アーカイブ: *生き方

「年をとると時間が早く過ぎる」本当の理由は、人々が惰性で生きているから!〜 “あと3年しか生きられない”と本気で思って生きると、時間は子供の時のようにゆっくりと進みはじめる!

竹下雅敏氏からの情報です。
 「人の眼球は,視線が止まった状態である固視と,視線を移動させるサッカードと呼ばれる短時間(20~80ms程度)で高速(100~500度/秒程度)の眼球運動を繰り返しながら,視覚情報を取り入れている」のですが、固視の状態においても,実は眼は細かく動いていて、このような眼球運動を「固視微動」と呼ぶそうです。
 面白いことに、“視覚像が消えないのは,この固視微動のおかげ”で、網膜上で静止した像を作り出すと、視覚像がすぐに見えなくなるのだそうです。ひょっとしたら、サマーディに熟達し変性意識状態にすぐに入れる人は、眼球を一点に固定し、「固視微動」を起こさないようにすることが出来るのかも知れません。
 学生の時に山口県で、泊まり込みのアルバイトをしたことがあるのですが、仕事が終わって喫茶店に入り、コーヒーを飲んでいた時のことです。コーヒーカップを左手に持ち、右手をカップの下に添えた姿勢で目をつぶっていました。疲れていたのでしょう。小さな光の点が見え、しばらく眺めていました。光の点をずっと見つめていて意識ははっきりとしていたのですが、気付いて我に返ると、まわりの世界が完全に消えていたことが分かりました。
 喫茶店にある時計を見て驚きました。2~3分ほど“光の点”を見ていたつもりだったのですが、50分も経っていたのです。しかも、コーヒーカップを両手に抱えたままの姿勢で、身動き一つしなかったのです。店の客は、私だけだったのですが、どうやらこの奇怪な状況を、店の2人の女性に見られていたらしい。なにか、化け物を見るような2人の視線をいまだに思い出します。
 眼球が完全に固定されると、本人の中では時間が止まります。本人は数分のつもりでも、実際は何時間も何年も経っていたということが起こるわけです。先の私の喫茶店での50分間は、現実世界から遊離し、この間の記憶は、“光の点”以外に何もありません。現実世界の体験と記憶が少なくなると、「時間が早く過ぎる」といえるのかも知れません。
 なので、“全身を耳にする”ように生きると、時間はゆっくりと進みます。一言で言うと、「年をとると時間が早く過ぎる」本当の理由は、人々が惰性で生きているからなのです。“あと3年しか生きられない”と、本気で思って生きてください。時間は子供の時のように、ゆっくりと進みはじめます。
(竹下雅敏)

注)以下、文中の赤字・太字はシャンティ・フーラによるものです。

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「年をとると時間が早く過ぎる」本当の理由が遂に判明! 米大学教授の新仮説に衝撃…鍵は“サッカード運動”!
引用元)
(前略)

米デューク大学の技術エンジニアであるエイドリアン・ベジャン氏が、加齢とともに時間が“加速”する現象について一つの興味深い仮説を提唱したという。
 ベジャン氏は、時間の加速現象は「若い頃の方が映像を素早く捉え、それを記憶する能力が高い」ために生じると考える。
「若い頃、日々が長く感じられるのは、若い脳は1日のうちにより多くのイメージを受け取っているからです」(ベジャン氏)

(中略)

通常の大人はサッカードと呼ばれる眼球運動を1秒間に3〜5回、200〜300ミリ秒の間隔で行う(固視)。この固視が長くなると映像が不鮮明になり、10秒以内に知覚は消滅してしまう。すると記憶には残らない。

(中略)

幼児では固視の間隔が短く、サッカード運動がより頻繁に起こる。そのため、より多くのイメージを捉えることが可能となる。一方で、加齢とともにサッカード運動の頻度は落ちていくため、同じ時間で捉えられるイメージの量が減ってしまうというわけだ。

(以下略)

*まるっと◎なんくるないさぁ~* あい∞ん在宅看取り介護4

 なるべく普段の生活をしようと努めておられたお父様を、付かず離れずで見守っておられた、あい∞んさん。ガン切除で退院されてから3年になろうとする頃、次第にお父様の不調が目立つようになりました。
(まのじ)

注)以下、文中の赤字・太字はシャンティ・フーラによるものです。

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あい∞ん在宅看取り介護4

Q.住み慣れた環境で、なるべく薬に頼らず、お父様が心地良い食事や日常を楽しまれるよう配慮されながら、気づくと3年になろうとしていました。この頃から次第に体調の変化があったそうですね。

患部の痛みが次第に強くなってきたようで、お尻の腫瘍を圧迫しないように立っていても、それでも痛みが続いていたようです。平成30年の暮れには、痛みのために横になっている時間が長くなり始めました。この時期から血尿や患部からの出血も見られるようになりました。ついに食事やテレビを観るのも、座るのではなく立ったままで過ごすようになりました。


2月頃の寒い時季、ふと気になって父の部屋をのぞいたことがありました。すると箪笥に寄りかかったまま父はじっと立っていました。
「大丈夫かね?」と聞いたら「ああ」と言ったので私は部屋を後に。

数時間後、また気になってドアを開けると、やはり、ぼーっと虚ろな感じで立ったままで、すごくびっくりしたことがありました。父が虚ろな感じに見えたのは、きっと一人で痛みに向き合って辛抱していたのだろうと思います。ものすごく忍耐強い人でした。

そしてこの頃から、なんとなく家の中に父の気配が感じられなくなっていました。これまでは、父が夜中にトイレに行く時など足音やドアの音で気付いていました。けれども痛みのために動きがゆっくりになり、父は壁に沿って手で支えながら足を引くように歩いていました。



Q.一緒に住むということは、意識のどこかに家族の動きを感じているものなのですね。

食欲が減り、横になって寝ている時間が長くなり、それまで楽しみの1つだったおやつも食べなくなり、さらに自分で小まめに記録していた排尿や排便の記録も書けなくなりました。
心のどこかで「父の死」を意識するようになりました。


平成31年3月下旬、私の携帯電話に一本の電話が入りました。
それは、毎週月曜日に訪問看護に来て下さっている総合病院の主任看護師さんからでした。

看護師「お父様の身体の痛みがとても強くなっていて、これから先、自力で歩いたり出来なくなる前に終末期を自宅で過ごされるか、病院に入院されるのかを早急に決められた方が良いと思います。ご家族で話されて近日中に娘さんも一緒にご家族でお越しいただけますか?」

私(娘)「…はい。痛みが強くなっているのは知っていましたが…。それは、命の期限が近づいていて、看取りを家でするのか?病院で最期を迎えるのか?という意味ですよね?
余命がどのくらいあるのか、もしも解っているなら教えていただけますか?

看護師「はっきりと『余命がこの位』ということは解らないですし…、言えないです。思っていたよりも長く生きられる場合もありますし、突然容態が急変される場合もあります。ただお父様はずっと『九十歳まで生きる』とおっしゃっていましたが…、お誕生日の九月までは半年ありますから…ちょっと厳しいのではないかなと思います…。」

私(娘)「そうなんですね。教えてくださってありがとうございました。家族で相談してから、また改めてお返事させて下さい。」

看護師「はい。もちろん大丈夫です。よろしくお願いいたします。」

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西田幾多郎氏のいう「絶対無」とは、「真の自己」=「絶対存在(神)」のこと ~さらにこれらを越えたより高度な三昧

竹下雅敏氏からの情報です。
 一見して支離滅裂な西田幾多郎の文章なのですが、実はそんなに難しい事を言っているわけではありません。「絶対無」=「真の自己」なのです。わかりにくいのは、「真の自己」が「自己」の一部で、究極の存在であること。なので、「絶対存在(神)」=「真の自己」=「絶対無」ということ。
 これでわかる人は、かなりの哲学者です。なので、もう少し説明します。インドの哲人クリシュナムルティは、“あなたは世界だ”といいました。ヨーガ行者が深い瞑想で体験する世界は、内側に向かうほど「自己」が反映したものになります。“想い”と“現れる世界”が一致して来るのです。中には、「宇宙即我」の神秘体験をする行者も居ます。
 しかし、ヨーガの三昧の体系では、例え「宇宙即我」を体験しても、それは究極のサマーディである「無種子三昧」ではありません。サマーディで体験する世界において、あなたの敬愛する神が現れたとします。その世界が、私たちの3.0次元と同様に、背景がありその中に神が見えるなら、それは「有伺定」です。
 さらに高度な「無伺定」は、背景が無く、まるで真っ暗な宇宙空間の中に、影の全くない神の姿が見えます。しかし、例え神の姿だとしても何か対象が見えている限り、それは究極のサマーディではありません。
 「無種子三昧」とは、いかなる対象もみえず、まるで真っ暗な宇宙空間の中で、身体もないのに目を見開いているような体験です。「無種子三昧」によって行者は、ついに「ジーヴァ(個我)」に合一し、「人」から「神」へと昇進します。
 残念ながら、地球上の宗教はここまでの段階しかありません。さらに、「アートマン(真我)」との合一。そして、「プルシャ(神我)」との合一、さらにこれらを越えたより高度な三昧があります。
(竹下雅敏)

注)以下、文中の赤字・太字はシャンティ・フーラによるものです。

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西田幾多郎(にしだ きたろう)の無、最終回、絶対矛盾的自己同一 (No.662 10/03/04)
引用元)
(前略)
絶対無について西田は次のように書いている。
 
「絶対無の自覚といへば、絶対に無なるものが如何にして自覚するかなどといはれるかも知らぬが、私の絶対無といふのは単に何物もないといふ意味ではない。我々の自覚といふのは自己が自己に於いて見るといふことである。しかも自己として何物かが見られるかぎり、それは真の自己ではない、自己自身が見られなくなる時、即ち無にして自己自身を限定すると考へられる時、真の自己を見るのである。即ち真に自覚するのである。かかる意味に於いて絶対に無にして自己自身を限定するのを絶対無の自覚といふのである。そこに我々は真の自己を見るのである。」(西田幾多郎全集第六巻、「私の絶対無の自覚的限定といふもの」6-117)
(中略)
道元の禅はもちろん、自己が自己を見ることで、真の自己(道元の場合は仏)を見ることを目指す。しかし、そのとき、「真の仏を見たい」という思いをも捨て去った全くの無心にならないと、それは見えてこないものであった。自分が座禅していることさえ思わない無心、それと同じことを西田は考えているのだ。
(中略)
私の絶対矛盾の自己同一といふのは、宗教家の所謂神に相当すると言ってよい。絶対矛盾の自己同一の世界に於いて私と汝が相対するのである。神はその像の如くに我々を造ったといふが、神を媒介として私が私であり汝が汝である。」 (以下略)

西田幾多郎氏の「絶対矛盾的自己同一」について 〜 我々の世界は、人々が未来を創造する“逆算の思考”抜きには成り立たない

竹下雅敏氏からの情報です。
 西田幾多郎の絶対矛盾的自己同一を、とてもわかりやすく説明した文章です。記事の中で興味深いのは、我々の世界は、過去の出来事の総計として現在があるという見方です。現代人には馴染み深いもので、古典物理学はこの考え方に基づいて世界を解明しようとしています。
 しかし、我々が日常生活で行動する場合には、むしろそうではなく、未来の計画、あるいはヴィジョンに基づいて、この計画を実現するためには何が必要かを考える逆算の思考で、現在の行動を定めるのではないでしょうか。
 要するに、創造的な生き方をしている人は、むしろこの逆算の思考を日常的に用いているはずなのです。
 人間は小さな創造主です。未来を創造的に設計しようと思えば、このような逆算の思考は、必然のものであり、古典物理学の世界観の方が異常だと感じられるのではないでしょうか。事実はといえば、古典物理学の世界観と、この逆算の思考の両方から、世界は成り立っていると考えるのが自然だと思います。
(竹下雅敏)

注)以下、文中の赤字・太字はシャンティ・フーラによるものです。

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絶対矛盾的自己同一
引用元)
(前略)
西田幾多郎の絶対矛盾的自己同一を読んで(中略)… 「[Aは非Aであって、それによってA]」ってのは何もおかしくなくて、まさにその通りのことを言ってるのだけど、ただものすごく圧縮表現されてるってだけのことなんだなぁと腑に落ちた。
(中略)
「Xでもnot Xでもなくて、その合体だ」ということを彼は言おうとしているのだけど、大部分の人にとっての素朴な世界観はXなんで混乱するのである。ちなみにこの素朴な世界観Xってのは「現在が過去によって決まる世界」「不変的原子のような[個物]が相互作用してる世界」だ。
 
この世界観Xは、物理的にはしっくりくるものだと思うけど「でも人間が意図とか目的とか持って行動するのとうまく合わないよね」って言ってる。
 
それのアンチテーゼとしてのnot Xの世界観は何かって言うと「現在が未来から決まる」「未来にこうであるという目的から逆算で現在が決まっている」という世界観。
(中略)
そういう矛盾的なものが同一である、しかも自己と同一である、というわけで「絶対矛盾的自己同一」なのだ。
(以下略)
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配信元)
 

まみむのメモ(26)〈生態系〉


 新年明けましておめでとうございます。心清らかに世界の幸せを願い、皆様と共に努力できますよう、本年もよろしくお願い致します。
 昨年いつの間にか、倉庫の屋根に大きなキイロスズメバチの巣ができていました。
 そういえば、1匹のキイロスズメバチが家の中に入ってきて、台所の窓のところで外に出られなくて困ってるようなので、少し窓を開けて出していました。また次の日も同じようにどこからか家の中に入ってきて、・・・と1週間くらい続きました。
(まみむ)
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まみむのメモ(26)〈生態系〉




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まぁ

今思うと、巣を作っても壊されてしまうかもしれないので、どんな人間が住んでいるのか調べにきていたんだ。


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むぅ

その1匹が無事に帰るかどうか調べていたのですね。決死の先兵の役の蜂だったのでしょう!!


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まぁ

そんなことがあって、しばらくして倉庫の屋根に大きな巣が出来ているのに気がついた。


キイロスズメバチの巣


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むぅ

知らずに巣の下を行き来していました。


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まぁ

秋の終わりになって、もう飛べなくなった蜂が倉庫の中の床や地面を這っていた頃、一度だけ巣の下に近寄るなと威嚇する蜂がいたけど、蜂がちょっと攻撃的だったのはその1回だけだったね。それも、「わかったわかった」といって少し退いたら威嚇をやめた。あの蜂ももうじき飛べなくなる蜂だったんだろう、低いところを飛んでいた。


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むぅ

夏場はたくさんの蜂たちが、盛んに高いところを遠くまで飛んで、巣を出たり入ったりしていましたね。


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まぁ

昨年末に植木の剪定をする業者の人と話したら、最近は椿や銀木犀など、どこも虫の被害が多くて、街場は特にひどいという話しだった。


椿   

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