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人は生きている以上、誰かに迷惑をかけています
産前産後の支援を始めて、3か月未満の赤ちゃんを持つママ達と話す機会が増えました。コロナ禍で実家にも帰らずに頑張っているママ達です。その中で、もうすぐ100日のお食い初めのお祝いをするママが、初めて夫の実家に帰省する話をしていました。
「ねえ、もうお食い初めセット買った?」「うん、買ったよ。それを旦那の実家に送った」と言っていたので気になって「お食い初めセットって、なあに?」と聞きました。
何と尾頭付きの鯛の塩焼き、赤飯、一汁三菜、歯かための石までセットになったものが冷凍で売っているらしいのです。器付きなのでレンジでチンして盛り付けるだけ。調べたら結構な値段でした。
ママ達は「義理のお母さんが作ってくれるって言ったけど、子連れでお泊りするだけでも迷惑かけるからセットを買って送ることにしました。その方が気が楽です」「インスタ映えするのが目的だし、作っても赤ちゃんは食べないから」と言うのです。
実際、ご両親に孫を抱いてもらっている間に、パパとチンしながら盛り付けて喜ばれたそうです。そうか、そうよね。じいじとばあばは、何もしないで孫を抱いている方が楽よね。そして泣きだしたらパパとママに返せばいいし・・・。
正直、日頃から会っていなかったら、赤ちゃんがいるだけで疲れます。あやし方も抱き方も忘れています。最近のおむつや抱っこひもは使ったことがないのでわかりません。特に嫁には口出しできません。祖父母にとっても来てくれて嬉しいけど、暮らしのペースが乱れるし、散らかるし、うるさいし・・・帰ったらもっと嬉しいというのが本音でしょう。
子育て広場のセミナーでも、赤ちゃんが泣きだしたらさっと別の部屋に行くママが増えました。こちらは何かあったのかと心配して聞いてみると「迷惑をかけるから」との事。
「子育て中のママばかりなのでお互い様。泣いても気にしなくていいよ」と言いましたが、この「迷惑をかける」と言う言葉が気になりました。
大人中心の世の中、子どもが泣いたり、いたずらしたり、大声を出すのが迷惑と言われます。公園もマンションも声を出さない、走らないように気を使わなければいけません。でも、それって子どもが、子どもらしくしてはいけないって事?
特にコロナ禍で、人と接する機会が少なくなってから、その関係性がもっと遠くなったように感じます。
最近のママはコロナ禍にお産をして引きこもっているので、子育て広場に出かけるのも勇気がいるようです。本当に子育てしにくい世の中になりました。
そもそも、人は生きている以上、誰かに迷惑をかけています。赤ちゃんは、1人で生きていけないので、生まれた時からずっと迷惑をかけ続けて命を繋いでいます。親も「迷惑だからもうやめた」と言えない現実に疲弊しながらも乗り越えてお世話し続けています。
でも、赤ちゃんの様子を見ながら関わっていると、細かな要求がわかるようになります。笑顔が今までの苦労をねぎらってくれます。成長に驚き、感動します。お互いの絆も生まれてかけがえのない存在になっていくのです。
私の愛犬もそう。14年間お世話し続けています。病気になった今は毎日食べてくれそうなものを作り、体調に気を配っています。愛犬は今でも物を言わず、私を一度もお世話してくれないけど(笑)、生きる上で大切なものを教えてくれる、かけがえのない存在です。そう、居るだけで愛を教えてくれています。
これは人にとって、とても大切な迷惑だと思います。だから、迷惑と言う言葉を使ってはいけないのです。社会が子どもの特性を知り、寛容で、成長を見守るまなざしを持っていればそんな言葉は使わないのではないでしょうか?
むしろ、子育てをねぎらい、子どもを育てている親に子どもに関わる時間と、経済面も含めて安心して育てられる環境を提供してあげたい。でも、今の世の中は子どもを預けて働かないと食べていけないようになっています。
早くから保育園に預けて働くと、大人中心の時間と都合が生活を支配します。子どもの病気で休むのは迷惑になり、肩身の狭い思いをしなければいけません。仕事に疲れていても、家に帰れば子どもの世話と家事が待っています。これも「子育て中なら当たり前でしょ」と思われています。親は目の前の仕事をこなすだけで精一杯で、子どもが甘えてくるのが迷惑に思えてきます。
今まさにお嫁ちゃんがこの大変さに直面しています。フルタイムで仕事をして、日曜日は野球の試合。朝早くからお弁当を作って、他の子どもも連れて観戦に行きます。帰ったら食事の用意とユニフォームの洗濯。日曜日の夕方ごろから疲れがピークになっています。それなのに又次の週が始まります。
先週、我が家の近くで試合があったので家族全員とその友達まで来ていましたが、おもちゃ、飲み物、濡れた長靴、服が散乱したまま帰っていきました。
ママが子ども達に「片付けるよー」と叫んでも遊びに夢中で耳に入りません。怒るより自分で片づけた方が早いので片付け始めたお嫁ちゃん。でも、野球の試合で炎天下に晒されたこともあり、疲れ果てています。「片付けておくよ。早く帰って寝なさい」と追い出したのは私です。
これはもう限界でしょ!迷惑をかけてください!
先の、お食い初めの話でも同じです。義理のお母さんに頼めば、孫のためだから、ちょっと無理してもお赤飯を作ってくれたかもしれません。歯かための石も、孫の事を想いながら散歩中や神社、河原に拾いに行ったかもしれません。
お泊り用のお布団を出したり、お風呂を掃除するのも大変だけど、身内だから適当でいいじゃん。そんな機会がなかったらちゃんと掃除もしなかっただろうし、何より赤ちゃんのいる生活すべてが新鮮で可愛い。
初めから「迷惑かける」と断るのではなく甘えてみては?そして、その都度、正直にお互いに心地いい関係を築き上げていくのです。
私の母の場合もそう。2泊3日のショートステイを2週間経験して、施設の方から「移動だけで疲れるので、できれば3泊4日の方がいいと思います」と言われました。
施設では専門家が栄養管理をして流動食を作り、ベッドを45度にして上手に口に運んでくださるようで、母はよく食べるようになったそうです。お風呂も寝たまま入れるので「天国~」と言うらしい。
でも部屋では一人ぼっち。環境が変わった事だけは感じているようで、家に帰って疲れるどころか興奮して「ここはどこ?」「私はどこにいるの?」と不安げです。夜中も一晩中おしゃべりして起き上がろうとするそうです。
兄は「これだから介護は大変。こちらの身が持たない。もう施設にお願いした方がいい」と言い出しました。相当疲れているのでしょう。
私はモヤモヤした気持ちになりました。実際、兄夫婦にとって母の夜中の妄想は迷惑でしょう。でも、主人公を母にすれば、年老いて自分ではどうすることもできない状態なのです。
兄夫婦に対して「家で介護するって言っていたでしょう」と言う気持ちが沸き上がって責めたくなりました。ダメダメ!このモヤモヤは整理しなければいけません。私は自分をごまかして嘘をつきたくないし、人も傷つけたくないのです。
帰りの車の中で考えました。母は99歳になるまで1人暮らしを貫きました。なるべく人に頼らず、人を拒まず、今でも人の事を考えて「早く帰りなさい」と言う人です。
頭がクリアなら状況を判断して「施設に入所してもいいよ」と言うかもしれません。母の口癖は「あるがまま、今を生きる」です。
私は、母の延命を願っているのではなく、物言わぬ母の意に沿いたいだけ。今まで母から受けた愛を今こそお返ししたいのです。でも、それは私の思いであって、それを兄夫婦に強いて責める事はできません。
一番影響を受けている兄夫婦がSOSを出していることを尊重しながら、母がどこにいようとも私は母の所に会いに行く、と改めて確認しました。
介護に関しては、私もまだ未知の世界。私の死も含めて、これからも向き合っていくつもりです。とにかく、兄夫婦に対してネガティブな思いは消えました。嘘のない笑顔と感謝の気持ちで会えます。そこに新たな愛が芽生えると兄夫婦にも伝播していきます。あの時、兄夫婦を責めなくてよかったと思いました。
それにしても迷惑って何でしょう。迷惑と言う感情は何も悪くないし、自分を守るためのSOSかもしれません。ただ、人は生まれて死に至るまで、赤ちゃんの時は人にお世話され、成人したら自分や家族のお世話をして、最後は年老いて誰かにお世話されながら死に行くようにできています。
これを迷惑という意識で捉えたら自分否定になります。生きるための大前提として、それをお互い認めながら助け合える制度を作るべきだと思います。
そのためには、先ずひとり一人が自分を取り戻して生きる事です。人生をヤマ・ニヤマで生き、結婚するなら愛を基準にして伴侶を選び、家庭を築き、子育てを大切にする生き方をすることから始まります。
そして、愛された子どもが人を愛するように、愛の持続可能な循環社会を作りたいのです。愛のSDGsでしょうか。
最近のママはコロナ禍にお産をして引きこもっているので、子育て広場に出かけるのも勇気がいるようです。本当に子育てしにくい世の中になりました。
そもそも、人は生きている以上、誰かに迷惑をかけています。赤ちゃんは、1人で生きていけないので、生まれた時からずっと迷惑をかけ続けて命を繋いでいます。親も「迷惑だからもうやめた」と言えない現実に疲弊しながらも乗り越えてお世話し続けています。
迷惑と言う言葉を使ってはいけないのです
でも、赤ちゃんの様子を見ながら関わっていると、細かな要求がわかるようになります。笑顔が今までの苦労をねぎらってくれます。成長に驚き、感動します。お互いの絆も生まれてかけがえのない存在になっていくのです。
私の愛犬もそう。14年間お世話し続けています。病気になった今は毎日食べてくれそうなものを作り、体調に気を配っています。愛犬は今でも物を言わず、私を一度もお世話してくれないけど(笑)、生きる上で大切なものを教えてくれる、かけがえのない存在です。そう、居るだけで愛を教えてくれています。
これは人にとって、とても大切な迷惑だと思います。だから、迷惑と言う言葉を使ってはいけないのです。社会が子どもの特性を知り、寛容で、成長を見守るまなざしを持っていればそんな言葉は使わないのではないでしょうか?
むしろ、子育てをねぎらい、子どもを育てている親に子どもに関わる時間と、経済面も含めて安心して育てられる環境を提供してあげたい。でも、今の世の中は子どもを預けて働かないと食べていけないようになっています。
早くから保育園に預けて働くと、大人中心の時間と都合が生活を支配します。子どもの病気で休むのは迷惑になり、肩身の狭い思いをしなければいけません。仕事に疲れていても、家に帰れば子どもの世話と家事が待っています。これも「子育て中なら当たり前でしょ」と思われています。親は目の前の仕事をこなすだけで精一杯で、子どもが甘えてくるのが迷惑に思えてきます。
今まさにお嫁ちゃんがこの大変さに直面しています。フルタイムで仕事をして、日曜日は野球の試合。朝早くからお弁当を作って、他の子どもも連れて観戦に行きます。帰ったら食事の用意とユニフォームの洗濯。日曜日の夕方ごろから疲れがピークになっています。それなのに又次の週が始まります。
先週、我が家の近くで試合があったので家族全員とその友達まで来ていましたが、おもちゃ、飲み物、濡れた長靴、服が散乱したまま帰っていきました。
ママが子ども達に「片付けるよー」と叫んでも遊びに夢中で耳に入りません。怒るより自分で片づけた方が早いので片付け始めたお嫁ちゃん。でも、野球の試合で炎天下に晒されたこともあり、疲れ果てています。「片付けておくよ。早く帰って寝なさい」と追い出したのは私です。
これはもう限界でしょ!迷惑をかけてください!
先の、お食い初めの話でも同じです。義理のお母さんに頼めば、孫のためだから、ちょっと無理してもお赤飯を作ってくれたかもしれません。歯かための石も、孫の事を想いながら散歩中や神社、河原に拾いに行ったかもしれません。
お泊り用のお布団を出したり、お風呂を掃除するのも大変だけど、身内だから適当でいいじゃん。そんな機会がなかったらちゃんと掃除もしなかっただろうし、何より赤ちゃんのいる生活すべてが新鮮で可愛い。
初めから「迷惑かける」と断るのではなく甘えてみては?そして、その都度、正直にお互いに心地いい関係を築き上げていくのです。
私の母の場合もそう。2泊3日のショートステイを2週間経験して、施設の方から「移動だけで疲れるので、できれば3泊4日の方がいいと思います」と言われました。
施設では専門家が栄養管理をして流動食を作り、ベッドを45度にして上手に口に運んでくださるようで、母はよく食べるようになったそうです。お風呂も寝たまま入れるので「天国~」と言うらしい。
でも部屋では一人ぼっち。環境が変わった事だけは感じているようで、家に帰って疲れるどころか興奮して「ここはどこ?」「私はどこにいるの?」と不安げです。夜中も一晩中おしゃべりして起き上がろうとするそうです。
兄は「これだから介護は大変。こちらの身が持たない。もう施設にお願いした方がいい」と言い出しました。相当疲れているのでしょう。
私はモヤモヤした気持ちになりました。実際、兄夫婦にとって母の夜中の妄想は迷惑でしょう。でも、主人公を母にすれば、年老いて自分ではどうすることもできない状態なのです。
兄夫婦に対して「家で介護するって言っていたでしょう」と言う気持ちが沸き上がって責めたくなりました。ダメダメ!このモヤモヤは整理しなければいけません。私は自分をごまかして嘘をつきたくないし、人も傷つけたくないのです。
帰りの車の中で考えました。母は99歳になるまで1人暮らしを貫きました。なるべく人に頼らず、人を拒まず、今でも人の事を考えて「早く帰りなさい」と言う人です。
頭がクリアなら状況を判断して「施設に入所してもいいよ」と言うかもしれません。母の口癖は「あるがまま、今を生きる」です。
私は、母の延命を願っているのではなく、物言わぬ母の意に沿いたいだけ。今まで母から受けた愛を今こそお返ししたいのです。でも、それは私の思いであって、それを兄夫婦に強いて責める事はできません。
一番影響を受けている兄夫婦がSOSを出していることを尊重しながら、母がどこにいようとも私は母の所に会いに行く、と改めて確認しました。
介護に関しては、私もまだ未知の世界。私の死も含めて、これからも向き合っていくつもりです。とにかく、兄夫婦に対してネガティブな思いは消えました。嘘のない笑顔と感謝の気持ちで会えます。そこに新たな愛が芽生えると兄夫婦にも伝播していきます。あの時、兄夫婦を責めなくてよかったと思いました。
愛の持続可能な循環社会を作りたい
それにしても迷惑って何でしょう。迷惑と言う感情は何も悪くないし、自分を守るためのSOSかもしれません。ただ、人は生まれて死に至るまで、赤ちゃんの時は人にお世話され、成人したら自分や家族のお世話をして、最後は年老いて誰かにお世話されながら死に行くようにできています。
これを迷惑という意識で捉えたら自分否定になります。生きるための大前提として、それをお互い認めながら助け合える制度を作るべきだと思います。
そのためには、先ずひとり一人が自分を取り戻して生きる事です。人生をヤマ・ニヤマで生き、結婚するなら愛を基準にして伴侶を選び、家庭を築き、子育てを大切にする生き方をすることから始まります。
そして、愛された子どもが人を愛するように、愛の持続可能な循環社会を作りたいのです。愛のSDGsでしょうか。
昼ご飯は孫の好きなうどん。掃除も洗濯もしない。私は孫に、とことん付き合って遊ぶ、と決めています。だから気が楽で、孫に集中できます。
自分の子どもを育てている時より格段に子育て力が付いたと思えるのは、孫の仕草一つひとつの理由や、孫の気持ちが手に取るようにわかってきたからです。
ずっと眺めていたいくらい面白い!
そんな余裕と覚悟がママ達にあったらなあと思います。
だって、物言わぬ中にこそ本質があり、この瞬間はもう二度と来ないからです。