hiropanの 絵と詩で泳ぐ 心の世界と島暮らし ~swimmer 第4回

 私の子育ての大きなテーマである『自己肯定感』。
 なぜそこにこだわるのかというと、自分自身が欲しくてなかなか手に入らなかったものだから、というのもありますが、やはりそれは人が幸せに生きていく上では欠かすことができない基盤となるものだと感じています。
 今回この『自己肯定感』について心理学的な視点と自分の体験を交えて解説してみたいと思います。
(hiropan)
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自己肯定感と子育て(2)

○自己肯定感は最強のプロテクションであり、魅力!

「心が傷ついた…」
「誰かを傷つけてしまった…(罪悪感によって自分もまた傷つく)」

誰しも経験があるであろう、この「心が傷付く」という現象。
心理学では、その人自身が自分を批判・否定している部分を改めて他人から指摘されることによって、「傷つく」という感覚が起こると言われます。


これって結構興味深いと思いませんか?!
私は初めて聞いた時、目から鱗が3枚くらいこぼれてきました!

例えば…、髪の毛が薄くなってきていることを気にしている人に「ハゲ!」と言ったら、言われた人は高確率で傷つきます。
お腹周りについてきたお肉を気にしている時、他人から「デブ!」と言われたらショックです。
いつまでも若くいたいと思っている人が「ババア!(ジジイ!)」と言われたら傷ついて怒り出したくなったりします。

ポイントは、自分で自分を否定している度合いだけ、あるいは、隠したいと思っている度合いだけ、傷の深さが深くなるということです。

体型が細いことを気にしている人に「デブ!」と言っても、本人は全然ピンときません。
仮に子供に対して「ババア」「ジジイ」と言ったとしたら、言葉に乗っかっている悪意や敵意に対して反発はしても、言葉の意味自体で傷つくことは、あまり考えられません。

時事ブログに以前紹介されたこの動画が私はとても気に入っています!


彼は自分の体型を完全に自分の『モノ』にしているように見えます!唐揚げを食べることや、太ること対して、彼自身が自分を責めていないので、受け取り方によっては「いじり」に当たるコメントへの返答が、とても清々しく、逆に人を惹きつけるものになりました!
自分を肯定することで、彼にとってこの体型は彼というキャラクターを際立たせる武器であり、魅力になっています!

私の祖父は、わりと若い頃から頭が涼しそうなタイプだったのですが、昔カツラをかぶっていた時期があったそうです。
親しい人に会った時、そのカツラを「こんにちわ!」と言いながら帽子のように、ヒョイと持ち上げて、相手を驚かせ、楽しませるような一面があったようです(笑)



なかなかインパクトのあるご挨拶!私がもしも今、そんな人に出会ったとしたら、面白すぎて、その人に対して一気に興味が湧いてくると思いますし、強烈な印象とともに、忘れず、覚えていることでしょう!

この時点で、祖父の薄毛は、祖父にとって、その場に笑いと、和やかなコミュニケーションをもたらしてくれるパワフルなツール(武器)になったと言えます。

しかし、一方で人はコンプレックスに感じるものほど、隠したくなる傾向があります。

仮に祖父が、薄毛を本気で気にして、どこまでも深刻に考え、隠すことに必死になっていたとします。

悲しいことに…隠そうとすればするほど、そこに気が行きますから、より一層人目も気になるし、他人もそこに漂う何かしらの空気を感じとります。

この場合の祖父は、他人から否定的に見られて、傷つかないための自己防衛として、自分自身を『隠す』ということをしています。「こんな自分は格好が悪い(受け入れられない)」という思い込みがあり、そのさらに下には「他人から受け入れられたい(愛されたい)」と言う潜在的願望があります。

しかし、この「隠す」という作戦が、本当の意味で「愛を得る」という結果に結びつくことはありません。

それはなぜでしょうか?


○『自己開示』と『自己提示』

他人に、自分のありのままの姿をさらけ出すことを、心理学で『自己開示』と言います。
自分の強みだけではなく、弱みや、欠点も相手に対してオープンにするということです。弱みを見せることで、人は打ち明けてくれた相手への親しみや、尊重する思いが生まれ、打ち明けられた人も心を開きやすくなります。そういったコミュニケーションの積み重ねが、信頼関係の構築に繋がっていくと言われています。

しかし『自己開示』は勇気がいります。開示して、受け入れられなかったらと思うと、恐ろしいからです。


よく一緒に解説されている用語に『自己提示』というのがあります。
これは、みんなやってます!
SNSはこの傾向が強いです。
英語だとセルフプレゼンテーションと言い、他人から「こう見られたい」という自分の姿を切り取ったり、強調するなどして、社会に見せようとする動きを指します。


可愛らしさ、かっこよさ、賢さ、やさしさ、強さ、弱さ、幸、不幸、豊かさ、貧しさ、権威性などなど、提示したい自分像は人により異なります。

私は学生の頃、あえて個性的にみられそうな服を選んで着ていました!自分の個性を探していて、できるだけ他の人と違う自分になりたかったから。😆
でも多分似合ってなかったし、自分でもそんなに好きではありませんでした!今思うと完全に迷子!😅

自己提示自体が悪いことなのではありません。若い頃は特に、過去から現在の自己像に抵抗し、脱却のためもがいたり、他者からの愛や評価を得るために、自己表現を試行錯誤する中で、自己提示していく傾向が強いようです。そうしているうちにだんだんと、自分にとっての心地よさ、納得のいく着地点、自分軸を見つけることができるようにもなります。
しかし『自己提示』を続けていくのは疲れますし、四六時中継続することは困難です。

自己提示は、人が成長していく上での一つの通過点とも言えます。
ですが誇張したり、隠したり、偽りの自分がどんなに評価されたとしても、あなたの本質は決して満たされることはありません。それどころか「ちっとも私を理解してくれない!」ハートの中の小さなあなたは泣きながら怒っているかもしれません。

なぜなら、あなたが本当に愛してほしいと思っているのは、あなた自身がもっとも許せず、受け入れられないでいる、隠したいと思っている自分自身のウィークポイント、その部分だからです。


多くの人がやっていることですが、SNS上で自己提示していった場合、人によってはある問題が起こります。
他者から認められたい願望(承認欲求)が潜在下に強くある人が「いいね!」をもらうと、脳内には快感物質であるドーパミンが放出されます。ハマってしまうと、快感を求めるがあまり、そこから抜けることが難しくなっていきます。
ドーパミンは徐々に効きが悪くなってくるので、更に多くの「いいね!」が必要になってきます。「いいね!」のために一喜一憂し、自己肯定感を下げたり、自己提示の頻度が増え、投稿する内容が過激になってくる場合も。
しかしそれを求めれば求めるほど、本来の自己からはどんどん遠ざかっていってしまいます。

自分で自分を十分に、認めることができていたとすれば、他人からの承認をそこまで必要としなくなるはずですし、SNSに依存してしまうリスクも下げることができるはずです。


○私自身の子供時代

子供をありのままに受け入れながら育てると、子供達は、自分で自分をことさら否定したり批判したりする必要がないので、他者からの攻撃に対しても傷つきにくくなりますし、セルフイメージもよくなります。

どんな自分も愛されるという体験と実感が前提としてあるので、自己開示に対する抵抗も少なくなると考えられます。「自分は愛されている、大切な存在だ」という自己概念は、彼、彼女の人生をあらゆる場面で力強く支えてくれる盤石な土台となることでしょう。

一方、私は自己肯定感も低く、傷つきやすく、精神的にも不安定で、自己開示がとても苦手でした。あまりにもしんどいので、人と付き合うことを極力避けていた時期もあります。

私の父は「人間たるもの、こうあるべき」という”べき・べからず思考”が強い傾向にありました。
怒ってれば「怒るな!」と言われましたし、泣いていれば「泣くな!」と言われ、大きな口を開けて笑っていると「歯茎出して笑うな」と言われました!(←なんでやねんっwと、思わず関西弁でツッコミ入れたくなる)
今にして思えば、馬鹿馬鹿しくて、「めちゃくちゃなこというなっ!」と笑い飛ばしてしまうようなことです(笑)

一方で、私に怒るな!という父はとても怒りっぽい人でしたし、笑う時は歯茎も見えていました(笑)
「大人ってなんて理不尽なんだ!」
子供の頃の私は心の中で叫んでいました(笑)

自分自身を「こうあるべき、べきではない」と常にコントロールしようと努めているので、子供がそれを破ることが許せませんし、自分が信じていることが、正しいことだという信念があるので、家族に対しても同じように理想を求めてしまいます。これは、心理学で言うところの、『投影』と呼ばれるものです。

両親は特定の宗教を信仰していたということはありませんでしたが、父はひとりの哲学者にとても傾倒していました。人間として求める理想像がそこにあったのでしょうね。

少し話が逸れてしまいますが…
宗教、哲学、あるいは食事療法、健康法などなど、私たちは、様々な思想や情報との向き合い方、付き合い方を正しく身につける必要があると考えています。この記事を掲載させていただいている、シャンティ・フーラ、竹下先生の思想であっても然りです。

まだ自分の中でうまく説明できるほど、情報が整理できていないのですが、他人の思想や情報を”着る”というか、宗教であれ、思想であれ、自分を「こうでなければならない」と、抑圧している状況があるなら、心理的には必ずどこかに歪みが生まれていると、考えていいのではないかと思うのです。

私含めた世間一般的な人々の多くは、圧倒的に意識レベルでの自立が足りていないのです。日本人は、受けてきた教育上、特にそういう人が多いのかも知れません。

権威ある誰か、自分よりも優れていると思う誰かの考えを鎧のように、自分に被せて生きている気がしていました。そして、その鎧を持ってして、別の鎧を着た他の誰かを批判したり、意味なく対立したりしている。その鎧で守っている、生身の自分はどこにあるのか?生身の自分はどう感じているのか?
「この人が言っているから正しい」「この人がこうしなさいと言ってるからこうする」「この本にこう書いてあるから…」と、全て鵜呑みにしてはいないか?それでは、誰が生きているのかわからなくなってしまいます。自分がどんな情報を得て、何を受け入れるのか。それを選択しているのは常に自分であり、選び取る責任もある。


シャンティ・フーラは宗教ではないですが、神々や、見えない世界のことも扱うので、受け取り手のメンタリティーとして旧来のピラミッド型、宗教的な構図になってしまいがちであると見ています。
でもそれは、人の意識として健全な姿ではないはずなのです。

特定の誰かを崇めることなく、よりフラットで開かれた意識で見えてくる世界。思想や知識で身を固めなくても、生まれ持った本来の価値が人それぞれにあるはずです。生身の自分で生きていくことを自分自身に許可していく。そこから、本来の人としての内面的成長と癒しのプロセスが、始まっていくのではないかと、私は考えています。


話を戻します…。


小学校2年生の頃だったと思いますが、あることをきっかけに、「親に何を話しても何もわかってくれないし、問題は何も解決しない。(むしろ状況は悪化する!)」と、悟った(?)瞬間を私は今でも鮮明に覚えています(笑)

以来、人に何かを相談しても解決しないし、自己開示しても、いいことは何もないと思っていました。そもそも、両親にすら否定され、受け入れられなかった自分自身の側面を、他人が受け入れてくれるものだとは、簡単に思えるものではありません。

ぴ・よ・こ・と』にも書いてありましたが、親が自己を肯定していなければ、子供を肯定することは難しいことです。

それは心について学び、自分も子育てを経験した今だからこそ、わかることですし、両親が抱えていた苦しさについても、分析し、理解することができます。


○見える世界は自分の心次第で変化する

どんな風に育てられたか、どんな言葉を受けて大きくなったか、どのような思いを抱えて子供時代を過ごしてきたのか。それによる現在の自分自身への影響は計り知れないものがあります。

私は初めて「ぴ・よ・こ・と」を読んだ頃、自分もこんなふうに育ててもらいたかったと、心の中で嘆いていました。
「自己肯定感がある状態」から始めるのと「自己肯定感がない状態」から始めるのとでは、人生におけるスタートラインの位置が4〜500m違ってくるのではないかという気さえしていました。(ある意味ではそうかもしれません)
当時の自分の思いを要約すると、「人生は不公平!」私はそんなふうに感じていたようです。

しかし、子供の頃の状況も、現在に至る上では、ある意味必要であったと、今となっては思えます。

自分の苦しい状況をどうにかしたいと、もがく中で、私はいつの間にか心に向きあう癖がついていたようです。そして、シャンティ・フーラや心理学など、様々な学びとの出会いを通し、「心」というものの面白さにも気がつきました。

何を思い、考え、どう生きるか、現在、未来の自分の心や行動は、自分自身で望み、選択していくことができます。そしてそれによってまた、現実も変化していくのです。

まるでオセロゲームのように、心の中の小石を一箇所、コロンとひっくり返してみると、連動するように、それに付随する想念も、パタパタと変化していく。


考え方や捉え方を一つ変えてみただけで、世界は全く違って見えてくる。

それはまさに心の魔法です。

気づきを一つ得るたびに、固定化された考えが、くるんとひっくり返ってしまう時の面白さ、爽快感!
その心の小石を一つ一つひっくり返す地道な作業の継続は、自己肯定感や、安定した心理状態に、着実に繋がっていくと思います。

(映画、The Greatest Showmanの中の『This is Me』という曲を聞いていて、言葉が浮かんできたので、書き表してみました。)

完璧な人など一人もいません。
人があなたをどう思うか、何と言うかに、自分の人生を奪われてはいけません。
他人の不幸や不機嫌は、あなたのせいではありません。
口に出して言ってみてください。

It’s not my problem!

人は人、あなたはあなた。

愛される資格がない人など、一人もいません。
愛されない理由を探しているのはあなた自身です。

自分自身を裁くこと、他の人を裁くこと、それはあなたの仕事ではありません。

私たちの仕事は愛すること。
自分自身を愛すること。
それから自分以外の世界を愛すること。

世界は自分を写す鏡です。
自分自身への理解と尊敬は、そのまま他の人にも反映されます。

自分と世界をよく見て、理解することを続けてください。
そうすれば、愛は既にそこにあるということに気がつくでしょう。

あなたには愛を受け取る資格がある!
あなたには、あなた自身という愛を受け取る準備はできていますか?

口に出して言ってみて下さい。

This is me!

時には、あなたを傷つけようとする人が出てくるかもしれません。
だけど騙されないで。
その人が攻撃しているのは、あなたではなく、あなたに映るその人自身の心の姿だということ。


It’s not your problem!

どうか隠れないで。
自分と世界との間に、これ以上バリケードはいらない。

あなたが隠れてしまったら、その人は少し気分が晴れるかもしれません。
見たくない自分の感情を見なくて済むのだから。

This is me!

あなた自身の愛と魅力を止めないで。

自分自身を生きること。
それはあなたにしかできない奇跡。


あなたはあなた自身という愛を受け取る準備はできていますか?



Writer

hiropan

イラストレーター。
福島県出身。現在は瀬戸内海の離島に暮らしながら、夫と協力して二人の子供と2匹の猫を育てている。
2023年からイラストと詩で創作活動をスタート。
趣味で自然農の家庭菜園をしている。

Instagram👉https://instagram.com/pepocreation?igshid=YmMyMTA2M2Y=


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