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歴史の襞の中から2 ― 忍びの者より ―

 大正天皇がテロに遭遇し、大正期が終焉させられた。その大正天皇は、徳川慶喜の一族に人質として軟禁された。この一連の事件、この事件の主人公は当然ながら大正天皇と徳川慶喜ですが、もう一つ重要な一族があります。西郷隆盛の同族という瀧山一族です。
 従って、この一連の事件には天皇一族、徳川一族、そして西郷隆盛の同族の瀧山一族の3つの流れがあり、この3つの流れが絡み合って一連の事件が成立したことになります。そして更には、この一連の事件と絡み合い、付随するような事件も生じています。
 今回は一連の事件の背景を把握すべく、西郷隆盛とその同族という瀧山一族に関することを中心に見ていきます。このことで、なぜ富山の村が一連の事件の舞台になったのか❓がかなり見えてくると思われます。
 西郷隆盛は島津氏に仕える下級武士と大方は認識されていますが、ウィキペディア記事を見れば、彼が忍者であったことが浮かんできます。西郷隆盛の家系が忍者であり、同族の瀧山一族も忍者であった可能性は相当高いと思えます。ここに富山の土地柄の製薬、そしてサンカも絡んできます。
 まずは大正天皇が徳川慶喜に軟禁された基本情報1を改めて掲載し、そこから話を進めていきます。
(seiryuu)
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歴史の襞の中から2 ― 忍びの者より ―




基本情報1 〜徳川慶喜に軟禁された大正天皇


  • 大正天皇がテロ襲撃によって頭に重症を負い記憶喪失に。その時期は1925年前後と思われる。
  • 襲撃され、負傷した大正天皇を匿ったのが西郷隆盛の家系の末裔。彼らは治療療養のため、同族の住む村に大正天皇を移送した(移送先の村の同族の名字は西郷と異なり瀧山姓)。
  • 西郷隆盛の同族の瀧山一族が住んでいて、大正天皇が移送されたのが富山県のある村。この村のとある寺に西郷隆盛は自分の子どもたちを預けていた。西郷一族の隠れ里であった様子。
  • ところが、この村に15代将軍徳川慶喜が既に移住していた。徳川慶喜は1913年11月22日に死去となっているがこれは偽装。この村に移住した慶喜一族は中田姓を名乗るようになり、慶喜の息子の徳川五郎右衛門は中田久松を名乗った。
  • 西郷隆盛の子どもたちが預けられた寺と目と鼻の先の近所に住んでいた徳川(中田)一族は移送されてきた大正天皇をすぐに発見。自分の屋敷に拉致・軟禁した。この間に昭和天皇が即位。
  • 大正天皇を軟禁した慶喜は昭和天皇に手紙を出し脅す。「自分の孫娘を嫁にしてくれ。さもないとお前の親の大正天皇はどうなるかわからんぞ」と。
  • 昭和10年(1935年)頃、大正天皇の病が癒えて記憶を回復。大正天皇は帰城を希望するが、部下の「殺される」との説得で断念。
  • 大正天皇はこの頃、長年の体調悪化もかなり回復。体調悪化の原因は、天皇時代12番目の若い側室が鉛を入れた飲み物を飲ませていたため、この鉛毒による可能性がある。
  • 一方、この頃に徳川慶喜は1935年(昭和10年)1月25日に死去。享年99歳。
  • 大正天皇は慶喜の息子・徳川五郎右衛門こと中田久松の弟として戸籍を作られ、この村に居住。
  • 大正天皇はこの村で妻子を得るが、その妻子もテロで死去。大正天皇家族の家屋に工作がされていて、住居が台風の際に崩壊しその下敷きとなって妻子が死去した。
  • 大正天皇は納屋の土間での藁ぶとんでの寝起き。口の聞けないのふりをさせられ、野良仕事などでの生活。
  • 大正天皇は中田久松たちと奇妙な共同生活をするが、中田久松死去後も存命。しかし中田久松死去後は、久松の息子にいびられ殴られの生活。
  • 中田久松には息子と娘の兄弟がいた。息子の名前は不明。娘の名前は中田志げ。志げさんが大正天皇の世話をしていた。
  • 大正天皇は久松の弟として、90歳の長寿の祝いを地元市長から授与されるが、その後1977年2月27日に、死体になって発見された。

滝山善一氏からの情報提供をもとに作成した系図
参考:時事ブログ 2015/12/2411/1311/15
Wikimedia Commons [Public Domain]
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歴史の襞の中から1 ― 偽装死より ―

 昔の古い歌のフレーズがついつい頭をよぎってしまいます。
 落合莞爾氏の著書を読むと偽装死だらけなのですが、実際に偽装死が多くあったのには驚かされます。偽装死には、自ら死を偽装した場合と、死を偽装させられた場合もあります。死を偽装させられ、天皇の座を追われたのが大正天皇です。
 天皇で言えば、逆に死を偽装した側が孝明天皇で、それにより明治が成立していきました。そして、その孝明天皇の偽装死からの明治維新に影で協力した有力者が徳川最後の将軍・徳川慶喜でした。
 そして、徳川慶喜もまた偽装死を行った人物でした。この偽装死をさせられた大正天皇と偽装死を行った徳川慶喜が非常に深く、そして長期間に渡り絡み合った事実、既にそのおおまかな内容は、2015年12月の滝山善一氏から情報を受けられた竹下さんの記事によって明かされています。
 この貴重な情報を提供された滝山善一氏と最近連絡を取り合わせていただくようになり、更に多くの情報を得ています。その情報は、まるで歴史の深いの中に隠され、表面からは決して見ることができないような内容です。
 情報量が膨大である上、入り組み、通常の感覚ではにわかには把握できかねる部分もあります。それで、これから情報をいくつかに分けて整理して見ていきながら、日本というこの国がどうであったのかも浮彫にしていきたいと思います。
 しばらくはユダヤ問題のポイントとは別立ての形にして、あの二人に登場してもらい、歴史の襞の中に埋もれていた事実を見ていきます。
(seiryuu)
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歴史の襞の中から1 ― 偽装死より ―




大正天皇へのテロとその後の徳川慶喜のからみ(基本情報


2015年12月の情報を含め、滝山氏から提供いただいた情報は貴重かつ膨大でもあります。そのためその情報を大きく3つに分けています。

今回からその一つ、大正天皇へのテロとそれに伴う徳川慶喜のからみを検討していきます。該当部分の滝山氏からの情報を整理したのが以下です。この整理した情報を弥次と喜多に検討してもらいます。

  • 大正天皇がテロ襲撃によって頭に重症を負い記憶喪失に。その時期は1925年前後と思われる。
  • 襲撃され、負傷した大正天皇を匿ったのが西郷隆盛の家系の末裔。彼らは治療療養のため、同族の住む村に大正天皇を移送した(移送先の村の同族の名字は西郷と異なり瀧山姓)。
  • 西郷隆盛の同族の瀧山一族が住んでいて、大正天皇が移送されたのが富山県のある村。この村のとある寺に西郷隆盛は自分の子どもたちを預けていた。西郷一族の隠れ里であった様子。
  • ところが、この村に15代将軍徳川慶喜が既に移住していた。徳川慶喜は1913年11月22日に死去となっているがこれは偽装。この村に移住した慶喜一族は中田姓を名乗るようになり、慶喜の息子の徳川五郎右衛門は中田久松を名乗った。
  • 西郷隆盛の子どもたちが預けられた寺と目と鼻の先の近所に住んでいた徳川(中田)一族は移送されてきた大正天皇をすぐに発見。自分の屋敷に拉致・軟禁した。この間に昭和天皇が即位。
  • 大正天皇を軟禁した慶喜は昭和天皇に手紙を出し脅す。「自分の孫娘を嫁にしてくれ。さもないとお前の親の大正天皇はどうなるかわからんぞ」と。
  • 昭和10年(1935年)頃、大正天皇の病が癒えて記憶を回復。大正天皇は帰城を希望するが、部下の「殺される」との説得で断念。
  • 大正天皇はこの頃、長年の体調悪化もかなり回復。体調悪化の原因は、天皇時代12番目の若い側室が鉛を入れた飲み物を飲ませていたため、この鉛毒による可能性がある。
  • 一方、この頃に徳川慶喜は1935年(昭和10年)1月25日に死去。享年99歳。
  • 大正天皇は慶喜の息子・徳川五郎右衛門こと中田久松の弟として戸籍を作られ、この村に居住。
  • 大正天皇はこの村で妻子を得るが、その妻子もテロで死去。大正天皇家族の家屋に工作がされていて、住居が台風の際に崩壊しその下敷きとなって妻子が死去した。
  • 大正天皇は納屋の土間での藁ぶとんでの寝起き。口の聞けないのふりをさせられ、野良仕事などでの生活。
  • 大正天皇は中田久松たちと奇妙な共同生活をするが、中田久松死去後も存命。しかし中田久松死去後は、久松の息子にいびられ殴られの生活。
  • 中田久松には息子と娘の兄弟がいた。息子の名前は不明。娘の名前は中田志げ。志げさんが大正天皇の世話をしていた。
  • 大正天皇は久松の弟として、90歳の長寿の祝いを地元市長から授与されるが、その後1977年2月27日に、死体になって発見された。

滝山善一氏からの情報提供をもとに作成した系図
参考:時事ブログ 2015/12/2411/1311/15
Wikimedia Commons [Public Domain]
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バイデンの大統領就任式は、録画だった!! ~「バイデンの大統領ごっこ」を容認している米軍

竹下雅敏氏からの情報です。
 バイデンの大統領就任式は、録画だったようです。冒頭の動画では二つのLIVE映像を比較していますが、なぜかテレ東のLIVEでは1分15秒で画像が飛ぶのです。編集加工したLIVEみたいです。
 ツイートを見ると、当日の天気は曇りであったはずなのに、なぜかLIVE映像では晴天なのだとか。“続きはこちらから”の最初のツイートでは、「彼らの影を見てください、これは12時の正午の影ではありません」と言っています。たしかに、新聞各社の宣誓式での写真では「背景がそれぞれ違う」みたいです。ホワイトハウスの執務室も映画のセットではないかという疑いがあります。
 当日、厳重に警備をしていたわけなので、米軍はこうした映像がフェイクか否かは当然知っているはず。フェイクだと分かっていて、これを問題にしないとなると、米軍が「バイデンの大統領ごっこ」を容認していると言うことになる。米軍がカバールの一部でないのなら、大統領ごっこの容認は作戦の範疇。そうでないなら、何か不測の事態が起きて戦略を練り直さなくてはならない状況だと言うことです。
 もう少し待ってみないとはっきりとしたことは分からないですが、重要な作戦の進行中に本来の「Q」の計画が外に漏れるはずがない。なので、ネットに上がる様々な情報は、まず間違いなく攪乱情報だと考えてよい。万一本物の計画が漏れたなら、即座に計画を延期、または変更するだろう。
 そういう訳で、私の感覚では「3月4日にアメリカ共和国第19代トランプ大統領就任」というような情報は、いつも話半分に聴いています。もちろん、こうした方向でホワイトハットが動いているのは分かります。しかし、“彼らは「Q」ではない。彼らは本当の計画は知らない”というのが私の考えです。もちろん私にも、本当の計画は分からないので、様々な情報から推測するよりありません。
 ちょっと考えてください。「Q」の本当の計画があり、極秘でその計画が進められているとしましょう。その計画を「銀河連合」の宇宙人とやらが、事前にばらしますかね。敵のカバールもその情報を見ているのですよ。
 私は、神々から未来の予定を聞き出すことは一切しません。何故なら、例えば中西征子さんを通じて、こうした情報を入手すれば、中身が敵方に傍受される可能性が高く、神々の計画の妨げになることが分かり切っているからです。
 私がこんなことを、ごちゃごちゃ書いているのは、“どうやらホワイトハットの中に、「銀河連合」「光の銀河連邦」をいまだに信じている人が多いらしい“と感じているからです。ホワイトハットは平均的な地球人の目覚めを望んでいるのですが、私はホワイトハットの目覚めを望んでいるのです。
(竹下雅敏)
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It's not live streaming! Boooom!!
配信元)
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配信元)

 

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新型コロナウイルスを用いた「グレート・リセット」計画を中心に、現在、世界が混乱の中に在る様子 ~「グレート・リセット」計画とはどのようなものか

竹下雅敏氏からの情報です。
 冒頭の動画は2倍速でご覧ください。55秒~2分53秒は不法移民への対処で南部国境における緊急事態宣言を一年延長、2分53秒~4分29秒は就任式のあるワシントンD.C.が戦争地帯の様相、4分29秒~7分44秒はメキシコの枢機卿が「グレート・リセット」に言及した動画がフェイスブックで「虚偽の情報」のレッテルを貼られ封殺、7分44秒~10分4秒は「グレート・リセット」をオーストラリアのスコット・モリソン首相が拒否、10分4秒~12分22秒はイタリア5万軒のレストランが「全国民不服従運動」で政府の封鎖措置と夜間外出禁止令に抵抗、12分22秒~13分52秒は中国の河北省で感染状況が悪化し物価が急騰、13分52秒以降は中国で火球が落下「赤い政権がもうすぐ崩壊する兆候」という話題です。
 これらの話題のすべてが関連しており、新型コロナウイルスを用いた「グレート・リセット」計画を中心に、世界が混乱の中に在る様子を見ることができます。「グレート・リセット」計画は世界が一つにまとまらなければ実現しません。アメリカの軍部、ロシアが反対する中で成功の見込みはゼロです。
 その「グレート・リセット」計画がどのようなものかは、meiさんのツイートをご覧になると良く分かります。「グレート・リセット」を推進する世界経済フォーラムの創設者兼執行委員長クラウスシュワブは、“中国をモデルに生体認証等で監視国家を設立…人間と機械の融合…全ての物が人工知能に接続される都市が必要”だという事です。日本の「ムーンショット目標」も同じです。
 平井卓也デジタル担当相が、新型コロナワクチンの接種情報とマイナンバーを紐づけして国民を管理するシステムを提言しましたが、“「グレートリセット。ワクチン接種、半ば強制の管理社会到来。5Gもその手段の一つ」これ、半年前に言ったら鼻で笑われました。これも陰謀論なんですよね??”というツイートがありました。
(竹下雅敏)

注)以下、文中の赤字・太字はシャンティ・フーラによるものです。

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💥【 01.19 役情最前線】💥イタリア数万軒のレストラン規則違反で営業 封鎖と外出禁止に反対**河北省の感染状況悪化、民衆がパニックに
配信元)
〈再生速度の設定方法〉
1. 動画を再生
2. 動画の右下にあるアイコンの"歯車マーク"の設定をクリック
3. 「再生速度」をクリックし、希望する速度を選択(2倍速の場合「2」)
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豪首相、ダボス会議「グレート・リセット」計画に反対表明 「価値観や経済制度のリセットは不要」
引用元)
オーストラリアの国会議事堂で行われた記者会見で話すスコット・モリソン首相=2020年7月9日(David Gray/Getty Images)
画像はシャンティ・フーラがツイートに差し替え

世界経済フォーラム(WEF)は昨年10月、2021年の年次総会(通称ダボス会議)のテーマを「グレート・リセット(The Great Reset)」とし、パンデミックを契機に、世界の経済・社会秩序の広範かつ抜本的な変革を提唱すると発表した。

この計画について、スコット・モリソン豪首相は「私たちにリセットは不要だ」と明言し、反対姿勢を鮮明にした。昨年11月23日、英国のシンクタンク「ポリシー・エクスチェンジ(Policy Exchange)」のオンライン討論会での演説で述べた。
(中略)
「健康と福祉のセーフティネットを備えた民主主義が、最高の行政のモデルであることに変わりはない。私たちは経済制度を再設定する必要はなく、ただ努力し続ける必要がある」と力説した。
(以下略)
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配信元)
 
 

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ユダヤ問題のポイント(日本 大正編) ― 第14話 ― 大正期の終焉

 外的世界だけでなく、個々人の内的世界を含めたこの私達の世界を通徹する根本法がヤマ・ニヤマ(禁戒・勧戒)と教えられています。そして、ヤマ・ニヤマの最も基礎部分となる法が非暴力です。今後築いていく私達の社会も、その基礎には非暴力が置かれなければいけません。これまで私達の社会は逆だったのです。暴力に支配される社会だったのです。
 人間の行為は身口意の三業の3つに分けられます。暴力という行為も身体による暴力、言葉(言論)による暴力、精神(思想統制など)による暴力という3種になります。また、個人による暴力と集団による暴力もあります。暴力とは法と秩序から逸脱した力の行使と言えるでしょう。同じ力の行使でも、それが法と秩序に基づくならばそれは暴力とは呼びません。
 1700年代後半からその展開を始めた世界革命(ヴァイシャ革命)は暴力革命でした。暴力によって生み出された社会体制は、やはり暴力をその基底に置くことになります。
 明治維新も世界革命の一環であり、間違いなく暴力革命でした。現に当時は京都を中心した暴力テロの嵐でした。暴力によって生み出された明治、そして引き継がれた大正期も暴力に振り回される社会だったと言えたでしょう。自分たちにとって意に沿わない都合の悪い人物や組織は、暴力でもって排除する行為が横行していたのです。
 この暴力テロの実行部隊の代表が、杉山茂丸が社主で頭山満が率いた玄洋社=白龍会だといって間違いないでしょう。別の言い方をすると裏社会を仕切っていたのが彼らだということです。伊藤博文の暗殺の背後には玄洋社=白龍会がいたことはこれまでに見てきた通りです。
 大陸に進出し、力による支配を計画していた八咫烏の目論見に反対していたのが伊藤博文でした。また、大隈重信が命を狙われて爆弾を投げつけられ脚を失っていますが、このテロ実行犯は玄洋社社員だったことは明らかにされています。ちなみに大隈重信は大正天皇の実父のようです。
 大正期を終焉させたもの、それはやはり暴力テロだった模様です。大正天皇ご本人が暴力テロを受けてしまったことで、大正期が終わったのが事実のようです。警備が厳しいはずの天皇がテロに遭遇、外部者がテロを成功できるでしょうか? 誰がそのテロ計画や実行に携わったかはおおよその見当はつくでしょう。
(seiryuu)
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ユダヤ問題のポイント(日本 大正編) ― 第14話 ― 大正期の終焉


大正天皇はポンコツ人間だったのか? 〜内部情報漏洩の意味


大正天皇が葬られた当時の多摩陵
Wikimedia Commons [Public Domain]

日本の大正期、それは唐突な印象で終了します。1926年12月25日に享年47歳にて大正天皇が崩御、これにて大正の終わりとされているのです。

その頃中国では張作霖が12月に北京で大元帥に就任し、中華民国の主権者であることを宣言していました。一般に大正天皇は元々病弱であった上に、脳病も発症していたとされます。そのため1921年には裕仁親王が、3月から9月の欧州外遊から帰国後には大正天皇の摂政についたとされます。

大正天皇のウィキペディア記事によれば、裕仁親王が欧州訪問に出発の頃には大正天皇は、著しく心身が不安定な状態にあった上に、しばしば記憶喪失状態に陥る状態であったとし、同年の10月には大正天皇の病状が深刻であり、事実上公務を行うことができなくなっている旨の発表がなされたとしています。

そして11月に、大正天皇に側近などが摂政設置について報告と了解を求めようとしたが、 «大正天皇は「アーアー」というだけで意思疎通できない状態であった。» としています。ところが11月25日に正式に皇太子裕仁親王が摂政に就任した際には大正天皇は抵抗の姿勢も見せ、 «また、12月には侍従に対し「己れは別に身体が悪くないだろー」と何度も話しかけたりしていた。» と記しています。

これらの記述を読むと 大正天皇は心身、そして脳も壊れたどうしようもないポンコツ人物ということになりそうです。

しかし少し違和感を覚えます。大正天皇に関して脳病のことまでも含めて、一般にも大正天皇の病状が深刻であると知られるような情報が流れていたようなのですが、なぜそのような情報が?

帝国憲法上は天皇は「神聖にして侵すべからず」の現人神のはずなのに、まだ40代になってほどない大正天皇の病状は脳病を含めて深刻だと一般人にも知られたらならば、天皇家の威信を大きく傷をつけることにならないか?

天皇を中心とした国家像にゆらぎが生じてしまうのではないか?

安定した国家運営を考えるならば、むしろ逆に病状が本当に深刻であるならば徹底してその情報は漏らさないようにするのでは?と思えるのです。

つまり、むしろ天皇家の威信を傷つけてでも宮内庁からして大正天皇を排除しようとしていたのでは?と思えるのです。

大正天皇はいわば“つなぎ天皇でした。明治編で見たように明治天皇は1910年台初めに朝鮮半島に移住し、その代理の表天皇として即位したのが大正天皇でした。そしてどう見ても大正天皇は周囲からも“無下な扱い”を受けているのですが、それは彼の出生に原因があったのでしょう。

2015/11/11の竹下さんの記事で、大正天皇は明治天皇(大室寅之祐)の側室の柳原愛子と大隈重信との子であったことが明かされています。要は大正天皇は血統としては全く北朝も南朝も関わりなく、天皇家の血筋を引いていないのです。

明治天皇・大正天皇・昭和天皇の系図
参考:時事ブログ 2015/11/1111/1311/15
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