翻訳チームからの情報です。
注)以下、文中の赤字・太字はシャンティ・フーラによるものです。
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金塊の歴史年表
転載元より抜粋翻訳)
Kグループ 15/12/22付け
5.00 M1に選ばれたスカルノとケネディの繋がり
5.01 1945年にアジア諸国と西側がスカルノ大統領を“選出"する
1945年8月17日、スカルノ大統領は口座預け人たちの意を受けて、唯一本物の「選ばれし」管財人(M1)として知られることとなり、国連決議MISA第81704号「大規模自由作戦」の下、国際担保口座群を再開発目的のために監視し運用する任に就いた。
スカルノがM1に選ばれたのは、世界中の大半の金塊がインドネシアとフィリピンに運び込まれたからだ。
カナダ・オーストラリア・イギリス・インドとその他の英国植民地は、自分たちの黄金をいわゆる“難攻不落のシンガポール"へと送っていた。日本軍は、「1921年国家間条約」で昭和天皇が当初合意した内容に沿って、インドネシア(当時はオランダの植民地)とフィリピン(当時はアメリカの植民地)にある、自分たちが主に建設した掩蔽壕へと、この金塊の内の大半を運び込んだ。
これがマラヤで連合軍が、日本軍に対抗するために十分な空からの支援と供給物資に恵まれなかった理由だ。シンガポールは陥落されなければならなかった。世界の殆どの富が秘密のシステムの中へと“消える"ことができるように、そしてそれによって金本位制が冗長になり不換通貨が現実のものとなるために。

金塊はスイス商業銀行同盟、スイス・ユニオン銀行の口座で書面化され、スイス法務長官の保護下に置かれ、スイス国立銀行を経由して国際決済銀行(BIS)に登録され、連邦準備制度の「機関的親登録口座群」を形成するために積み上げられた。【※3.02章でも書きましたが、意味がはっきりしません。連邦準備制度という組織の資金源となるべく登録された大口の口座でしょうか?】
5.02 1955年スカルノと非同盟諸国がブレトン・ウッズに反旗を翻す
それは、非同盟諸国(NAC)と呼ばれたアジアやアフリカ諸国の発展のために不可欠の、歴史的な会合だった。主要な発起人はスカルノ大統領とインドネシアの元首相ルスラン・アブドルガニである【※原文ではこうなってますが、アブドルガニ氏は首相にはなったことがありません。55年のこのアジア・アフリカ会議(通称バンドン会議)の共同事務局議長を務めたルスラン・アブドルガニ氏は当時は外務次官で翌年に外務大臣に就任した方、バンドン会議開催を提唱したアリ・サストロアミジョヨ氏が当時のインドネシア首相なので、この二名のどちらか或いは両者と言いたかったのではないかと思われます】。
アジアから29箇国、アフリカから6箇国の代表が参加した会議では、冷戦下において西側民主主義国と共産党国の間にある「中間の道」を歩むことを誓った。

その当時アフリカやアジアや中南米に影響力の強かったヨーロッパ諸国だけでなく、アメリカ合衆国とソビエト連邦をも含めた列強による植民地支配と新植民地支配に対して、きっぱりと反対の意を表明したのだ。
インドネシア大統領スカルノはこの運動を推進するにあたって、大いに貢献した。最終目標は国際経済秩序の復興を促進することだった。スカルノの1955年バンドン会議は、史上初めての開発途上国同士の会合である。新しく独立を果たした国々のため、数々の好ましい発展を誕生させた記念すべき集まりとなった。
5.03 1961年アジア・アフリカ非同盟運動(NAM)の創設
1961年の非同盟運動(NAM)は1955年のバンドン会議から生じたものだ。運動に参加した115箇国は、やがて「第三世界」として知られるようになる。第一回非同盟諸国首脳会議はユーゴスラビアのベルグラードで1961年9月に開催され、その殆どの着想をインドネシア初代大統領スカルノ氏、インド初代首相ジャワハルラール・ネルー氏、エジプトの副大統領ガマール・アブドゥル=ナーセル氏、ユーゴスラビア大統領ヨシップ・ブロズ・チトー氏、ガーナ初代大統領クワメ・エンクルマ氏に負っている。

彼らの活動は、非同盟諸国を主導する「発起五人組」として名をはせた。この五人は全員、冷戦下で西と東のブロックに挟まれた開発途上諸国が「中間の道」を歩むよう主張したことで有名である。
目標:非同盟運動は「参加国が大国の抗争の狭間で操り人形にさせられるという結末を生み出さないよう、独立した道を国際政治の場で作り出すことを目指すのだ。干渉を受けずに物事を決める権利、帝国主義や新植民地主義への抵抗、大国全てに対して中道の精神で接すること、この3つを基本姿勢として打ち立てる。追加目標としては、国際経済秩序の復興を促進することを目指す。」

1961年、非同盟運動は国連加盟国の3分の2を占め、世界の人口の55%を形成していた。
5.04 1963年ケネディがスカルノとグリーンヒルトン協定を結ぶ
1963年、ジョン・F・ケネディ大統領は、連邦準備制度の"保有する"紙幣印刷権を覆してアメリカ財務省が自国の紙幣を印刷するための資金を提供してもらうべく、スカルノ大統領との協定締結へと乗り出す。

協定はこの新紙幣を裏打ちするために、59,000トンほどの金塊を提供する筈だった。問題は、アメリカの国内通貨が金によって裏付けされるとなると、通貨を安定させるための様々な国際的な取り決め【=固定相場制のことか】に違反することだった。

写真は裏切らないものだ。この会合に臨んだジョン・ケネディの感情は昂っており、それはスカルノも同様だった。しかし二人とも、ジョンソン副大統領が秘密結社に所属しており、ケネディが非難していた徒党の一味だったということに気が付いていない。
ニールの国防総省筋の情報源は、ジョンソンはJFK暗殺に関与していたと伝えてきたそうだ。ケネディが連邦準備制度を終わらせて新たなアメリカ財務省発行紙幣と置き換えるだけでなく、CIAを解体することをも計画したせいで、シナリオが練り上げられたのだという。また、テキサコとスタンダード・オイルの両社も関与しており、原因は彼らの西パプアにおける収入の喪失だった。
ケネディはイルミナティに代表される秘密結社や連邦準備制度の取り壊しを望んでいた。
ジャカルタでケネディとスカルノから得た全情報を、リンドン・ジョンソンがワシントンD.C.に鎮座するカバールのご主人様方に逐一報告した。お蔭でカバールはケネディを暗殺し、動きを封じ込めることが出来たのだった。
【一方】CIAはスカルノの惜しみない努力に報いて、クーデターで彼を大統領の座から引き摺り下ろし、その後スカルノを死ぬまで自宅軟禁状態に置いたスハルト将軍と挿げ替えてやったのだった。
ケネディがアメリカへ帰国すると、彼はリンドン・ジョンソンの故郷テキサス州のダラスで暗殺された。おまけに、JFKの死が公式に発表されるよりも前の段階で、ジョンソンはアメリカ大統領就任の宣誓を行ったと報告されている。
これでもリー・ハーヴェイ・オズワルドがJFKを殺したとお思いだろうか?
そんなわけがない。リンドン・ジョンソンとジョージ・H・W・ブッシュとカバール一味がJFK暗殺を行ったのだ。
この協定の調印から8日後にケネディ大統領は暗殺された。
ケネディが発令した大統領令11110号をジョンソン大統領は保留にし、金塊は連邦準備制度へと移させた。インドネシアではスカルノ大統領がじわじわと自宅軟禁に追い込まれていた。グリーンヒルトン協定は1968年まで施行されなかった。スカルノが失脚し、世界貿易【のブーム到来】が国際通貨確立を避けられないと判断した時だった。
翻訳者:Yutika
※【 】内の文字は、訳者が付け加えたものです。
読み易さを重視しましたので、正確な情報は元記事をお確かめください。
昨年末にキーナン氏の就任が決定した「M1」の前任者、インドネシアの故スカルノ大統領が登場します。「M1」とは、東洋の金塊を管理し運用することを、本来の所有者の皆さん(≒ドラゴン・ファミリー)から任された人間のことです。
また、現代史では大して脚光を浴びることがない非同盟運動(NAM)がキーナン氏のサイトでは度々重要視されています。スカルノ大統領って凄い方だったのですね。イルミナティが動かしてる国連なんぞより随分まともな国際会合なのに、余り報道されません。
インドネシアやフィリピンの動向が金塊史で延々と語られるのもキーポイントです。日本軍がなぜ強奪した金塊を日本に直接運び込まなかったのか。やむを得ない事情があったと思いきや、それも全て計算の内とはorz いやはや悪知恵フル回転ですな。
ケネディ大統領の暗殺に関しては、エイリアンの公表にも踏み切るとか諸事情あったようですが、敵側の使いっ走り小僧(の一人)が誰かをこの記事で明かしていたのが興味深かったです。スカルノとケネディとジョンソンの3人並んだ写真、波動的に違いとか感じます?東洋医学講座を真面目に受講された皆さま、コアな楽しみ方を是非どうぞ。(私は不真面目でしたので…ごにょごにょ…脱兎=3 )