ユダヤ問題のポイント(日本編) ― 基本情報4 ― ミトラ教の伝播

 ミトラ教といっても日本人には聞き慣れず馴染みの薄いものでしょう。しかし、ミトラ教の言葉は認識されず、そうとは知らないままではあったのですが、ミトラ教は日本人の生活に深く浸透して、日本全土に広まっていたのです。日本の歴史に大変な影響を与えていたのです。
 ミトラ教は東方へは中東から中国、朝鮮半島を経て日本に伝わっており、その伝播の各地域に広く浸透してもいました。ミトラとマイトレーヤ(弥勒菩薩)は ≒ の関係で結べます。
 さて気をつけるべきことは、ミトラ・ミロク信仰が日本に、そして中国など周辺地域に広く浸透することは、「ミロクの世が来る」ことの下準備に、つまり日本を中心としたNWO成立の土台となる事柄だということです。日本を中心としたハルマゲドン・救世主降臨計画です。
 この計画の原点は、ミトラやマイトレーヤたちホワイト・ロッジのハイアラーキーが信奉し、忠誠を誓っていたサナット・クマラの復讐と野望にありました。
 スミワタルタカキホシノヒメミコ様の通信などによって明らかにされていますが、サナット・クマラは天照大神の息子の一名であり、高き神格のホツマの神でしたが、事件を引き起こし、父の天照大神の激怒を買い、ホツマの神から神霊に格下げされて地球に叩き落されます。
 サナット・クマラはその復讐として全宇宙の支配の野望を懐き、ホツマの神々もその支配下に置こうとしたのでした。この復讐と野望を実現させるための組織と計画がホワイト・ロッジのハイアラーキー組織であり、ハルマゲドン・救世主降臨計画でした。
(seiryuu)
————————————————————————
ユダヤ問題のポイント(日本編) ― 基本情報4 ― ミトラ教の伝播

ミトラとミロクの関係 〜日本でのミトラ教儀式


京都の太秦に「広隆寺」(別称は「蜂岡寺」「秦公寺」など)があります。秦氏の氏寺です。国宝第1号の弥勒菩薩像が安置されてあります。この寺の創建は、ウィキペディア記事には以下のようにあります。

「『書紀』によれば、推古天皇11年(603年)聖徳太子が「私のところに尊い仏像があるが、誰かこれを拝みたてまつる者はいるか」と諸臣に問うたところ、秦河勝が、この仏像を譲り受け、「蜂岡寺」を建てた」


聖徳太子の最側近のブレーンであり秦氏の長であったであろう秦河勝が、弥勒菩薩像を祀るために広隆寺を建てたということでしょう。

広隆寺は仏教寺院となっていますが実体は原始キリスト教、もしくはミトラ教の寺院と見るのが正確でしょう。ベンジャミン・クレームの『マイトレーヤの使命』の中にはイエスをオーバーシャドウ(日本的表現では神憑りもしくは憑依)していたのはマイトレーヤ、つまり弥勒菩薩だとしばしば記されています。

マイトレーヤは霊的世界で、ハイアラーキー(国津神)の太陽系第3レベル(シリウス第5レベル)の地球レベルのキリストだったのです。イエスをマイトレーヤがオーバーシャドウすることで、イエスがイエス・キリストになっていたのです。

なお、マイトレーヤとミトラの関係ですが、ミトラはマイトレーヤ同様に過去に地球に実在した人物で、太陽系第3レベル(シリウス第5レベル)の太陽レベルのキリストだったことを竹下さんが明かされています。

ミトラとマイトレーヤは同質であり、双子の相似形の関係であり、≒ の関係で結べます。こういった事実は聖徳太子も秦河勝もよく知っていた上で広隆寺を創建していると考えられます。

そしてもう一つ、広隆寺が原始キリスト教もしくはミトラ教寺院であるとの根拠となりそうなのが、京都三大奇祭として知られ、広隆寺で毎年10月に開催される「牛祭」です。「牛祭」はコトバンクに次のようにあります。

「陰暦9月12日(現在は10月12日)の夜に京都市右京区太秦(うずまさ)の広隆寺で行われる祭り。摩多羅神(またらじん)の役は白紙の仮面をかぶり、異様な服装をし、牛に乗って寺内を一巡し、国家安穏・五穀豊穣(ごこくほうじょう)・悪病退散の祭文を読む。太秦の牛祭。」

牛祭(都年中行事画帖 1928年)
Wikimedia Commons [Public Domain]

この祭りの主役の摩多羅神(またらじん)とは天台宗寺院の常行三昧堂の守護神でもあり、最澄および円仁が唐から持ち帰った神のようですが、大陸から渡来した摩多羅神(またらじん)とはどのような神なのか?

この摩多羅神(またらじん)とはミトラ神と見て間違いないでしょう。「牛祭」とは「牡牛を屠るミトラ」の「聖牛の供儀」を原型としており、日本では牛を殺して供物にするのは禁じられたので、それをアレンジしたものと見て取れます。

大英博物館所蔵の「牡牛を屠るミトラ(2世紀ごろ)」
Wikimedia Commons [Public Domain]

後述しますがコトバンクに「漢神(からかみ)」とあって「上代に大陸から渡来した神に牛を殺してまつることが諸国で行なわれた」とあります。これは「聖牛の供儀」であって、結論としては摩多羅神(またらじん)=ミトラ神=「漢神」であったと見て取れるのです。

ミトラ・ミロク信仰が日本全土に浸透 〜ミトラ教を奉じていた蘇我氏、秦氏、漢氏


「漢神」との名称は、その信仰が秦氏と並ぶ渡来民族であり、古代イスラエルの末裔「漢氏」の信仰であったところから来ているようです。

この漢氏の信仰にも関連しますが『ヘブライの館』にミトラ教の内容、並びにその伝播を簡潔に示す記事が掲載されています。その中で「第5章:ミトラ教と日本のつながり」があり、日本におけるミトラ教の影響などを簡潔に知ることができます。そこに次の一文があります。

ミトラ信仰は、中央アジアから中国・古代朝鮮を経由して日本にも伝えられ、弥勒信仰の中に生きている。日本において弥勒信仰は、そのまま仏教だった。

当時、いち早く仏教を取り入れようとしたのは、蘇我氏であった。彼らは仏教を政治的に利用して、古代日本の支配権を手に入れた。その際、蘇我氏がバックにつけたのが仏教を持ってきた渡来人たちであった。なかでも、最大の力を誇っていたのが「漢氏(あやし)」なる一族だった。

漢氏は、ペルシア系渡来人で、仏教のほかに奇妙な信仰を持っていた。それは、漢氏にちなんで「漢神信仰」と呼ばれたが、その中心は雄牛を殺す儀式にあった。この儀式はミトラ教の密儀に通じている。」

仏教を導入し日本の支配権を掌握したのが蘇我氏であり、蘇我氏と連携していたのが聖徳太子であり、秦氏そして漢氏だったのです。その彼らが共通して奉じていたのがミトラ神であり、弥勒菩薩だったのです。

秦氏は広隆寺でミトラ神を摩多羅神として、もとの「聖牛の供儀」をアレンジした形でミトラ教の祭祀として牛祭を行っていたのです。その名は出ないままミトラ教は日本に多大な影響を与え広まって浸透していたのです。

ミトラ神の変身の摩多羅神の「白紙の仮面」の顔に非常によく似ているのが沖縄のミルク神です。ミルク神とはようはミロク神で弥勒菩薩なのです。ミトラ信仰・ミロク信仰は日本本土そして沖縄にも広まっていたのです。更にこのミルク神を奉じる行事は台湾にもあるとの情報があります。

ミルク面
Author:Paipateroma [CC BY-SA]


明朝を成立させたミトラ教 〜ミトラ教から朱子学、陽明学


日本全国にミトラ・ミロク信仰が広がっていたということは、それに先立ち中国でも同様となります。隋・唐の時代には中国に広く伝播していたのです。特に唐の首都の長安はシルクロードの中心にもなる一大国際都市であり、外国交流の中で「唐代三夷教」が唐王朝の保護下に大いに隆盛したと記録されています。

三夷教とは、キリスト教ネストリウス派(景教)、ゾロアスター教(祆教)、マニ教(明教)の3つであり、どれも ≒ミトラ教ともいえます。特にマニ教(明教)は東方ミトラ教そのものです。

時代は下り様々な変遷はありますが、特に中国におけるマニ教(明教)、つまり東方ミトラ教の影響は絶大でした。ウィキペディアの「唐代三夷教」記事に次のようにあります。

「宗教に寛容な元朝においては、明教すなわちマニ教は、福建省の泉州と浙江省の温州を中心に信者を広げていった。明教と弥勒信仰が習合した白蓮教は、元末に紅巾の乱を起こし、乱の指導者であった朱元璋が建てた「明」の国号は「明教」に由来したものだといわれている。」

要はミトラ・ミロク信仰が、1351年の紅巾の乱からの革命で1368年に元朝を倒し、明朝を成立させているのです。


更に明教(東方ミトラ教)とそこから発生した動きは大きな影響となって、中国から日本へとも伝搬されているのです。「第5章:ミトラ教と日本のつながり」に次のようにあります。

「12世紀以降の中央アジアと中国では、東方ミトラ教ミーフリーヤ派(弥勒派)が活発な活動をし、彼らから朱子は東方ミトラ教を学び「朱子学」を興した(12世紀)。さらに王陽明が「陽明学」を築いた(15世紀)。(中略)...朱子学と陽明学は東洋版神智学の双璧である。

日本では江戸時代に林羅山、三浦梅園らが「日本朱子学」を興隆させ、中江藤樹らが陽明学を興隆させ、伊藤仁斎らが「古学」を起こし、荻生徂徠が「徂徠学」を起こし、本居宣長らが「国学」を起こした。」

以前にグノーシス ≒ ミトラ教 ≒ カバラの図式を示しましたが、これらは ≒神智学でもあります。そして「朱子学」「陽明学」は日本に大きな影響をもたらしたのですが、その底流にはミトラ教の存在があったのです。


江戸時代に「日本朱子学」や「古学」「国学」などが興隆したのですが、その背後にはマイトレーヤやミトラの霊導があったと考えられます。

「古学」や「国学」が学ぶ対象としたのは『古事記』『日本書紀』などであり、当然『ホツマツタヱ』ではありません。日本人のルーツがホツマの神に、天皇の血統が男系で天照大神に繋がっていることは「古学」や「国学」は伝えないのです。これにはホツマの神ではなく、自分たちハイアラーキーを崇拝させる意図があったでしょう。

そしてこの「古学」や「国学」が明治維新に繋がるです。


Writer

seiryuu様プロフィール

seiryuu

・兵庫県出身在住
・いちおう浄土真宗の住職
・体癖はたぶん7-2。(自分の体癖判定が最も難しかった。)
・基本、暇人。(したくないことはしない。)
・特徴、酒飲み。アルコールには強い。
・歯が32本全て生えそろっている(親不知全て)原始人並み。

これまでのseiryuu氏の寄稿記事はこちら


Comments are closed.