文字起こし2/3:円の支配者(日本語字幕・シャンティ・フーラオリジナル翻訳)ドキュメンタリー映画 <中央銀行の真実 - Princes of the Yen >

翻訳チームからの情報です。
 今回は29:27〜68:51の部分です。
 バブルの創出と破裂、その後の長期デフレ政策で、米国型経済が導入され、大銀行が外資に乗っ取られたことがはっきりと分かる内容になっています。また、これらが三重野康氏と福井俊彦氏らの日銀プリンスによる陰謀だったこともはっきりと分かると思います。
(編集長)

注)以下、文中の赤字・太字はシャンティ・フーラによるものです。

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円の支配者 - 中央銀行の真実 (ドキュメンタリー)
転載元)
日本語字幕の設定方法はこちら

29:27 

通貨の創造とバブル


あらゆるバブルと同様、日本のバブルが煽(あお)られたのは、ひとえに銀行制度によって新しい通貨が急速に創造されたことによる。

福井俊彦(ふくい・としひこ)

福井俊彦(ふくい・としひこ)


1986年から1989年にかけて日銀の営業局長だったのは福井俊彦だ。これは窓口指導による各銀行の貸出割当額に責任を負う局だ。福井にあるジャーナリストが尋ねた。

「(貸出が急速に増えていますが....) 貸し出しの蛇口を細くするつもりはないのですか。

福井は答えた。

「金融緩和を一貫して続けるわけだから、貸し出しの量的規制は自己矛盾に陥ることになります。だから量的規制をするつもりはない。経済の構造調整をかなりの期間かけてやっていきながら国際的な不均衡を是正していく。金融政策はそれを支えることになるわけですから、なるべく長く金融緩和を続けていく責任があるのです。そうすると金融機関の貸し出しが伸びるのは当然なのです…」

    (ニュース映像)
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    ヴェルナー:なぜ銀行はこれほど多くの融資を行っていたのか?それは日本銀行の命令によってそうせざるを得なかったからです。」

通常、銀行は多くの融資申込者の中から顧客を選び、かなりの割合で融資を断る。だが1987年から形勢が逆転し、銀行家のほうが積極的に見込み客を追いかけるようになった。銀行がまるで行商人のように顧客を追いかけ格安の金利で融資を勧誘した逸話がたくさんある。

    元OL:「とにかく本当に銀行がすごくお金を借りてください!っていう感じだったから…例えば結婚するからマンションを買う。自分たちの予算に依るという時に、それの1千万くらい上乗せして大丈夫って、それでも返せるからと…」

32:01 
銀行家はますます地価の評価を誇張して行うようになり、貸付金に対する地価の実際比がしばしば300%超に急増した。一般の人々にとってこれは奇妙な現象だった。ほどなく人々はこれを「過剰資金」と呼んだ。

エコノミストやアナリスト、金融市場や不動産会社で働く人々だけが事情をわきまえていた。あまりに簡単に割り切りすぎた分析を彼らは斥けた。地価の上昇は単に過剰資金によるというよりもはるかに複雑な理由によるものだった。こうした業種の人たちは、庶民には、ただ高度な財テクの複雑な仕組みが分からないのだ、と主張した。

32:53 

国際資本の移動


ある国が創造した通貨の量が多すぎるとその通貨の一部は、海外へ投資という形で流出する。1980年代の日本の資本の流れは1980年に2億ドル以上(純額)が国内に流入したのに対して1986年には1320億ドルが流出した。

美術品その他の貴重品を含む世界中の資産が、日本のバイヤーたちの標的となった。これにはロックフェラー・センター、コロンビア映画、ペブルビーチ・ゴルフリンクスのような知名度の高い購入物件が含まれていた。

驚くべきことに1986年に競売されたアメリカ合衆国の長期国債の75%が日本円によって購入された。だが一国が紙幣を印刷するだけで世界中の物件を買いたい放題に購入するというのはたやすくできることではない。日本にこれができたのは、市場が通貨を切り下げなかったからだ。

それぞれの通貨の価格は、為替ディーラーによって決められる。その際、彼らが観察する従来の経済指標がその国の過剰な通貨創造を捉えていない場合、多額の通貨創造と、これを外貨と交換しようとする試みが、影響を及ぼすことがある。

1950年代、1960年代に米国の銀行はドルを過剰に創造したが、この時に米国が使った同じトリックを日本は成功させたのだった。アメリカ合衆国株式会社は、ヨーロッパの諸企業を買収するため、このホットマネー [不正に得たカネ] を使った。

この時に米国が使った口実は金本位制だったが、日本の場合、口実となったのは多額の貿易黒字だった。



GDPを根拠としない融資:財貨やサービスの生産を目的としない融資


金融制度全体のリスクの増加をその初期に警告する指標として、融資総額に対してGDPに基づかない取引を目的とする貸付金が占める割合がある。この比率は、金融危機が発生しつつある国々のほとんどで著しく高くなる。

1980年代と2000年代にアメリカとイギリスで抵当貸付と住宅価格の急騰を刺激したのは、このプロセスにほかならなかった。
これと同じプロセスはまた、黄金の1920年代を創出した。この時アメリカの銀行は株を担保として貸出を行った。

原理は同じだ。各銀行は株価を既定の事実と考え、新たに通貨を創造した。株式市場で通貨量が増えると株価は上昇しなければならなかった。株価の一定の割合を担保として受け取れば安全だと各銀行は考えたが、すべての銀行が同じ行動をとることによって市場全体が押し上げられる。

日本では、民間部門が所有する土地の富が1969年に14兆2千億円だったのが、1989年には2000兆円に上昇した。

三重野康 (みえの・やすし)

三重野康 (みえの・やすし)


日本銀行第26代総裁三重野康 (みえの・やすし) は、1989年、最初の記者会見で地価高騰の原因について「金融が片棒をかついでいることは否めない」と金融緩和の副作用を率直に認め、今後は個別の指導で不動産関連融資を抑制していくと述べた。

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    ヴェルナー:周囲を見回して、彼はバブル、資産価値の上昇、貧富の格差の拡大に目を向け、これを止めようではないかと言いました。三重野氏は新聞や雑誌の記事で英雄になりました。それは彼がこの愚かな金融緩和策に反対して戦ったからですが、ところが本人はバブル期の間は副総裁を務め、バブルの創出を担当していたのです。


37:57

相場の暴落


突然、地価と資産価値の上昇が止まった。1990年だけで株価は32%下落した。その後、1991年7月窓口指導が廃止された。これには、日本銀行で窓口指導を担当していた職員達自身が驚いた。

銀行家達はほとんど無力のまま取り残された。もはやどのようにして貸出を計画すればよいかわからないと彼らは不満をもらした。かつてある銀行の支店がもっと多く融資したいと言う時には、窓口指導の貸出割当額は使い果たしたと答えるのが常だったが、この度はもはやそうすることができなかった。

バブルで融資された99兆円の大部分が焦げつく可能性が高いことに銀行が気づき始めると、恐ろしさのあまり銀行は投機家への融資をやめたばかりか、他の誰に対しても融資を制限した。

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    ニュースキャスター
    「日本では希望のないクリスマスが待っているようです。月曜日、株式市場は下落して過去2年以上で最低の終値となりました。
    先週、日本の食品業者最大手の一つが倒産しました。今年上場企業が倒産したのはこれで9回目です。」

5百万人を超える日本人が職を失い、就職先がどこにも見つからなかった。20歳から44歳までの男性の死亡原因では自殺がトップになった。

    元OL:「毎日といっても過言ではないぐらい首つりしたりとか居なくなっちゃったりとか、そういう記事が新聞紙面に流れましたね。」

1990年から2003年にかけて21万2千社が倒産した。同じ期間に株式市場は80%下落した。主要都市の地価は最大で84%下落した。

エコノミストのある者たちはホッと胸を撫でおろしているように見えた。景気の低迷は、煎じ詰めると日本の経済体制がそれほど成功していない証拠だった。

その一方で日本銀行総裁、三重野康(みえの・やすし)は語った。

「この不況のおかげで誰もが経済改革を行う必要を意識するようになってきた。」



41:10 

救済措置の失敗


大蔵省は、金利が主要な政策手段であると信じていたので、日銀に金利を下げるよう圧力をかけた。この結果、公定歩合は0.1%まで下がった。ほとんどのエコノミストは、景気が回復すると予測した。だが金利を下げれば成長が刺激され、金利を上げれば成長が鈍化すると金融新聞や中央銀行が頻繁に主張したにもかかわらず、経験上そのような因果関係を示す証拠は全く存在しない。

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    ニュースキャスター
    「日米のビジネスマンがここで会合を開いています。日本の企業からは円安を求める嘆願が出されています。1ドルが100円以下で利益を出すことのできる日本の輸出業者は全体のわずか6%しかありません。収支を合わせるには、平均して1ドルが117円超に上がることが必要です。」

大蔵省は日銀に大量の円を売り、米国ドルを買うことを求めた。円の為替レートが下落し、輸出が上向くようにするためだ。

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    ヴェルナー:「大蔵省と日銀の両者は、実に折り合いがよくありません。今月再び起こっているのは、日銀が自らの介入を無効にしているということ、正確に言えば、大蔵省の命令による介入を無効にしつつあることです。大蔵省は日銀に米国債をおよそ200億ドル購入するよう指示しています。ところがこの購入資金は基本的に日銀が国の経済から得るカネなので、不胎化されます。大半の研究者は、不胎化された介入には効果がないことに同意しています。日銀はまた不胎化を行っているのです。このため介入には効力がなく、円は現在まで依然として強いのです。

中央銀行はその資産を売却することによって国の経済から通貨を回収することができる。これは、資産を購入することによって国の経済に通貨を投入することができるのと同様だ。

中央銀行が資産を売買すると、国の経済を循環する通貨の量が増減するわけだ。日銀の職員はこの点を無視し、その代わりにこう主張した。

「この構造改革で短期的にはデフレ圧力が生じるかもしれないが、しばらくすればはるかに効率的な経済が生まれるだろう。」

この時、独立した立場にあるオブザーバーたちは、国内需要は財政支出によって押し上げられなければならない、そうすれば借入需要も高まるだろう、と提案した。

10年間、政府は彼らのアドバイスに従って政府債務を歴史的な水準にまで押し上げた。1992年から2002年までの間に景気刺激策が10回打ち出され、その総額は146兆円に達した。

    (ニュース映像)
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    ニュースキャスター
    リチャード・ヴェルナー氏は東京のジャーディン・フレミング証券会社のチーフ・エコノミストです。日本経済がどこに向かっているか、ご意見を伝えていただきます。

    ヴェルナー:日本政府は右手を使って支出を行い、国の経済組織に通貨を投入していますが、資金調達は債券市場を通じて行われましたから、左手を使ってその同じ通貨を国の経済組織から取り去ったわけです。購買力は全体としてまったく増えていません。ですから政府の財政支出には効果がないのです。

2011年までに日本政府の負債はGDPの230%、世界最高に達しようとしていた。

大蔵省 [2001年より財務省] は万策尽きようとしていた。オブザーバー達は不況の責任を大蔵省に負わせるようになり、不況は日本の経済体制のせいだと唱える声に耳を傾けはじめた。

だが銀行部門の不良債権問題とデフレを解決することは、どれほど難しいことだったのだろうか。結局これはそれほど難しいことではなかったことが分かる。

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    ヴェルナー:「金融システムは、映画「キャッチ22」のようにいつもどちらに転んでも勝算がないように見えます。貸出額の伸びがないので、経済は成長しない。それで貸出額が伸びないので、経済成長はない。さて、この循環論法を破ることのできるものが一つあります。それは中央銀行です。この状況での中央銀行の義務は、通貨を印刷することなのです。


46:18 

中央銀行の権限


    ヴェルナー
    今私たちに必要なのはもっと抜本的な措置です。その中には痛みを伴うものがあれば、伴わないものもあります。例えば中央銀行は、すべての不良債権をただ額面どおりに買い取ることができます。これは日本が世界で最強の銀行を持っているということでしょう。

銀行部門を救済するため中央銀行は新たに創造された通貨を使って不良金融資産を額面通りに買い取ることができる。この場合は、資産が著しく減価していることがよくあるのだが。これは日本銀行が戦後に行ったことだ。

もう一つの方法として、銀行を支援して相当な利益を得させ、通貨を銀行に移転させることができる。これを成し遂げるやり方の一つは、中央銀行が市場を独占し、一定の市場に実際にミニ・バブルを創出することだ。

このバブルで銀行は多量に出資するため多額の利益が得られる。これは結局、中央銀行が自らの銀行制度を支援するために用いる比較的ありふれたテクニックであることがわかる。

その他の提案としては、銀行にリスクのまったくない借り手を紹介する措置や、会計に別の計算方法を導入して銀行のバランスシートを改善することが挙げられる。

これは西側主要国では約20年後に議論されたことだが、日本では当局と日銀が論陣を張って納税者がつけを支払うべきだとされた。

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    富士銀行頭取(当時) 橋本徹氏


    富士銀行頭取(当時) 橋本徹氏:「去年の3月に政府は日本のおよそ15の主要金融機関に多額の資金を注入しました。私どもはその一つでした。これは不良債権を帳簿から消すのに役立ち、キャピタルベースの強化にも役立ちましたから、私どもには融資の準備ができると思われました。

これまで税金が、銀行の資本構成を変更するために使われてきた。とはいえ、納税者が銀行の問題に対して責任があったという証拠はない。

だからこのような金融政策がモラル・ハザードを引き起こし、リスクに対する補償のために責任感・経営倫理が失われた可能性が高い。

通貨の供給は銀行と中央銀行による信用創造の純増加によって決まる。モラル・ハザードのために銀行部門が救済されないとなれば、デフレと不況をなお回避できるのは中央銀行である。

この目的のために中央銀行は通貨供給量を増やすことができる。中央銀行は、単に民間部門から資産を購入し、新たに創造された信用を使って支払いをするだけでいつでも無制限に国の経済の通貨量を増やすことができる。
たとえば日銀は不動産を購入してこれを公園にすることができる。

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    ヴェルナー:「ここに、3つの問題を一気に解決する機会があります。国の経済は信用創造を必要とし、銀行は不良債権をなくす必要があります。そして不動産部門には取引が必要です。そのために中央銀行が紙幣を印刷し、銀行から土地を購入して、それを公園に変えれば、日本人の生活の質の向上という今ひとつの問題も解決されるのです。」

たとえ日銀が後日これらの公園を経費のほんの一部にあたる額で売却したとしても、日銀はなお通貨を創造したことになる。これは、そもそも日銀に通貨を創造する費用がまったくかからないためだ。

国の経済に通貨を注入するための今ひとつの選択肢は、量的緩和だ。これらの選択肢がすべて使用できるにもかかわらず、日銀はあらゆる段階で危機を解決したであろう政策の実施を拒んだ。

    ヴェルナー:私が1992年からその翌年にかけて日銀に客員研究員として在籍していた時、この不況はほんとうに悪化に向かっていると確信しました。そこで日銀の人に誰と話ができるか尋ねようとしました。なぜもっと通貨を印刷しないのかが疑問だったのです。この問題についてとてもオープンな人に会って話をすると、その人は言いました。
    「リチャード、確かに我々はもっと多くの通貨を印刷することができたよ。我々は経済の回復を創出することができたはずだ。だがその場合、
    何も変わらなかったことになるだろう。日本の経済構造は変わらなかったことになる。

    それでその時には、私にはまだ日銀がまさかあまりに大それた構造変革を成し遂げるために、本気で不景気をわざと引き延ばしているとは信じることができませんでした。

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    ニュースキャスター
    「塩川正十郎 (まさじゅうろう) 財務大臣は、日銀に対してデフレを止めるか、少なくともデフレと闘う手助けをするよう求めました。」

経済を刺激し長期の不況を終わらせるためにもっと多くの通貨を創造してほしいとの政府、蔵相、総理大臣の要求に、日本銀行は一貫して盾を突いた。時に日銀は国の経済を流通する通貨量を積極的に削減する施策さえ行ったので、不況はさらに悪化した。

日銀の論法はいつも最後に同じ結論で締めくくられる。つまり、非難されるべきであるのは日本の経済構造なのだ。

日銀の職員達の論法によると、大幅な金融緩和は「構造調整の進捗がさらに遅れ」「害になりかねない」とさえいうのだ。

戦後初期の日本の指導者たちは自分たちが戦時経済を運営していることを知っていたが、政治的な理由からそれを語らなかった。冷戦期の政治宣伝では、戦後の日本はアメリカ型の政治・経済体制を採用したといわれていた。

本当のことを言いたくなかった戦後初期の指導者達は、奇跡の日本経済の起源について公にできない彼らの秘密を語らずに世を去った。

1980年代から1990年代にかけて日本を統治したのは、自国の経済の真の性格と本来望まれる目的を理解していない世代に属する官僚・政治家たちだった。このような世代の日本のエコノミスト達が丸ごと米国に送り出され、アメリカ型経済の分野で博士や経営大学院修士となった。

彼らが学んだ新古典経済学の前提によると、経済体制には一種類のシステムしか存在しない。つまり何の緩和策もない純然たる自由市場、株主と中央銀行家が最高の支配者として君臨する自由市場だ。

多くの日本のエコノミストが、すばやく米国のエコノミストの議論をうのみにし、受け売りでそれを繰り返すようになった。

53:43 

大蔵省の解体


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    アナウンサー:「日米保険協議が火曜日に2日間の日程を終了しました。」

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    大手生命保険会社とそれ以外の大手保険会社、それに大蔵省の既得権を制するためには、第1次産業部門の規制緩和が必要です。

    ニュースキャスター::これらの当事者は12月15日以前に合意に達する必要があります。この日以後、米国は貿易制裁を課す恐れがあります。

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    ニュースキャスター::「アナリストたちが予想する主な解決の鍵は、不動産の証券化です。詳細についてリチャード・ヴェルナーに聞きます。」

    ヴェルナー:「意味のある証券化を行うには、規制緩和が必要です。これはすでにご質問への答えになります。規制緩和を達成するためには、大蔵省の権限を縮小しなければなりませんが、大蔵省がこれに抵抗していたことは明らかです。」

1980年代に名声ある大蔵省の名刺を持って自己紹介することのできた者たちは、沈黙のうちにも深い畏怖と尊敬の念から人々を嘆息させた。

ところが1990年代の中頃から人々の態度が変わり、大半のオブザーバーには大蔵省が不況を起こしたことはほとんど疑いないと思われた。

大蔵省の庁舎の外ではしばしば官僚たちの行動に嫌気がさした市民達がデモを行った。1998年初め、検察官が初めて日本の省庁の中で最大の実力をもつ省を強制捜索した。


銀行と金融当局の両者が彼らがとった行動に対して厳しい批判を受けた。大蔵省の官僚と銀行家達の間に存在した非公式のつながりの一部がスキャンダルで浮き彫りにされた。

多くの銀行員とともに一部の大蔵省官僚さえ逮捕、収監され、数人の自殺者がでた。

白川方明 (しらかわ・まさあき)

白川方明 (しらかわ・まさあき)


中央銀行家・白川方明 (しらかわ・まさあき) はこう説明した。

「関連するあらゆる個々の経済主体の既得権益に関係しているので、制度の枠組みを変えて構造改革を推進するのは容易ではありません。」

山口泰(やまぐち・ゆたか)

山口泰(やまぐち・ゆたか)


日銀副総裁・山口泰(やまぐち・ゆたか)はこう語った。

「日銀は金融緩和によって差し迫ったリスクの緩和が生じるというディレンマに直面し、その結果究極的な解決策の採用を遅らせることになった。」

1990年代以降、政府は大蔵省の権力構造の多くの部分を解体し始めた。他方で、日本銀行の影響力は著しく増大した。

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    ニュースキャスター:「つい先日あなたが書いていたことですが、あなたにとっては『日本銀行が大蔵省から切り離されて独立し、他国の中央銀行と対等の立場に置かれることは疑いない』とのことですね。なぜそれほど確かなのですか。

    ヴェルナー:「大蔵省は少なくとも法的には日銀を統制してきたのですが、すっかり信用を失ってしまいました。大蔵省が現在非難されているのは、バブルを創出し不況を長引かせた責任を問われ、他にも多くの問題が最近日本で起こっているためです。ところが日銀のほうは、これまでずっと国民の批判の眼差しを浴びないまま、今度はこれを利用して、こう言おうとしています。『そうだよね、大蔵省は悪かった。だから私たちには今や独立することが必要なのです。』」

    「リチャード、どうもありがとう。東京のジャーディン・フレミング証券会社のチーフ・エコノミスト、リチャード・ヴェルナーでした。」

1994年に日銀総裁の地位を退いて間もなく、三重野はあるキャンペーンに乗り出しさまざまな協会や利益団体に対して演説した。彼は日銀法を変えるよう働き掛けた。彼の論法は、日銀が間違った政策を取るよう大蔵省が圧力をかけた、と微妙にほのめかすものだった。

将来このような問題を回避するうえで、日銀は完全な合法的独立を承認される必要があるというのだ。三重野によれば、中央銀行を独立させることは、歴史によって育まれた人類の智慧を反映するものだった。1998年、通貨政策は新たに独立した日銀の手に委ねられた。

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    ニュースキャスター:「ではあなたは、政治家もエコノミストももっと多くの通貨を創造するよう日銀に圧力をさらにもっとかけるべきだというのですね。でも多くの評論家は、それは中央銀行の独立に干渉することだというでしょう。その点をどう考えますか?」

    ヴェルナー:「まさにその通りです。これは中央銀行の独立に干渉することであり、まさに我々が必要としている事柄なのです。」

59:22 

政治体制の変革


バブルがはじけた後に続いた数多くのスキャンダルも自由民主党による1955年体制を破滅させることになった。かつての体制では、政治家は異なる政策を掲げて角逐を演じることはなかった。政策は官僚が作り、政治家は公共事業で地方の支持基盤をなだめることに専念していたにすぎない。

1997年10月には、戦後史で初めて経済を刺激するためのすべての政策構想が、官僚ではなく政治家によって出された。次いで2001年初め、新しいタイプの政治家が権力の座に押し上げられた。

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    ニュースキャスター:「小泉純一郎が次期総理の本命馬として現れ、人気を博していることから、日本国債市場は 今月最大の反騰を示しました。」

小泉純一郎

小泉純一郎


小泉純一郎が総理大臣となった。彼の人気と政策は、しばしばマーガレット・サッチャーやロナルド・レーガンにたとえられた。小泉の政策スローガンは単純なものだった。

「構造改革なくして経済回復なし」


2001年のジェノア・サミットで彼は言った。

「改革せず景気が先だと言って景気が回復したら、改革する意欲がなくなってしまう。だから「構造改革なくして成長なし」という方針通り選挙後もやっていこうと思っている。」

2001年の一年間、「構造改革なくして経済成長なし」のスローガンが日本の各テレビ局でほとんど毎日放送された。

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    ヴェルナー:「今や誰もが構造改革が必要だと信じています。経済回復のためには、日本型資本主義を廃棄する必要があります。なぜでしょうか。あらゆる政策を試みても、どれもうまくいかなかったようです。だから悪いのは日本式の経済体制で、これとは縁を切ったほうがよいというわけです。」


62:13 

経済の変革


日本はその経済体制をアメリカ型市場経済に切り替えつつあった。そのことはまた、経済の中心が、銀行から株式市場に移されつつあることを意味した。預金者を誘惑して銀行預金を危険な株式市場に投資させようと、改革論者達はあらゆる銀行の預金保証を撤回し、税制面のインセンティブで株式投資を優遇した。

アメリカ型株主資本主義が広まると、失業者数が大幅に増え、所得と富の格差が拡大した。自殺と暴力犯罪件数も増加した。次いで2002年、日銀は銀行がバランスシートを悪化させ、借手に担保権を行使せざるをえなくなるよう努力を強化した。

この時まで柳沢伯夫(やなぎさわ・はくお) 金融相は、日銀が吹き込んだ銀行への税金投入の提案に抵抗を続けていた。これによって銀行を事実上国有化して経営を引き継ぎ、企業に融資の支払いを要求する権限を利用すれば、多数の大企業の倒産の引き金が引かれる。

柳沢氏は、正式に総理大臣によって罷免され、竹中平蔵と交替した。竹中は、借手の抵当流れを増やす日本銀行の計画の支持者だった。

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    ヴェルナー:「竹中氏は、銀行を国有化できるようにするため、銀行のバランスシートを劇的に悪化させるための政策を実施しようとしていました。

竹中は銀行政策を監視する作業部会を任命したが、これには2人の前日銀職員が含まれていた。その一人、木村剛(きむら・たけし)は、会計方針の変更を実施することをただちに要求した。これを実施すれば銀行のバランスシートが悪化し、国有化は避けられないことになる。

東京の著名なエコノミスト森永卓郎は、力説した。日銀が吹き込んだ竹中の提案には本来のうま味はあまりない。ところがその代わりに、不良資産の購入を専門とする米国ハゲタカファンドを主に利することになるのだ。

これらのファンドが直面した困難は、20万件を上回る倒産があるにもかかわらず、関心の対象となるほどの大きな企業はほとんど倒産しないことだった。

木村と福井が倒産計画に対する支援を表明した際、木村は、不良資産の証券化のアドバイスを行う民間企業を経営し、福井は、世界最大のハゲタカファンド事業主の一つであるウォールストリートの投資会社、ゴールドマンサックスのアドバイザーだった。

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    ヴェルナー:「福井氏、また福井氏に助言を与える三重野氏と、三重野氏に助言を与える前川氏、お判りでしょう、これらの人たちが私が著作で述べている日銀のプリンスの一部です。記録によると、1980年代と90年代に彼らは 金融政策の目標が何だと言ったでしょうか?経済構造を変えることです。ではどうやってそれをするのか。そう、それには危機が必要なのです。そしてそれこそが、彼らが実際にした仕事なのです。」

    ニュースキャスター:リチャード、時間がありません。ここで打ち切ります。


65:56

内部告発者


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    日銀担当の経験のある大手都銀・支店長「…当時はですね、3カ月に1度ほどですね、要はどれぐらい貸し出し額を増やすかということを各銀行が割り当てられたわけですね。窓口指導については、例えばA銀行がいくら、B銀行がいくら、ということで、これはもう明らかに命令といいましょうか、お宅の銀行はこれだけ増やせということを言われたわけですね。

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    ヴェルナー:「バブルの原因は、窓口指導なんですね。窓口指導は、日銀が独立的に決めたものなんですね。」

日本銀行では窓口指導による銀行の貸出割当に責任を負う部署を営業局といった。

ヴェルナー:「では誰がこの局を任されていたか?バブル期の1986年から1989年にかけて営業局のトップにあったのは福井俊彦氏でした。現在日銀総裁の福井氏がバブルを創った人物なのです。

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日銀総裁になったとき、福井はよくこう言った。

「古い成長モデルを破壊して新しい時代に合ったモデルをつくっているところです。」


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    ヴェルナー:「あらゆる点で彼らは成功しました。彼らの目標のリストをご覧になると、目標をすべて達成しています。つまり、大蔵省を破壊し分割する。独立の監督官庁 [金融庁] を手に入れる。日銀法を改正して日銀の独立そのものの達成する。製造業からサービス業へ融資の重点を移し深層から経済構造が変わるよう工作する。無差別に市場開放と規制緩和を行い、片っ端から一切合財を自由化し私有化する。

1920年代には、日本の経済は多くの点で今日の米国経済と似ていた。競争は激しく、強引なやり方で雇用と解雇が行われ、大企業は乗っ取り合戦を繰り広げた。

官僚による統制はほとんどなく、強力な株主達が高配当を要求し、企業の資金は、銀行からではなく、市場から調達された。

だが戦後期を通じて日本経済はこれとはまったく逆だった。官僚による高度の統制下で、競争はカルテルによって制限され、融資は銀行によって行われ、株は持ち合いだった。株主の力は弱められ、企業の乗っ取りは皆無で、労働市場は凍結して終身雇用と年功序列の社会がそこにあった。

不況を終わらせ業績を改善するため、日本は福祉資本主義から株主資本主義に戻らなければならないと主張された。それにもかかわらず、なぜ貿易収支が従来一貫して大幅な黒字であり続けた国が、さらに競争力をつけるため経済体制を変える必要があるのか、依然として分からなかった。

68:51
つづく…

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