ミトラとミロクの関係 〜日本でのミトラ教儀式
京都の太秦に「広隆寺」(別称は「蜂岡寺」「秦公寺」など)があります。
秦氏の氏寺です。国宝第1号の弥勒菩薩像が安置されてあります。この寺の創建は、
ウィキペディア記事には以下のようにあります。
「『書紀』によれば、推古天皇11年(603年)聖徳太子が「私のところに尊い仏像があるが、誰かこれを拝みたてまつる者はいるか」と諸臣に問うたところ、秦河勝が、この仏像を譲り受け、「蜂岡寺」を建てた」
聖徳太子の最側近のブレーンであり
秦氏の長であったであろう秦河勝が、弥勒菩薩像を祀るために広隆寺を建てたということでしょう。
広隆寺は仏教寺院となっていますが
実体は原始キリスト教、もしくはミトラ教の寺院と見るのが正確でしょう。ベンジャミン・クレームの『マイトレーヤの使命』の中には
イエスをオーバーシャドウ(日本的表現では神憑りもしくは憑依)
していたのはマイトレーヤ、つまり弥勒菩薩だとしばしば記されています。
マイトレーヤは霊的世界で、ハイアラーキー(国津神)の太陽系第3レベル(シリウス第5レベル)の地球レベルのキリストだったのです。
イエスをマイトレーヤがオーバーシャドウすることで、イエスがイエス・キリストになっていたのです。
なお、マイトレーヤとミトラの関係ですが、
ミトラはマイトレーヤ同様に過去に地球に実在した人物で、
太陽系第3レベル(シリウス第5レベル)の太陽レベルのキリストだったことを竹下さんが明かされています。
ミトラとマイトレーヤは同質であり、双子の相似形の関係であり、≒ の関係で結べます。
こういった事実は聖徳太子も秦河勝もよく知っていた上で広隆寺を創建していると考えられます。
そしてもう一つ、
広隆寺が原始キリスト教もしくはミトラ教寺院であるとの根拠となりそうなのが、京都三大奇祭として知られ、広隆寺で毎年10月に開催される
「牛祭」です。「牛祭」は
コトバンクに次のようにあります。
「陰暦9月12日(現在は10月12日)の夜に京都市右京区太秦(うずまさ)の広隆寺で行われる祭り。摩多羅神(またらじん)の役は白紙の仮面をかぶり、異様な服装をし、牛に乗って寺内を一巡し、国家安穏・五穀豊穣(ごこくほうじょう)・悪病退散の祭文を読む。太秦の牛祭。」
牛祭(都年中行事画帖 1928年)
この祭りの主役の摩多羅神(またらじん)とは天台宗寺院の常行三昧堂の守護神でもあり、最澄および円仁が唐から持ち帰った神のようですが、
大陸から渡来した摩多羅神(またらじん)とはどのような神なのか?
この
摩多羅神(またらじん)とはミトラ神と見て間違いないでしょう。
「牛祭」とは「牡牛を屠るミトラ」の「聖牛の供儀」を原型としており、日本では
牛を殺して供物にするのは禁じられたので、それをアレンジしたものと見て取れます。
大英博物館所蔵の「牡牛を屠るミトラ(2世紀ごろ)」
後述しますがコトバンクに「
漢神(からかみ)」とあって「上代に大陸から渡来した神に牛を殺してまつることが諸国で行なわれた」とあります。これは「聖牛の供儀」であって、
結論としては摩多羅神(またらじん)=ミトラ神=「漢神」であったと見て取れるのです。
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今日の記事は、2016年1月22日の記事の一部で、このことと関係している部分を要約し、再掲しました。
記事をご覧になると、“メンタル界の真ん中にある点線”は、形態のある世界(色界)の境界で、ここより上(メンタル界1~3亜界)は純粋な無色界だと捉えていることがわかります。なので、この部分は仏教の世界観とも一致していることになります。
しかし、この界層は純粋なコーザル界で、コーザル体が活動する世界です。コーザル体は他の身体と同様に、姿形を持っています。例えば中西征子さんが描いた私のコーザル体(原因体)のイラストをご覧ください。
神智学では、魂と魂の器であるコーザル体の説明が混乱しています。これは、先の進化段階が4段階になるとコーザル体が破壊されるとする神智学の独特の教義と関連しています。実は、ほとんどのハイアラーキー関係者は、これまでになしたカルマによって、魂(ジーヴァ)が動物システム以下に転落してしまっているのです。誤解を招く表現をすれば、彼らは“魂がない”わけです。というのは、彼らは犬や猫のような動物以下の存在には魂がないとしているのです。実際にはそうではなく、動物は、動物システムに魂(ジーヴァ)があります。植物は、植物システムに魂(ジーヴァ)があります。鉱物も同様です。
彼らが、動物以下の存在は“魂がない”と表現するのであれば、ハイアラーキーとそのイニシエートたちのほとんどは、魂がないことになります。
実は、表に描かれているアートマ=ブッディ=マナスで表記されている三角形は間違っています。ブッディ(理智)は第2亜界にあり、マナスは第4亜界にあります。また、図の赤い点線で示されたところに、アンタカラ-ナの文字が見えますが、アンタカラーナとは内的心理器官の意味で、チッタ(心素)、ブッディ(理智)、アハンカーラ(我執)、マナス(意思)の総称です。
彼らの魂(ジーヴァ)が動物システム以下に転落していても、ブッディ、マナスは、マナス界(メンタル界)に残っています。なので、彼らが純粋なコーザル界に入ることは可能です。しかし、そこで活動するコーザル体が下のシステムに転落しており、彼らにとって、コーザル体は存在しない状態になっているのです。
進化段階が4.0を超えると、コーザル界に入れるようになります。ところが、そこに自分のコーザル体は無いのです。ひょっとしたら彼らは、魂を失っていない人のコーザル体が存在することは知覚し得るのかも知れません。そこで、彼らは進化段階が4段階になると、コーザル体は破壊されるとする教義を打ち立て、自分のコーザル体が存在しないことを正当化したのだと思います。仏教徒も、同様です。
すでにお伝えしているように、仏教の開祖のゴーダマ・シッダールタも魂(ジーヴァ)が転落していた人物なので、コーザル界を無色界として、形態のない世界と表現したのだと思います。
私が、“地球上の宗教は大変レベルが低い。なぜなら魂を失った者たちが作り上げた宗教だから”と言う意味が、わかってもらえるのではないかと思います。