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あい∞ん在宅看取り介護3
Q.「お父さんのことはお母さんが全部してあげて!もう私は関わらない。」と、脱・介護宣言をしてしまいましたが、もともとお母様は家業でお忙しい身でしたね。実際には、お父様の介護はどうなったのでしょう。
その頃の父は、まだ自分で身の回りのことが出来ていました。ただ、ストーマ(人工肛門)の袋を装着することだけが難しかったようで、私が離れてからは、母がストーマの袋を貼る担当になり、また、それ以外にも父の食事の支度は母がしてくれるようになりました。
母は、それまでは食品の安全や栄養には無頓着でしたが、とても機転の利く人で、父の喜ぶことを自然にやっていました。父にとって心地良い言葉かけがとっても上手だし、今までは作る機会がなかったようなお料理も本で栄養を調べ、色んな食材をバランス良く選んで「これは○○に良いからね~」と一つ一つ説明して食卓に乗せたり、また、本人が好みの慣れ親しんだ調理や味付け、たとえそれが出来合いのお惣菜で保存料や着色料がたくさん入っていても、父が喜んで食べられるものが並びました。お魚も再登場です。
母が料理を担当し始めると、父はだんだん元気になっていき、晩酌を楽しめるほどまで体調も回復しました。「自分は90歳まで絶対に生きる!」と周りの方達に常々言っていたし、母も「お父さんは90歳までは生きんといけんよ!」と和していました。
食事は、身体だけでなく心の栄養にも大切なんだなぁ…と思いました。
母の立派なところは、食事のことだけでなく、何度も突然に漏れるストーマにも嫌な顔ひとつ見せず、「ここが一番景気がえ~ね~!景気がええのが一番!」と笑って父を和ませることでした。
私が毛嫌いしている排便の始末も、ちっとも嫌がらずに受け入れている。
・・・・なんという寛容さ!!!
今の私には絶対にできない寛容な対応と言葉かけ。
本当にすごいな・・・・と心から想いました。
何よりも大好きな母(妻)に身の回りのことを色々としてもらうことが、父にとって一番嬉しくて幸せなことだったのではないかなぁと思いました。母のお蔭さまで、父は余命が延びたのだろうなぁ!
母は、父の好きなようにさせても気にならないタイプ。けれども私は父の有りのままを見守れない。
お互いにストレスを感じない相性の良い相手、心を許せる人が傍に居て、頼れたり、本人の自由にできることがどれほど大切なことかを認識できました。
甘やかされて我がままな娘(私)の選択は、結局、父の命にとってはとってもベスト!なことだったのかもしれません。
Q.お母様の手助けは、聞いていても暖かですね。ご夫婦の年季を感じます。
ところで、あい∞んさんは、その後、お父様とはどのように関わられたのですか?
ところで、あい∞んさんは、その後、お父様とはどのように関わられたのですか?
基本的には見て見ぬふりをしていました。本人が「お願い」と言って、私に助けを求めてきたら対応していました。
父の性格上、私に「お願い」をしたくないということは解っていましたし、仮に「お願い」をしても「ありがとう」を口に出して言わない性格だとも解っていました。
けれど、そのことがどうしても腑に落ちないので、私はお願いされるまでは何もしない!と意地を張っていました。
Q.そうでしたか(笑)。似た者親子ですね。
そんな風に距離を開けながらも、あい∞んさん作成の病状ノートには、お父様の様子が細やかに書かれていて、そっと観察し見守ってられたことがうかがえますね。
あい∞んさんが介護から離れたのが、平成29年の夏でした。
それから本格的な看取り介護に入る平成31年3月までの経過を、ざっと教えていただけますか。
そんな風に距離を開けながらも、あい∞んさん作成の病状ノートには、お父様の様子が細やかに書かれていて、そっと観察し見守ってられたことがうかがえますね。
あい∞んさんが介護から離れたのが、平成29年の夏でした。
それから本格的な看取り介護に入る平成31年3月までの経過を、ざっと教えていただけますか。
29年8月頃、担当医から癌の再発の説明を受けました。お尻にある癌が大きくなり、椅子に座ると当たって痛いので、徐々に立つ時間が長くなっていました。
それでも日常的には大きな変化はなく、家族が付かず離れずで見守るような毎日でした。
5月頃、新たに処方された痛み止めの薬( オキシコンチン )の副作用がひどく、ぼーっと意識が平坦になり、寝ている時間が長くなり、食欲が無くなり、夜中トイレに行く途中で転倒するなどの症状が出ました。
これはいけないと思い、薬剤をネットで調べみると、その副作用の症状がぴったり当てはまっていて「特に高齢者に対してはとても注意が必要」と書かれていました。担当医師に、失礼にならないように気をつけながら手紙を書いて訪問看護の方に託しました。その結果、弱い薬に代えていただくことができました。
Q.やはり、状態をよく把握しておられたからこその対応でしたね。お父様は薬について納得されていましたか。
副作用の内容をメモして、まずは母に見せました。
私だけが父に言ったのでは、父には聞き入れてもらえないかもしれないからです。
「その薬を飲んでからというもの、意識が朦朧としていて、時計の時間を見ても何時か理解出来なくて、私が父に何か問いかけても『何にも解らん』と言うし、このまま飲んでいたら本当に危険。
高齢者にとって転倒がきっかけで寝たきりになる可能性もあるし…。」
今まで痛みがあったとしても、御飯もおやつもお酒も普通に食べられて、テレビを見たり、会話も出来て日常生活出来ていたのに、薬で痛みを抑えたために今までのような生活が出来なくなるのはどうなのかしら。薬を弱いものに変えてもらって痛みが我慢出来ない時だけ飲むようにした方が良いんじゃないの?薬以外の、痛みが楽になる体操の仕方や他の方法もいろいろ試してみようよ、と両親に強く薦めました。
お医者様にも、もちろん日頃お世話になっている感謝を伝えながら、(我慢が出来る範囲内であれば)薬に全面的に頼るのではなくて、食べ物に感謝したり食養生に気を付けたり、身体に感謝やお願いすることが大切なのではないかと想っていること、父にもそう伝えていることなどを書きました。
父は若い頃から病院の処方薬をとても信頼していて積極的に使っていました。胃薬を毎食後に飲んだり、風邪をひいていなくても「予防の為に飲んでおこう」と飲むようなタイプでした。また頭皮が痒い時などは塗り薬をせっせと塗っていたので、私はしばしば「ステロイドが入っている薬は身体に良くないから使わない方がいいよ。免疫力が落ちるし、皮膚も弱くなるよ。」と伝えていました。
もちろん父はあいも変わらず使っていましたが。
けれどもこの痛み止めの副作用の時は、自分自身でも明らかに身体の調子がおかしくなったと強く実感したのでしょう、本人もなるべく薬を使用せず、回数も少なめに飲んでいました。お尻の痛みには、湿布を貼ってなんとか対応していました。
また、私が「薬はなるべくなら飲まないで、野草茶を飲んだり、食事や運動で改善したり、漢方薬にして貰ったりした方が良いよ!!
食べ物が身体の健康を作ってくれてるんだから、食べる時にはいつも感謝したり、身体に感謝したり、身体に治癒をお願いしたりすることが大事なんじゃないの!?」
と、父に小うるさく再三「押し付け感満載で」言っていました。
Q.いつものほほ〜んとした、あい∞んさんとは思えぬ、、、(笑)。
だけど実際、野草茶を色々ブレンドしたお茶で尿もよく出ていたし、梅の黒やきで、風邪や吐き気が良くなったりしたので、ちょっとずつ本人も「薬に頼らなくても他の方法もあるんだな」ということが実感としてあったのかもしれません。
母が食事を作るようになってから、母も食養生の本を読んで、山芋や、ごまや、小梅や、胡桃や、イワシ粉や、、、と父に「これは〇〇に良いし効くからね~」と説明して食べさせていたので、父にもじわじわと「薬=絶対飲まないといけないもの」という方程式が無くなってきていたのかも?
けれど、、、今想えば、かなり強引で、自分勝手な想い「薬イコール悪」を押し付けていたと思います。
痛みは本人にしか感じられないことなのに、しかも忍耐強い性格だし、あくまでも全て「本人はどうしたいのか」を尊重することが一度重要で大切だったなと思うのです…。私は思い遣りや優しさが無かったと。
それがどんな選択だとしても、本人の人生なんですものね(>_< )
「なんくるないさー」は、挫けずに正しく歩むべく努力すれば、いつか良い日が来る、という意味だそうです。生きている中で沢山の色々な事が起こるし、沢山挫折もするけど、「まるっ」と今を受け入れて、「なんくるないさぁ~」を心の杖にして生きれたなら良いな~♪
(あい∞ん)
あい∞んさんは一旦、介護から離れることになりました。
さて、この後は一体どうなるのでしょう。