ユダヤ問題のポイント(日本編) ― 基本情報2 ― 天皇の血統

 瀬織津姫様を大君とする神団が降臨されて「天界の改革」がスタートしました。2007年元旦がその始まりでした。以来13年になろうとしています。
 幸い私はその最初からほぼリアルタイムに情報提供を受け、実際に立ち会いもして体験もしています。そしてこの地球を含む大宇宙全体(天界)が、神神によって秩序だったシステム構造で運営されていることも教えていただき、私にとっては神神や天界の存在は全くリアルな現実となっています。
 しかし、一般には神や天界などは大変縁遠いものでしょう。この物質世界では確認のとれない性質のものでもあります。それで私自身は、必要最低限以外は霊的世界にはできるだけ触れないように記述はしてきたのです。しかし日本を見ていくのには天皇の存在を絶対に欠かせません。そして天皇を見るには天照大神を始めとする「ホツマの神」に触れないわけにはいけないのです。
 先週11月5日の記事で竹下さんが改めて明らかにされていますが、天照大神は日本人として生活されており、その血統が天皇に繋がっているのです。
 ところがこの日本の天皇をメシア=キリストに置き換えようとするとする動きは事実としてあったのです。幾度も指摘してきたように、メシア=キリストとは一口で言えばユダヤ王です。現在の世界情勢から見ればユダヤ王=世界統一王ということになりそうです。当然ホツマの神に繋がる日本の天皇とユダヤ王は全く異質です。
 「日ユ同祖論」で日本人のルーツが古代イスラエルならばユダヤ王も成立するでしょう。しかし事実は違います。元々の日本人のルーツはホツマの神に繋がるのです。それを隠蔽して古代イスラエルに日本人のルーツがあるとする「日ユ同祖論」は、日本でユダヤ王(世界王)を誕生させようとする運動の一環と見て取れます。
 ユダヤ式の統治システムが一概に悪だとなど言えません。それが日本で成立していた時期もありました。しかし、事実を隠蔽や改竄した上でユダヤ式の統治システムを勝手に構築するのはやはり到底許されないでしょう。
(seiryuu)
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ユダヤ問題のポイント(日本編) ― 基本情報2 ― 天皇の血統


天皇の任務 〜地球の霊的統治の中心は日本


2007年に始まった「天界の改革」にて、太古から日本が地球の霊的統治の中心にあり「日高見の地」があったこと、そして現在の日本にある中央と東西南北の5つの「日高見の地」がどこになったのかを竹下さんが明かされました。

5つの「日高見の地」中央が那須の茶臼岳、北が北海道の大雪山、東が宮城の栗駒山、南が奈良の弥山、西が宮崎の高平山です。現在の「日高見の地」とは「スバルからの光」が降りている場所を指すとのことです。

私達の太陽系はシリウス星系の一端にあり、シリウスシステムといいます。もしくは「ホツマの神」が統治していることからホツマシステムともよびます。

私たちの12のシステムの宇宙におけるシリウスシステムとスバルシステム

2007年まで天界のホツマの神神の中にあって天帝の地位にあったのが天照大神で男性神です。天照大神は天界の天帝でしたが、太古に地球上で人間として生活もしていました。「ホツマツタヱ」を読めばこの日本で天照大神たちが実際に生活していて、天照大神と瀬織津姫の出会いなども生き生き描写されています。そして、天照大神の血筋が男系を通して神武天皇以下の天皇に繋がるのが分かります。

天照大神から神武天皇までの系図

この私達のシリウスシステムの上位システムがスバル星団のスバルシステムだとの事です。スバルからの光とは異次元からの光ということになります。

「日高見の地」の中心で最も位階が高いのが中央の「日高見」那須であることが明かされています。ただし2007年までは南の「日高見」になる奈良、京都のあたりが長く地球の霊的統治の中心地だったのです。それで奈良・京都に天皇の都が築かれ、古い日本地図には南北が逆転した地図があったのでした。奈良・京都のあたりが位階も最も高かったのです。

先祖霊である天照大神を中心としたホツマの神を祭祀する大神官が天皇なのです。大神官の役割は天皇以外に務められないのです。天照大神から神武天皇、そして代々の天皇は男系を通してその血統がずっと繋がっているからその役割を担えるのです。そしてそのホツマの神神がこのシリウスシステムを霊的統治しているのです。本来としてホツマの神を祀る社が神社なのです。

天皇の役割はどのような宗教的権威でも、例えばローマ法王などでも担えません。ローマ法王はホツマの神と血統として全く繋がらないのです。それにローマ法王が祀り繋がる最高の神格はサナット・クマラまでで限界です。

サナット・クマラはホツマの神ではなく神霊になります。もとはホツマの神でしたが、転落し神霊に格下げされているのです。従ってサナット・クマラは本来は神社で祀ることはできず、寺院でしか祀られないのです。ちなみにサナット・クマラを祀る寺院が京都の鞍馬寺なのです。

鞍馬寺奥の院魔王殿

天武天皇を巡る諸説 〜無縁仏になっている天武系


は泉涌寺では祀られていない天武天皇と天武系七人八代
イスラエル・ユダヤの血筋
Author:nnh [CC BY-SA]

御寺と呼ばれ皇室と深い関係にあり、天皇家の菩提寺とも呼ばれる泉涌寺には、歴代天皇の位牌を置き祭祀を行っています。しかしこれは小林惠子氏が最初に指摘されたとのことですが、天武を始め、その血を引く称德天皇まで七人八代(孝謙天皇が重祚して称德天皇)が祀られていないようなのです。要は天智系からは天武系は天皇とは認められていないということでしょう。

天武天皇は兄とされる天智天皇の死後、天智の皇子大友皇子を自殺に追い込む壬申の乱にて皇位を奪取しています。天智と天武は皇極天皇と舒明天皇との息子の兄弟で天智天皇が兄とされています。しかし日本書紀の記述は矛盾があり、天武のほうが天智より年上と見るのが自然なのです。それで民間の史家では様々な説が出される状態になっています(公的歴史学者は沈黙状態)。

天武天皇
Wikimedia Commons [Public Domain]
天智天皇
Wikimedia Commons [Public Domain]

その中で「小林惠子は漢皇子とする説を提起し、年齢逆転を唱える作家の間ではこれが有力なものとなっている。漢皇子は皇極天皇が舒明天皇と再婚する前に高向王(用明天皇の孫)との間に設けた子で、天智天皇の異父兄である。」(ウィキペディア「天武天皇」)とあるように、日本書紀では宝皇女(後の皇極天皇)は、再婚で舒明天皇に嫁ぐ前に髙向王と結ばれ、その間に漢皇子を得ていたとされるので、漢王子を天武天皇と見る見方が有力になっているのです。

公的には天智と天武は兄弟としながらも、こういった見解に沈黙している公的歴史学者の態度を見ても、漢王子が天武だったと見るほうが妥当と見えます。

しかしこうなると、天武は母の皇極天皇の血を引く意味では天皇の血を引いていますが、父方の男系からは天皇の血を引いていないことになります。即ち天照大神から神武天皇歴代天皇の血統を引いておらず、祖先霊を祭祀する大神官としての天皇の資格を天武は欠いていることになります。泉涌寺で天武系の血統の天皇が祀られていない理由がここにあるのでしょう。

そしてここで問題なるのが、宝皇女(後の皇極天皇)と結ばれていたとされる高向王がどういう人物なのか?ではあります。これも諸説ありますが、井澤元彦氏や関裕二氏などは、高向王を蘇我氏の一党と見ています。ハッキリとはしませんが、いずれにしても少なくとも ≒ミトラ教を奉じていた氏族でしょう。


日本にユダヤ式の宗教統治の型 〜天武のバックには八咫烏


ウィキペディアの「天武天皇」の記事に「新嘗祭を国家的祭祀に高め、特に大嘗祭を設けたのも、天武天皇であろうと言われる」とあります。大嘗祭を最初に始めたのが天武なのです。そして大嘗祭とは2018年12月5日の竹下さんの記事をご覧くだされば「聖婚儀礼」に他ならないことに納得されるでしょう。

1990年(平成2年)の大嘗祭の様子

元々は霊に憑依された巫女(神殿娼婦)と性交することでメシア(王)を生みだす儀式が「聖婚儀礼」です。ミトラ教は古代メソポタミアから始まったこの「聖婚儀礼」儀式から悪魔崇拝の部分は削ぎ落とした形で受け継いでいました。天武が始めた大嘗祭はこれであったでしょう。

この大嘗祭という名の実質「聖婚儀礼」は、もともとホツマの神に繋がる日本の天皇の儀礼には無かった儀礼だったのです。天武の父であろう高向王がミトラ教を信奉していて、天武がこれを受け継いでいたから、大嘗祭として「聖婚儀礼」を取り入れたと見るのが妥当です。

天武は父系としてはミトラ教を信奉していた蘇我氏の血統、もしくは漢王子の名前から蘇我氏と非常に近い関係にあった渡来氏族の「漢氏(あやうじ)」の血統だったようにも思えます。また、天武のバックには八咫烏がついていたと考えられます。

結社八咫烏の発足を密勅したのは天武系の聖武天皇とされますが、実際にはその約150年ほど前の聖徳太子の時代には八咫烏の組織の原型は既にあったと考えられます。

秦河勝
Wikimedia Commons [Public Domain]

聖徳太子の最側近のブレーンが秦河勝です。聖徳太子の時に既にエッセネ派が目指した新エルサレムの宗教統治の型、即ち①預言者②祭祀のメシア③王のメシアの至高三角形の体制ができていました。預言者は聖徳太子だったでしょうか、祭祀のメシアが天皇、王のメシアが蘇我氏です。

こういった体制づくりには古代ユダヤの末裔の長であったであろう秦河勝、およびその秦氏の霊能集団の八咫烏が大きく関わっていたと見るのが自然です。

この統治の体制がひっくり返ったのが645年の乙巳の乱でした。乙巳の乱の主役である中臣(藤原)鎌足も、また実は日本古来からの氏族の中臣家の人間ではなかったのです。

中臣(藤原)鎌足
Wikimedia Commons [Public Domain]

これは関裕二氏が主張し、その後の白村江の戦い経過などを見れば非常に説得力があり納得できるのですが、中臣(藤原)鎌足とは、当時日本に人質として亡命していた百済の皇子の扶余豊璋と見て間違いないでしょう。

日本の王権を巡り激しい対立が続いていたのです。


Writer

seiryuu様プロフィール

seiryuu

・兵庫県出身在住
・いちおう浄土真宗の住職
・体癖はたぶん7-2。(自分の体癖判定が最も難しかった。)
・基本、暇人。(したくないことはしない。)
・特徴、酒飲み。アルコールには強い。
・歯が32本全て生えそろっている(親不知全て)原始人並み。

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