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ユダヤ問題のポイント(日本 昭和編) ― 第13話 ― 阿片王と称された男
メディアを取り仕切る電通 〜里見甫の人脈形成の原点
随分以前のことになりますが、IWJ代表の岩上安身氏が当方に来訪されたことがあります。その時面談させていただいた中で、メディアは、テレビはもちろん、新聞や雑誌にしてもその新聞代金などではなく、広告料の収入で経済的には成立していることを語られていました。
これは業界では当然のことのようです。広告なしにはメディアは経済的に成立しないので、メディアは必然的に広告を取り仕切る存在に依存し、コントロールもされることになります。
「広告界のガリバー」と称され、その世界で圧倒的なシェアを占めていたのが「電通」です。巨大広告代理店だった「電通」が日本メディアを支配しているのは当然のことであったのです。
前回に見たように、この電通の前身が満洲国通信社であり、その初代社長および主筆だったのが里見甫でありました。
電通㈱は戦前の満州で開業した工作機関。創業者はアベの祖父である岸信介と二人三脚で中国侵略を推進した #里見甫。別名アヘン王。無論、戦後は岸ともどもA級戦犯として捕まったがCIAスパイになる事で助命された外道。嘘だと思う奴は機密指定解除されたアメリカ公文書を読め!https://t.co/PHEaPhGfMY pic.twitter.com/OXVZZSjaA9
— ジミー&ビリー@自民(棄民)党を擁護するバイト野郎とバトル中 (@JIMMYandBILLY) December 5, 2019
そして、里見甫は「阿片王」とも称された男でもあります。里見甫が「阿片王」と称されるようになったのは、里見には卓越した中国語の語学力と、培われた人脈という資質があったからです。
里見は中国に留学してその語学力を身につけています。ウィキペディアの彼の記事には、
1913年、福岡県立中学修猷館を卒業し、同年9月、玄洋社第二代社長進藤喜平太の助力により、福岡市からの留学生として上海の東亜同文書院に入学する。
とあります。
里見甫は「修猷館」では柔道部の猛者だったようです。明治編 第33話で見たように、「修猷館」は福岡黒田藩の藩校がその始まりですが、玄洋社(白龍会)とは非常に縁が深い学校です。卒業生には、玄洋社社員であった明石元二郎や山座円次郎、広田弘毅などなど玄洋社関係者が多数います。
そして、里見は「玄洋社第二代社長進藤喜平太の助力」にて「上海の東亜同文書院に入学」とありますので「里見は玄洋社(白龍会)から上海に留学生として送り込まれていた」と言ってもさほど間違ってはいないでしょう。
上海にて留学生の里見は卓越した語学力を獲得し、その後も中国で人脈を形成していきますが、その背景の原点には玄洋社(白龍会)の存在があったと見て間違いないでしょう。
ウィキペディア記事によれば、里見は 東亜同文書院を卒業後一旦は帰国していますが、再度中国に渡り新聞記者として活動、ここで関東軍、そして中国側の人物たちとも人脈を形成したとあります。
続いて記事では、里見は1928年には満鉄の南京事務所の嘱託として活動、1931年9月の満州事変勃発に際しては、関東軍担当部署からの嘱託辞令を受けて奉天に移り、「奉天特務機関長土肥原賢二大佐の指揮下で、甘粕正彦と共に諜報・宣伝・宣撫活動を担当する。これらの活動を通じ、中国の地下組織との人脈が形成された。」となっています。
こういう経緯から1932年12月、里見は、設立された満洲国通信社の初代主幹(事実上の社長)兼主筆に就任しているわけです。里見はゆく先々で人脈を築き、成果を挙げているのが分かります。里見は「使える男」「使い勝手のいい男」であったことが窺われます。
里見甫の地下人脈 〜昭和通商の出資企業
日本の特務機関・特務工作機関の種類一覧
名称 | 説明 |
梅機関(※①) | 影佐機関とも呼ばれています。
影佐禎昭中将によって日中戦争時に設立された特務機関で、日中戦争の戦局打開を目的に中国国民党内の親日派であった「汪兆銘」に接触し、 汪兆銘政権を樹立させる工作を行いました。
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甘粕機関(※②) | 陸軍大尉の甘粕正彦によって設立された民間の特務機関で、満州国と関東軍をバックに付け、 満州国の国策であった阿片(アヘン)の中国国内での密売を茂川機関や松機関と共に行っていました。 |
茂川機関(※②) | 茂川秀和少佐が設立した機関で、天津陸軍機関に所属していました。
主に阿片(アヘン)の中国国内での密売を行った他、盧溝橋事件での工作を行ったとも言われています。
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松機関(※②) | 上海に本部が置かれた特務機関で、現地の情報収集や阿片(アヘン)の中国国内での密売や、「杉工作」と命名された偽札の中国国内への流通工作を行っていました。 |
里見機関(※②) | 里見甫によって設立された民間の特務機関で、関東軍と連携し阿片(アヘン)の中国国内での密売等を行い、その利益で関東軍への武器や資材調達に関わっていました。 |
興亜機関(※②) | 関東軍と連携し阿片(アヘン)の中国国内での密売等を行い、その利益で関東軍への武器や資材調達に関わっていました。 |
昭和通商(※②) | 三井物産、大倉商事、高田商会の三社から出資された泰平組合を元とする、日本陸軍の特務機関です。
表見は商社ですが、中国国内での阿片(アヘン)の密売や、情報収集、物資や兵器調達などを行っていました。
また、里見機関や興亜機関などの特務機関とも連携を取っていたとされています。 |
いちらん屋より引用
※註:名称の後の(※①)(※②)は、シャンティ・フーラで独自に分類したもの。
里見について、引き続きウィキペディア記事からです。以下のようにあります。
1936年9月、5年住んだ満洲を去る。
1937年11月、上海に移り、参謀本部第8課(謀略課)課長影佐禎昭に、中国の地下組織や関東軍との太い人脈と、抜群の中国語力を見込まれ、陸軍特務部の楠本実隆大佐を通じて特務資金調達のための阿片売買を依頼される。1938年3月、阿片売買のために三井物産および興亜院主導で設置された宏済善堂の副董事長(事実上の社長)に就任する。ここで、三井物産・三菱商事・大倉商事が共同出資して設立された商社であり実態は陸軍の特務機関であった昭和通商や、中国の地下組織青幇や紅幇などとも連携し、1939年、上海でのアヘン密売を取り仕切る里見機関を設立。ペルシャ産や蒙古産の阿片の売買によって得た莫大な利益を関東軍の戦費に充て、一部は日本の傀儡であった汪兆銘の南京国民政府にも回した。また、里見機関は、関東軍が極秘に生産していた満州産阿片や、日本軍が生産していた海南島産阿片も取り扱っている。この活動を通じて、青幇の杜月笙・盛文頤や、笹川良一、児玉誉士夫、吉田裕彦、岩田幸雄、許斐氏利、阪田誠盛、清水行之助らとの地下人脈が形成された。
1937年11月、上海に移り、参謀本部第8課(謀略課)課長影佐禎昭に、中国の地下組織や関東軍との太い人脈と、抜群の中国語力を見込まれ、陸軍特務部の楠本実隆大佐を通じて特務資金調達のための阿片売買を依頼される。1938年3月、阿片売買のために三井物産および興亜院主導で設置された宏済善堂の副董事長(事実上の社長)に就任する。ここで、三井物産・三菱商事・大倉商事が共同出資して設立された商社であり実態は陸軍の特務機関であった昭和通商や、中国の地下組織青幇や紅幇などとも連携し、1939年、上海でのアヘン密売を取り仕切る里見機関を設立。ペルシャ産や蒙古産の阿片の売買によって得た莫大な利益を関東軍の戦費に充て、一部は日本の傀儡であった汪兆銘の南京国民政府にも回した。また、里見機関は、関東軍が極秘に生産していた満州産阿片や、日本軍が生産していた海南島産阿片も取り扱っている。この活動を通じて、青幇の杜月笙・盛文頤や、笹川良一、児玉誉士夫、吉田裕彦、岩田幸雄、許斐氏利、阪田誠盛、清水行之助らとの地下人脈が形成された。
記事によると、阿片売買事業の里見機関が設立されたのは1939年。1938年に里見が宏済善堂の社長に就任したことを経過してのものです。
上の特務機関一覧の抜粋をご覧ください。里見機関設立は梅機関の主幹「参謀本部第8課(謀略課)課長影佐禎昭」に要請されてのもので、里見機関設立の目的は特務資金調達のためとされています。秘密任務を担当する種々の特務機関がそれぞれ連携して動いていたのが分かります。
特務機関が裏天皇の実働部隊だと以前に記しましたが、この特務機関の動きは、よく統制されたものだったのが見て取れます。
里見が「阿片王」と称されるようになったのは、記事にあるように特務機関「昭和通商」の存在が大きかったでしょう。昭和通商は1908年に三井物産、大倉商事、高田商会の3社が共同出資して設立された「泰平組合」がその前身で、1913年に三菱商事が新たに加入して、昭和通商が設立されています。
昭和通商のウィキペディアによると、
一時期、北米はニューヨーク、南米はペルーのリマとボリビア、ヨーロッパではベルリン、ローマをはじめ満州、中国各地、南方諸地域にわたって支店や出張所をもち、正社員三千人、現地臨時雇用を含めると六千人にも及んだ巨大組織であった。
とのこと。
昭和通商は日本陸軍主導で設立された半官半民の軍需国策会社ですが、「秦氏系企業」が結集して作られた巨大一流商社といったところでしょう。
昭和通商の中国での阿片売買事業などを取り仕切っていたのが、青幇や紅幇など中国地下組織とも太いパイプを持っていた里見ということでしょう。里見は関東軍と巨大商社の昭和通商と連携して、多くの人と資金を動かして大掛かりに阿片事業を展開、これによって里見が「阿片王」と称されるようになったのでしょう。
電通の創始者は「上海阿片王」と呼ばれた里見甫。清国崩壊後の中国で古いヤクザ組織、青幇や紅幇と手を結んで、中国大陸で阿片を売りまくった。
— 火中の栗 (@kakachunokuri) June 1, 2021
その系譜は禍々しく現代に繋がっている。
電通と安倍晋三https://t.co/SJJO8dqTTwpic.twitter.com/J8c1emLhXU
魑魅魍魎の世界 〜麻薬事業の縄張り
阿片、麻薬事業のルーツ、その最古参で最大手が外伝4で見たように、アヘン戦争を仕掛けたイギリス東インド会社であり、英王室とその取り巻きです。この構図は現代まで続いています。
阿片事業は莫大な収益を生むために、地下人脈の有象無象が集います。そこでは利益を獲るためのグチャグチャの魑魅魍魎の世界が展開されます。縄張り争いのバトルも、妥協やなれ合いも展開されます。
1937年(昭和12年)、廬溝橋事件が勃発し、泥沼の日中戦争に突入しました。先のウィキペディア記事では、里見機関が阿片事業で得た莫大な収益は関東軍の戦費、汪兆銘の南京国民政府(南京を陥落させた日本軍が一時的にたてた傀儡政府)に回されたとあります。
ただし、阿片事業の収益が回されたのは他にもあります。里見は 「中国の地下組織青幇や紅幇などとも連携し」とありました。里見の阿片事業の収益は青幇や紅幇などにも当然流されます。
里見が形成した地下人脈には「青幇の杜月笙」の名があります。ところが、日中戦争の相手であるはずの国民党の蒋介石は秘密結社「三合会」のメンバーであり、青幇のメンバーでもあったのです。
蒋介石のウィキペディア記事「人物」欄に次のようにある通りです。
辛亥革命前後に青幇に加入し杜月笙とは義兄弟の関係であり、上海クーデターの際には青幇の協力を得て共産党員の大量殺害を行なった。その後も青幇の麻薬資金が蔣介石の経済的基盤となる。杜月笙の墓地には蔣介石揮毫による「義節聿昭」の牌がある。
蒋介石と青幇のボス杜月笙とは義兄弟の関係であり、「青幇の麻薬資金が蔣介石の経済的基盤」とのことですから、里見の阿片事業の資金が青幇から蒋介石に渡っていたはずです。里見のバックの関東軍からすれば、蒋介石たちは軍事的な敵であると同時に商売仲間でもあるとなるのでしょうか。
また、里見たちにとっては蒋介石たちは商売仲間ながら、「縄張り争い」上の敵でもあったはずです。
外伝4で見たように、インドや中国、アジアで麻薬事業を取り仕切っていたのはロスチャイルドと血縁関係にあるサッスーン一族です。
座っている人物がデイヴィッド・サスーン
Wikimedia Commons [Public Domain]
アジアで阿片事業を展開するにはサッスーン家との「縄張り争い」が必然的に生じます。そして蒋介石のグループを支援していたのがサッスーン家だと見受けられるのです。
上の方ではどこまでが「出来レース」で、どこまでが「本気」であったのか分かりませんが、現場レベルでは関東軍の阿片事業グループとサッスーンとの「縄張り争い」の殺し合いもあったのは事実です。
さらにこの「縄張り争い」には、謎の人物ショール・アイゼンベルグも絡んでいるようです。
八咫烏の1人で、最も、馴染みの1人は経団連、新日鉄会長だった永野重雄。
— Yasu (@yasu_yasuno_sa) October 18, 2018
八咫烏の1人新日鉄、永野重雄、娘婿、イスラエル最大の軍事コングロマリット『アイゼンベルク』の創始者、ショールアイゼンベルク pic.twitter.com/m28hQ7foPn
「結局のところは人脈が物を言うことになります。ただし人脈には“黒い人脈”と“白い人脈”がありますが……」、どこかで竹下さんはこのように語られていました。
里見甫は留学生として上海に渡り、一旦帰国するも再度中国に渡っています。中国語が堪能であった里見甫は中国人名を持ってもいました。里見甫は中国にて日本人側とも中国側とも広く深く人脈を形成していきます。そうやって大規模に事業を展開していったのでした。
事業を成立させるにはどうであれ、人脈形成ができなければなりません。里見甫の事業は大規模な阿片事業であったので、その人脈は、多くは青幇や紅幇など地下組織のものでした。その意味で里見甫の人脈は“黒い人脈”に概ねは分類できるでしょう。
ただし、欲望丸出しで獰猛な弱肉強食の地下世界で人脈を築き、地下の住人たちを取り仕切っていくには、それ相応の力と魅力がその人間に備わっていなくてはなりません。阿片事業を展開し「阿片王」とも称された里見甫は、それだけのものを持ってはいたということなのでしょう。