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ユダヤ問題のポイント(日本編) ― 基本情報1 ― 秘密結社八咫烏の結成
神武東征を導いた八咫烏 〜「ホツマツタヱ」では八咫烏は老翁
八咫烏に導かれる神武天皇
Wikimedia Commons [Public Domain]
日本の歴史上、初めて八咫烏が登場するのが有名な神武東征です。日本の初代天皇と記録される神武天皇を導いて“ヤマト入り”を成功させたのが八咫烏とされているのです。
ただ八咫烏の前に神武天皇について少し。神武天皇は大陸からやってきて朝廷を打ち立てたとか、天皇を「スメラミコト」と呼称するところから「シュメール」が起源であるといった説がネットなどで散見されます。
どうも日本人のルーツは日本列島ではなく大陸に、あからさまには日ユ同祖論の日本人のルーツをユダヤ等に求める主張のようです。
確かに日本とユダヤは緊密な関係にありますが、日本とユダヤは同祖ではなく、日本人のルーツは日本の地そのものにあります。「日本書紀」、「古事記」にそのことは記されていませんが、「ホツマツタヱ」では27アヤに神武天皇が皇子の時に近畿から帆船(ワニ舟)で九州に渡ったことなどが記されています。そこから神武は東征しているのです。
神武天皇
Wikimedia Commons [Public Domain]
「ホツマツタヱ」には皇統の血統などが整合性をもって記されており、日本が非常に古くから文化を築いていたことが明らかになります。
さて、神武東征の時期ですが、年代ははっきりしませんがウィキペディアによると紀元前660年台頃のようです。
八咫烏は「ホツマツタヱ」29アヤに出てきていて、八咫烏は老翁とされています。八咫烏はご存知の通り三本足の烏の図になっていますから、色黒で痩せ型の杖をついた老人で特殊能力、霊能力者だったのでしょう。この老人は竹下さんが度々指摘されているように古代イスラエルから渡来してきていたレビ族の長老だったと考えられます。
熊野那智大社の八咫烏
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南北に分裂していた北イスラエルがアッシリアによって滅亡させられたのが紀元前721年です。これでアラビア半島アシール地方から古代イスラエル人たちは世界に離散していきました。彼らの肌の色は当然浅黒かったのです。その中で日本に到来していた古代イスラエル人もいて、そこには祭祀に特化したレビ族もいたのでしょう。
日本では周りと比べて特別肌の色が黒い古代イスラエル人、その中のレビ族長老が霊能力を駆使し、祖霊と通信をとりながら険しく道なき道の峰々をかき分け、神武天皇の皇軍をヤマトに導いていった、こうとすると八咫烏がピッタリと収まります。
日本のユダヤ文化 〜渡来民族が日本の実権を掌握
大陸から大団体としてユダヤ人と見られる渡来人が移住してきたのは応神天皇の時です。秦氏の渡来です。コトバンクに次のようにあります。
「秦氏(はたうじ):漢氏と並ぶ日本古代の有力な中国系渡来人の氏。記紀の伝承では,応神天皇のとき,秦の始皇帝の子孫である弓月君が多くの人民を率いて朝鮮から渡来し,養蚕,機織業をもって朝廷に仕えた。この秦の民がしだいに豪族に所有され分散したので,雄略天皇が秦の民を集めて秦酒公(はたのさけのきみ)をその長官としたという。6世紀以後,朝廷の財政事務にもあずかった。京都,近江,淀川流域に栄え,秦造(はたのみやつこ)から連,忌寸と改姓し,平安遷都も秦氏の財力を背景としていたという説がある。」
応神天皇は5世紀前半の天皇です。『記紀』によると「百二十県」の人員が率いられてきたと記されます。その数一万人?以上、当時としてはものすごい数字です。文字通りの民族大移動です。彼らがユダヤ人と見て取れるのです。
秦氏は記事にあるよう「養蚕,機織業」もありますが、土木建築技術や酒造技術等々様々な文化を日本に持ってきているのです。そして神社仏閣を建造したのも秦氏です。
日本で最も多い神社は。稲荷社か八幡社でしょう。どちらも元を辿れば秦氏が建造しているのです。日本古来固有のものと思われている神社、ところが実はその神社という礼拝場所、そして礼拝の形式はユダヤ式なのです。ユダヤの宗教形態を持ち込んだ秦氏をユダヤ人と見るのは当然なのです。
秦氏の一部は、京都山城国へ移住したため、丹波は養蚕や紡績の中心地となった。6世紀に渡来した秦氏の族長・秦河勝は、厩戸皇子(聖徳太子)や蘇我氏と密接になった。財政を任され、仏教を広めた。平安京を誘致し、先住の賀茂氏や紀氏と協力し、上賀茂神社や伏見稲荷社、松尾大社を建立した。
— 𓉤箱コネマン𓁷 (@HAKOCONNEMAN) 2019年10月4日
そして秦氏と並ぶ渡来集団として挙げられていた「漢氏(あやうじ)」もユダヤの一党と見られます。北イスラエル滅亡後、南ユダ王国も滅亡、ユダヤ人たちはバビロン捕囚を経てパレスチナの地に第2エルサレム神殿を建設しました。しかしローマへの独立戦争は失敗、122年のバル・コクバの反乱は鎮圧され、独立戦争は完全終了、ユダヤ人たちは本格的に世界に離散していっていたのです。
「漢氏」からは坂上田村麻呂が出ているのですが、「漢氏」が非常に近い関係を結んでいたのが「蘇我氏」でした。後にご存知の通り日本の実権を握った蘇我氏も渡来民族でした。ただし蘇我氏は騎馬民族のスキタイで、東北地方など北側から日本に入ってきたと見られます。
聖徳太子の時代には彼ら渡来人グループが有力氏族として日本の実権を握っていたのですが、彼らの共通項がミトラ教です。グノーシス ≒ ミトラ教 ≒ カバラでした。秦氏の宗教は原始エルサレム教会の原始キリスト教でしょう。≒ミトラ教です。蘇我氏、スキタイ族の宗教もミトラ教だったのです。日本の仏教徒は ≒ミトラ教なのです。
八咫烏とは秦ガラスのこと 〜秦氏の受け継いだ宗教の意味
仏教を導入した蘇我氏、秦氏、漢氏など渡来人グループが、日本の実権を握っていたのですが、大事件が発生しました。一大クーデターです。一般には「大化の改新」とされます645年に引き起こされた「乙巳の変」です。後の天智天皇と藤原鎌足によって蘇我入鹿が皇居で暗殺された事件です。これで蘇我氏本家は断絶したのです。
乙巳の変
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この頃までに日本は双分制を築いてきました。王権を双つに分けたのです。メシアでいうと祭祀のメシアと王のメシアの制度です。祭祀のメシアが天皇、王のメシアが蘇我氏だったのです。ところが「乙巳の変」でこの日本の状況は一変し、この後には藤原氏が権力を独占していくことになるのです。
こういった状況下で組織された秘密結社が「八咫烏」なのです。組織としての八咫烏がどういう目的で結成され、どのよな活動を行ってきたのか? ウィキペディアの「八咫烏(結社)」記事の概要として次のようにあります。
「…八咫烏は賀茂氏の祖とされる吉備真備が天平十六年十一月(西暦744年)に藤原氏の朝堂独占に対抗するために 聖武天皇の密勅により丹波国で結成したのが始まりという。」
八咫烏の結成の密勅を出したとされるのは聖武天皇で、藤原氏の権力独占阻止がその目的でした。聖武天皇は天武系つまり南朝系の天皇です。そして八咫烏は血統ユダヤ人の末裔の秦氏によって結成されたのでしょう。
記事は続いて「八咫烏は天平時代から幕末にかけて主に迦波羅(かばら)と呼ばれる秘術を核とした神道、陰陽道、宮中祭祀を執り行い、京都御所における食事や掃除、湯浴みに至るまで天皇や内廷皇族の日常的な事柄を一手に引き受けていたとされる。」とあります。八咫烏は宮中内にあって「迦波羅(かばら)」という秘密の宗教活動を中心にした業務を行ってきたとしているのです。
「迦波羅(かばら)」の源流は原始エルサレム教会(クムラン宗団)で、秦氏はこの原始エルサレム教会の教えと技法を受け継いでいたわけです。それで秦氏の八咫烏はカバラの熟達者であり、一方ユダヤ式の神社仏閣も建設していたわけです。特殊能力の霊能集団である八咫烏組織の中心は祭祀階級に特化したレビ族でしょう。神武東征を導いた初代八咫烏がレビ族の長老でした。
そして重要なのが、八咫烏が原始エルサレム教会を受け継いでいるということは、終末思想、最終戦争(ハルマゲドン)、救世主(マイトレーヤ)降臨、新エルサレム到来とメシア(ユダヤ王・世界王)の輩出、これらも受け継いでいたであろうことです。メシアを生みだす儀式の聖婚儀礼も、です。
「日ユ同祖論」があります。ウィキペディアの同記事の冒頭に次のようにあります。
兄エサウに成りすまし家督を継ぎ、イスラエルを名乗ったヤコブが日本民族の祖? この説自体はデタラメです。この説だと日本人の起源はいくら辿ってもヤコブ誕生の紀元前1680年頃が上限です。そして実際にユダヤ人と兄弟民族の日本人が日本列島に住み、文化を築き出したのは北イスラエル滅亡の紀元前721年以降となるでしょう。
こういった言説が全くナンセンスなのは「ホツマツタヱ」を読めば明瞭です。そうでなくても縄文時代や三内丸山遺跡に目を向ければこういった「日ユ同祖論」がありえないのははっきりしています。「日ユ同祖論」を主張する方々には日本には縄文時代が無かった、もしくは縄文人は日本人ではないことになっているのかな?と首を傾げます。
ただし、多くのユダヤの文化が日本にもたらされて、その強い影響のもと日本が形作られてきたのも事実です。その中の一つと言えるかどうか…、ユダヤ人末裔が結成し、日本の歴史に大きな影響を与えてきた秘密結社が「八咫烏」です。「八咫烏」組織の基本的な特徴だけを箇条書きで示しておきます。