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ユダヤ問題のポイント(近・現代編) ― 外伝43 ― ウィーン会議
ウィーン会議の表の主役 〜「神聖同盟」を呼びかけたアレクサンドル1世
1815年の「ワーテルローの戦い」の前年1814年9月から、オーストリアの首都ウィーンで欧州各国の首脳代表者が一堂に会し、「ウィーン会議」が開催されます。本編の第6話で既に少し取り上げていますが、それはヨーロッパ全土を席巻してきたナポレオン戦争が終結し、その戦後処理、ヨーロッパ新秩序を取り決める国際会議でした。
その出席者と表向きの会議の目的と結果は「世界史の窓」で次のように記すとおりです。
「ロシア皇帝アレクサンドル1世、プロイセン王フリードリヒ=ヴィルヘルム3世、イギリス代表カスルレー、ウェリントン、オーストリア代表メッテルニヒ、プロイセン代表ハルデンベルク、フランスのタレーランらが出席。議長はメッテルニヒが務めた。
フランス革命とナポレオン戦争後のヨーロッパを、それ以前の状態に戻すこと(フランスのタレーランが唱えた正統主義)【を】理念として会議が始まったが、実際には各国とも領土の拡張と有利な条件の獲得を狙って腹を探り合い、なかなか進捗せず、代表たちは舞踏会などでいたずらに時間を浪費したため『会議は踊る、されど進まず』と揶揄された。
しかし、ナポレオンのエルバ島脱出の報を受けて、列国は合意の形成を急ぐこととなり、1815年にウィーン議定書の調印にこぎつけた。」
フランス革命とナポレオン戦争後のヨーロッパを、それ以前の状態に戻すこと(フランスのタレーランが唱えた正統主義)【を】理念として会議が始まったが、実際には各国とも領土の拡張と有利な条件の獲得を狙って腹を探り合い、なかなか進捗せず、代表たちは舞踏会などでいたずらに時間を浪費したため『会議は踊る、されど進まず』と揶揄された。
しかし、ナポレオンのエルバ島脱出の報を受けて、列国は合意の形成を急ぐこととなり、1815年にウィーン議定書の調印にこぎつけた。」
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編集者註:ウィーン会議の「会議は踊る、されど進まず」の風刺画。
左から、フランスのタレーラン、イギリスのカスルレー、オーストリア皇帝フランツ1世、ロシア皇帝アレクサンドル1世、プロイセン王フリードリヒ・ヴィルヘルム3世、ザクセン王アウグスト1世、ジェノヴァ共和国を擬人化した婦人。
左から、フランスのタレーラン、イギリスのカスルレー、オーストリア皇帝フランツ1世、ロシア皇帝アレクサンドル1世、プロイセン王フリードリヒ・ヴィルヘルム3世、ザクセン王アウグスト1世、ジェノヴァ共和国を擬人化した婦人。
表向きの会議での主役となったのは、ナポレオンをロシアから敗退させたアレクサンドル1世です。「ウィキペディア」の記事ではナポレオンを敗退させた経験がアレクサンドル1世の内面を変化させたようで次のようにあります。
「モスクワ炎上後の様々な出来事は、アレクサンドル1世の精神を昂揚させ、後にドイツ人牧師アイレルトに対して、「モスクワの大火は私の魂を照らし出した。その時、私は初めて神を知ることができ、別人となった」と述べ、「我が魂は今や光明を見出し、神の啓示により自分はヨーロッパの調停者という使命を帯びることとなった」と断言するようになった。」
そして同記事では続いて 「アレクサンドル1世は、ヨーロッパに新たな国際秩序を再建すべく「ヨーロッパの救済者」としての自負を持ってウィーン会議に臨んだ」としています。
ロシア皇帝アレクサンドル1世
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戦後秩序の指導者を自認していたアレクサンドル1世は、欧州の戦乱・混乱の諸悪の元凶は、国家の無神論反宗教性にあると見ていた様子です。そこで自身が敬虔なロシア正教徒の彼は、キリスト教国による「神聖同盟」を呼びかけました。これに対する各国の反応は概ね次の通りだったようです。
「アレクサンドル1世は真剣ではあったが、それ故に列強首脳は神聖同盟を言葉通り受け取ることはなく、ロシアの一層の覇権確立のための手段と受け取っていた。」(「ウイキペディア」)
ただし欧州最強国となったロシア皇帝の彼の影響力が強かったのも事実でしょう。
“永世中立国スイス”の成立 〜地上世界支配の拠点
一方、ウィーン会議の裏の、そして真の主役はネイサン・ロスチャイルドでした。まず当時の状況です。ナポレオン戦争で欧州各国は膨大な債務を負っており、その債権者の代表がネイサンであり、彼の意向は各国とも重視せざるを得ない状況にあったのです。
更にはウィーン会議の議長メッテルニヒは、『ロスチャイルドの密謀』67頁に「ヴァイスハウプト、ナポレオン、ディズレーリ、ビスマルクがロスチャイルド一族の操り人形「側仕え」だったように、彼もネイサン・ロスチャイルドの「作りもの」だった」としています。
オーストリア外相メッテルニヒ
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具体的には68頁に「賄賂を受け取っているのはメッテルニヒの秘書官フリードリッヒ・フォン・ゲンツで、以後、彼はオーストリアの有力貴族、政治指導者とロスチャイルド家を繋ぐ貴重なパイプ役を果たし続けた」としています。ウィーン会議そのものがネイサンの思惑が強く反映される体制にあったのです。
そもそもウィーン会議の発端となったフランス革命とナポレオン戦争は、もとよりロスチャイルド一族が主導してきたのです。これらは王政とキリスト教会破壊の世界革命、通貨と情報の支配によって地上世界支配を目論むヴァイシャ革命の一端です。ナポレオン戦争を無事に集結させたことで、ネイサンはフランス革命とナポレオン戦争の成果、その利益確定の場としてウィーン会議を慎重に準備してきたと見て取れます。
まさに『カナンの呪い』では「ウィーン会議はロスチャイルド家の利益確定の場」との見出しで216頁に次のように記しています。ロスチャイルドから賄賂を受け取ったであろう工作人本人フォン・ゲンツの指摘です。
「メッテルニヒの秘書官フォン・ゲンツは、ウィーン会議など実際には意味がなく、1815年6月、決議書への署名を4大国に求めただけだったと指摘している。
いわくー「その会議の真の目的は敗者から巻き上げた戦利品を征服者のあいだで分配することだった」と。」
いわくー「その会議の真の目的は敗者から巻き上げた戦利品を征服者のあいだで分配することだった」と。」
そして続けて217頁に、その戦利品は
①英国の世界制海権
②スイスの永世中立国化の承認
③ドイツのユダヤ人の権利確保の承認
以上の三つとしています。
特に②については1815年3月に決議案が可決され、そのことでスイスを世界革命の拠点としての機能を果たし続けられるようになったこと。かつその不当に得たその成果(戦利品)を安全に保管される拠点を確保できることになったとしています。
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ネイサンと対立したアレクサンドル1世 〜ロマノフ朝はNWO計画の生贄へと
地上世界支配を目的とするヴァイシャ革命(世界革命)を推進するロスチャイルド一族、特にネイサンには、一気呵成にこのウィーン会議を通じて「世界統一政府樹立」に結びつける思惑があったのでしょう。
それには欧州各国が負っている債務を利用し、世界の文明国各国にロスチャイルドの息のかかった民間中央銀行を設立することです。世界の通貨発行権を掌握し、やがて「世界統一通貨」を発行するようになれば世界支配は成立します。
しかしそのネイサンの思惑は一蹴されることになります。ネイサンは各国政府に、そしてロシアにも民間中央銀行設立を提案します。しかしアレクサンドル1世はその提案を一蹴したのです。実際にロシアには後年、民間ではなく国立の中央銀行が設立されます。
王政とキリスト教会破壊を進めてきたロスチャイルド一族には、帝政ロシアと「キリスト教神聖同盟」を提案するアレクサンドル1世のロマノフ朝は「不倶戴天の敵」と映ったでしょう。『ユダヤ・ロスチャイルド世界冷酷支配年表』61頁に次のようにあります。
「しかしながら世界政府樹立を目標とする最終的な計画は実らなかった。ロスチャイルドの中央銀行に屈しなかった数少ない強大な権力者の一人、ロシア皇帝アレクサンドル1世が世界政府の承認を拒んだのである。ネイサン・マイヤー・ロスチャイルドはこれに立腹しいつの日か、自分か自分の子孫が皇帝アレクサンドル1世の一族とその子孫全員を滅ぼしてやると誓った。」
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ここから地上世界支配NWO計画の生贄としてロマノフ王朝がその標的となったのです。NWO、別の言い方では「真の広義のシオニズム運動」の主要運動の一つとして、ロマノフ朝を根絶やしにする恐怖のロシア転覆計画が発動したのです。
1881年アレクサンドル2世が暗殺。これにてポグロムが爆発的に発生し、その結果、ロシア領を中心に在住のアシュケナージ(ハザール)ユダヤ人が大量(特に米国ニューヨークへ)移住、またオスマン領パレスチナへも移住開始、つまり狭義のシオニズム運動の開始です。
そしてロシア国内では革命共産運動の激化となります。そしてとうとう1917年にはロシア(フランキスト)革命、翌年にはツアー(皇帝)、ニコライ2世一家惨殺と繋がったのです。
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Author:Altes [CC BY-SA]
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このトーマス・ジェファーソン第3代米国大統領が指摘する、銀行家がインフレとデフレを意図的に作り出して市民の財産を奪う方法、これを業界では「羊毛刈り」と言います。日本でこの「羊毛刈り」が大々的に実行されたのが、言うまでもなくバブルの創出とその崩壊でした。
この「羊毛刈り」の「鋏」の役割を果たしたのが「BIS規制」です。バブル期、銀行はあらゆる企業にあらん限りの融資を続けていました。ところがこのBIS規制は、その従来の貸出の基準を破壊し、銀行の自己資本率なるものを持ち出してきて厳しい融資規制をはめ込んだのです。
これで市中銀行は貸し渋り、貸し剥がしを融資してきた企業にせざるを得なくなったのです。融資の途絶えた企業は怒涛のごとく次々に倒産、銀行の融資債権も同じように必然的に不良債権と化したのです。
全ては意図と計算のもと仕組まれたのです。倒産や外国資本に乗っ取られた企業群は当然として、日本の市中銀行もこの仕組まれた渦に巻き込まれたのです。
仕組んだのは当然ながら中央銀行ですが、その大本をたどれば「BIS規制」の名が示すようにBIS、つまり国際決済銀行です。中央銀行の中央銀行と称される存在です。
この世界の金融を支配するBISは1930年に設立され、本部はスイスのバーゼルにあります。世界の金融をコントロールし、支配する拠点は“永世中立国スイス”にあると言えるでしょう。第1次世界大戦後に発足された国際連盟もスイスのジュネーブに置かれていたのです。
地上世界支配の拠点としての“永世中立国スイス”の成立、これは1814年9月から翌年6月まで続いた「ウィーン会議」によってでした。
この会議を裏から主導したのはやはりあのネイサン・マイヤー・ロスチャイルドでした。