛くなり、動けなくなりました。3か月の入院生活の後に家に戻る自信がなくなりました。私への遠慮もあったと思います。迷惑をかけてはいけないという判断で、ケアハウスを選択しました。

一緒にケアハウスを探し、自由に外出できる施設に入居したのですが、積極的に友達を作る勇気もなく、元気がなくなっていきました。コロナ禍で一歩も外出できなくなり、自分の家にも行けなくなりました。それどころか誰とも面会謝絶です。

もともと引っ込み思案の性格。「独り身で90歳を超えているのに、自分の老後の事を考えた事がなかった」と、話してくれました。怖いから先延ばしにしていたのでしょう。今は体も弱って、判断する気力も無くなりました。

叔母の家を掃除していたら、近所の人が来られて「今どこにいらっしゃいますか?帰ってこられますか?」と心配してくださいました。地域の方々と支え合いながら暮らしていたら元気を取り戻したのではないか?と、心が痛みます。

5年前に亡くなった夫の叔母の事も思い出します。子どもがいなかったので、親戚の女の子を養子にしました。やがて子どもは結婚して家を出ていき、叔父がなくなり、1人になりました。ある日、家で転んで、しばらくたってから発見されました。

すぐに救急車を呼んで病院に行き、手術とリハビリに耐えて3か月過ぎました。かわいがっていた犬は貰われて行き、一度も会うことができませんでした。娘の判断で、叔母の気持ちを聞くこともなく、遠くの老人施設に入所させる事になりました。1人暮らしは皆に迷惑をかけるという理由です。


退院したその足で、我が家で送別会をして連れていかれました。玄関を出る時に、柱にしがみついて「嫌だ~」と必死の抵抗をした叔母。認知症の義理母だけが状況を分からなくて「連れて行かないで!私と一緒に暮らそう!」と言ってくれました。

義理母の言葉は愛のある言葉でした。周りの私達は声を出すことができません。その後、施設で「家に帰る!」と、暴れるので電話も禁止、面会も謝絶されました。心配になって訪ねた時は無表情の叔母になっていました。その後、誤嚥性肺炎で入院し、胃ろうをされました。お見舞いに行った時、声を掛けたら伯母の頬に涙が一筋落ちました。きっと意識があったのだと思います。それからすぐに亡くなりました。苦くて悲しい思い出です。

義理の母は認知症で5年前にグループホームに入所しました。それに至るまでは認知症のお世話で明け暮れ、疲れ果てていました。足が悪くなって歩けなくなったのを機に、家で看るのを諦めました。

義理母は私に色々な感情を経験させてくれました。入所する時は母の自由を奪ったのではないかと悩みましたが、とてもいい環境で、お友達にも恵まれ、楽しそうにしています。コロナ禍で面会謝絶ですが、夫が主治医なので会いに行く事ができます。私の日常が確保できているのは施設の方々のおかげです。感謝しかありません。

老いを看取るとはどういうことなのか?私の老いも含めて身近な問題です。

そんな時「うらやましい孤独死」(森田洋之著 三五館シンシャ)と言う本が目に留まりました。前書きに「それまでの人生が孤独でなく、生き生きとした人間の交流がある中での死であれば、たとえ最期の瞬間がいわゆる孤独死であったとしても、それはうらやましいとも言えるのではないか?」と書いてありました。

「孤独死を過度に恐れるあまり独居高齢者が容易に施設に収容されてしまう風潮に一石を投じたい」「病院や施設への収容はそれまでの地域での人間関係を断ち切ってしまう」「人間がかかる最も重い病気は孤独である」とも書かれていました。亡くなった叔母や親せき叔母の顔が浮かびます。

著者は財政破綻した夕張市で地域医療に携わっていたドクターです。当時、高齢者率が50%を超え、私立病院も閉鎖されていました。その中で、村上智彦医師が中心となり、予防医療や終末期医療などのシステムを作り、病院医療に頼らない真の患者中心の地域医療を実現していったのです。その時の経験をもとに、現代医療システムへのアンチテーゼとして書かれた本です。

Author:藤原香紀[CC BY-SA]
夕張市 誰もいない外レストラン

経済破綻した夕張市は4年間で総病床数が171床から19床へ。それにもかかわらず市民の総死亡率は変わらなかったというのです。むしろ病死が減って老衰死が増えた。救急出動が半減した。一人当たりの高齢者医療費も減ったらしいのです。「破綻からの軌跡」(村上智彦、三井貴之著 エイチエス)に詳しく書いてあります。

医者の使命とは何か?病気の治療や延命のための医学的正解と医療の常識は、患者の人生にとっての正解とは限らないと書かれています。

安全のために施設や病院に入り、命を永らえるために気管切開や胃ろうをして、最善を尽くしてもらいたいのか?逆に、独居老人であっても、認知症でも、家族や地域とのつながりや医療従事者との信頼関係を築きながら、その人らしく人生を全うして「老衰」という病名を付けてもらいたいのか?まさに、自分も周りも「人生の終わりへの覚悟」が問われています。

これは、これからの高齢化社会への道しるべになる本かもしれません。

本来なら、家で1人暮らしをするには危なすぎて、施設にお願いする状態の母ですが、母はそれを望んでいません。いつも母の家から帰る時に、私の手を握って「ありがとう!心配しないで。私は幸せよ」と言う母です。

「今を生ききる」事を教えてくれる母。いつもそばに居られないけど、愛のマントラを送ります。そして、母を私の腕の中で看取りたいという願いは、私の執着だとわかりました。全て、神様にお任せします。

「野も山も 草木も人も へだてなく 月は清らに 私をも照らす」(詠み人知らず)



Writer

かんなまま様プロフィール

かんなまま

男女女男の4人の子育てを終わり、そのうち3人が海外で暮らしている。孫は9人。
今は夫と愛犬とで静かに暮らしているが週末に孫が遊びに来る+義理母の介護の日々。
仕事は目の前の暮らし全て。でも、いつの間にか専業主婦のキャリアを活かしてベビーマッサージを教えたり、子育て支援をしたり、学校や行政の子育てや教育施策に参画するようになった。

趣味は夫曰く「備蓄とマントラ」(笑)
体癖 2-5
月のヴァータ
年を重ねて人生一巡りを過ぎてしまった。
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