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ユダヤ問題のポイント(近・現代編) ― 外伝44 ― 「銀行は私を殺したいだろうが、私が銀行を殺す」
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— The New York Times (@nytimes) 2017年3月15日
アンドリュー・ジャクソンの登場 〜銀行家へ宣戦布告
1815年12月、第4代大統領マディソンは中央銀行創設を支持し、1816年に「第二合衆国銀行」が設立されました。無論、第3代大統領トーマス・ジェファーソンは猛烈に反対していました。しかし、米国の債務は米英戦争で膨大に膨らんでいたのです。
『ロスチャイルド、通貨強奪の歴史とそのシナリオ』63頁では「結局、アメリカ政府の債務は4500万ドルから1兆2700万ドルまで膨らみ、アメリカ政府は1815年に降伏した」としています。
この結果は、米英戦争をしかけたネイサン・ロスチャイルドの思惑通りでした。米国は英国に戦闘の意味では敗北したわけではありませんが、通貨戦争の意味ではロスチャイルド一族に降伏したわけです。
第二合衆国銀行の免許期間は第一合衆国銀行と同様、やはり20年間です。しかしここでも、ロスチャイルドの金融支配に抵抗し反撃する人物がアメリカには登場してきます。その人物は米英戦争で英雄となっていたアンドリュー・ジャクソンです。
元来アメリカ共和国を形成してきたのはアメリカン・フリーメーソンで、それはポジティブなテンプル騎士団の流れから来ていること、そしてポジティブなテンプル騎士団の拠点がスコットランドにあったことをこれまで見てきました。
アンドリュー・ジャクソンが、テンプル騎士団に関係していたかどうかは文献的には言及がないので不明です。ただし、ウィキペディアの記事を見るとアンドリュー・ジャクソンはスコットランド系移民の家系にあって、13歳にして米革命(独立)戦争(米側はポジティブなテンプル騎士団が中核にあった)に参加していたことが記されています。
彼について「世界史の窓」では次のように記されています。
「アメリカ合衆国の第7代の大統領(在任1829~37年)。サウスカロライナ出身で14歳で孤児となり、苦学して弁護士となった。さらに上院議員・下院議員として活動し、テネシー州最高裁判事もつとめた。
米英戦争(1812年戦争)の司令官として活躍して人気を博し、西部農民層を基盤として、1828年の大統領選で当選した。最初の西部の農民出身の大統領としてジャクソニアン=デモクラシーといわれる民主主義の原則を定着させたが、反面インディアンに対する苛酷な排除を行い、アメリカ産業の興隆を実現させた。その支持者層が結成したのが民主党であった。良くも悪くも現代のアメリカの原型を創った一人と言える。」
米英戦争(1812年戦争)の司令官として活躍して人気を博し、西部農民層を基盤として、1828年の大統領選で当選した。最初の西部の農民出身の大統領としてジャクソニアン=デモクラシーといわれる民主主義の原則を定着させたが、反面インディアンに対する苛酷な排除を行い、アメリカ産業の興隆を実現させた。その支持者層が結成したのが民主党であった。良くも悪くも現代のアメリカの原型を創った一人と言える。」
ポイントになる1828年の大統領選は彼にとり二度目の挑戦でしたが、その様子を『ロスチャイルド、通貨強奪の歴史とそのシナリオ』64頁で次のように記しています。
「1828年、アンドリュー・ジャクソンが大統領に立候補し、銀行家を相手に講演会で次のように強く表明した。「君らはマムシのような輩だ。君らを根っこから引き抜くつもりでいる。キリストの名の下に、必ず君らを徹底的に取り除く。」」
政府預金の引き上げ 〜国債を償還し3500万ドルの利益
大統領選に勝利したアンドリュー・ジャクソンは第二合衆国銀行の閉鎖に向けて大胆な行動に打って出ました。公務員の大量解雇です。ジャクソンは政府の中から”内部破壊”の可能性が高い職員、つまり銀行関係者を一掃したのです。その数日に、連邦政府職員の1万1千人のうち2000名の解雇となったのです。
危機感を感じた第二合衆国銀行側は、1832年に早くも認可更新を認めるように米議会に申請しました。許可期限は1836年でしたから1832年は4年早い申請です。米議会は、既にこの時点でロスチャイルドの手に落ちていたと見なすべきでしょう、この申請に応じ、法案をジャクソン大統領に送り、署名を求めます。
これに対して、ジャクソン大統領は敢然と拒否権を発動しました。拒否通告書では、この銀行制度の欺瞞性と邪悪さを喝破する内容となっています。米議会はジャクソン大統領の法案拒否を覆すことはできませんでした。同年1832年、ジャクソン大統領は再び大統領選に立候補します。選挙スローガンは「銀行廃止」でした。
一方、銀行側はジャクソン再任を阻止すべく、対立候補であるヘンリー・クレイに選挙対策として300万ドル以上注ぎ込みます。大統領選挙は大衆の支持を得たジャクソンが圧倒的な勝利を収めます。
勝利したジャクソンは「腐敗の化物は表面が焦げただけで、まだ死んではいない!」(『ユダヤ・ロスチャイルド 世界冷酷支配年表』66頁)と述べ、中央銀行に対してさらなる行動に出ます。
複数の情報によると、大統領に再任したジャクソンは1833年に政府の預金を第二合衆国銀行から、それぞれ独立した銀行家たちが運営する銀行に預け替えるよう財務長官に指示します。中央銀行廃止に向けた決定的な措置です。
ジャクソン大統領が政府預金を第二合衆国銀行から引き上げた、中央銀行とのこの抗争の結果については『ロスチャイルド、通貨強奪の歴史とそのシナリオ』65頁に次に記す通りです。
「1835年1月8日、ジャクソン大統領は最後の国債を償還した。アメリカ政府が国債の残高をゼロにしたのは、このときが最初で最後のことであった。そして政府は3500万ドルの利益を得たのである。」
この3500万ドルの利益については、コールマン博士は「ジャクソンは建国の父たちの理念に基づき、3500万ドルの黒字を州に分配させた。」(『ビヨンド・コンスピラシー』184頁)としています。
失敗に終わった暗殺 〜米国から中央銀行が閉め出される
第二合衆国銀行廃止の危機に、ロスチャイルド家は非常手段というかその後の常套手段に訴えます。暗殺です。しかし奇跡的に暗殺は失敗に終わりました。『ユダヤ・ロスチャイルド 世界冷酷支配年表』67頁に次のようにあります。
「1835年✡ 1月30日、暗殺者がジャクソン大統領銃撃を試みたが、奇跡的に、暗殺者のピストルは2丁とも不発に終わった。ジャクソン大統領は後に、この暗殺未遂の黒幕はロスチャイルド家だと主張している。そう言ったのは、大統領だけではない。暗殺者リチャード・ローレンスは心神喪失を理由に無罪となったが、事実、このローレンスでさえも「自分を雇ったのはヨーロッパの権力者で、もし逮捕されても守ってくれるという約束だった」と、後に吹聴している。」
アンドリュー・ジャクソンはロスチャイルドの姿を明確に捉えていたわけです。
1836年ジャクソン大統領によって第二合衆国銀行が閉鎖されました。米国からロスチャイルド一族の中央銀行を閉め出したのです。一方、閉め出されたロスチャイルドですが、蛇のような執念深い彼らが、一旦は手中にした米国に対する攻撃の手を緩めるはずはありません。報復措置として早速1837年にはイギリスを始め、欧州の銀行からの米国への貨幣供給に制限をかけさせたのです。
米国への通貨の供給量の「人為的」激減は「1837年恐慌」と5年にも渡る不況を発生させました。ロスチャイルドの金融攻撃は「恐慌」だけでも「1857年恐慌」「1907年恐慌」を発生させています。
また、いつものごとくに手飼の代理人を送り込み、中央銀行を設立させるようジャクソン後の大統領に熱心に働きかけました。ロスチャイルドは様々な手を打ったのです。
しかし中央銀行の設立に関しては、金鉱の発見という幸運もあったのですが、アメリカは屈しなかったのです。米国での三番目の中央銀行設立は1913年のFRB設立まで成立しなかったのです。
金融支配によるアメリカのコントロールが困難であることを悟ったロスチャイルドたち、国際金融団や英国スパイ団は、強大になったアメリカの分断を再び謀ります。内戦による分断です。これが南北戦争へと繋がるのです。
アンドリュー・ジャクソンは、1845年に波乱にとんだその人生を閉じます。彼のその墓など遺物を見るとフリーメーソンだったのは明らかで、やはりポジティブなテンプル騎士団関係者だった感は強くします。
彼は大統領就任早々に、当時米国で設立されていた2番めの中央銀行、第二合衆国銀行廃止に向け、まず内部からの危険分子の排除に取り組みます。なんと政府職員の約2割近くの2000人を解雇したのです。アメリカにとてつもない嵐が吹き荒れたことは想像に固くありません。
その男の肖像画は現在トランプ大統領の執務室に飾られています。2017年2月20日日本経済新聞電子版に次の記事があります。
アンドリュー・ジャクソンの戦いによって、1836年に第二合衆国銀行は廃止され、その後長く(1913年のFRB設立まで)米国では中央銀行の設立は許されなかったのです。
ジャクソンは大衆の支持を得ていました。それが故にジャクソンの戦いを通じてアメリカ大衆も中央銀行の危険さを認識できていたと思えます。
現在、トランプ大統領も戦闘中です。戦いの帰趨は大衆の目覚めにかかっているでしょう。