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ぴょんぴょんの「呪われた兵士」 ~ナチス・共産主義に抵抗するために戦った市民たち

 ポーランドの新大統領、ナヴロツキ氏について調べていた時に、気になったことがあります。
 ナヴロツキ氏は歴史学者で、これまでに「第二次世界大戦博物館」館長、「国家記憶研究所」所長を務めた経歴があります。そんなナヴロツキ氏が、「『呪われた兵士』をポーランドの国民的英雄と称し、彼らを記念する『国家記憶の日』を制定した〈法と正義党〉を称賛した」というのです。(Wikipedia
 「呪われた兵士」って何?
(ぴょんぴょん)
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ぴょんぴょんの「呪われた兵士」 ~ナチス・共産主義に抵抗するために戦った市民たち

最後の「呪われた兵士」と呼ばれるジョゼフ・フランチャク


むか〜し、むかし、「呪われた兵士」という一団がおったそうじゃ。

へえ? 今日は暑いから怪談かな?

いや、これは、「呪われた」と言っても怪談じゃない。実際に起きた話じゃ。

なあんだ、で、どんな話?

1963年、共産党支配下のポーランドの話だ。ある農家の納屋を、軍事警察が取り囲んでいた。中にいるヤツに、投降するよう呼びかけている。だが、中のヤツは「地元の農民だ」と言って出てこない。身分証明書の提示を求めると、そいつが発砲したので、銃撃戦が始まった。そして、そいつは死んだ。彼は、最後の「呪われた兵士」と呼ばれる、ジョゼフ・フランチャク(1918年 – 1963年)だった。Wikipedia

ジョゼフ・フランチャク
Wikimedia_Commons[Public Domain]

カッコいいなあ。ポーランド版ラスト・サムライだね。

そう、45年の生涯のうち、24年間を抵抗運動の戦士として生きたフランチャクの人生は、まるで映画を見るようだ。

どんな一生だったの?

フランチャクは憲兵学校を卒業して、ポーランド軍に入隊した。その後、ナチスの捕虜になったが、脱走してAKに入隊した。

AKって何?

ポーランド語で「アーミア・クロヨーヴァ(Armia Krajowa)」、略してAK。日本語では「国内軍」「地下軍」、英語では「Home Army(ホーム・アーミー)」とも呼ばれる。

Author:Topory[CC BY-SA]

ポーランド軍に戻ったんじゃないの?

ポーランド軍はとっくに国外に出て、連合国側について戦ってたの。

ええ?! 国を見捨てたってこと?

う〜ん、しかたない、最初っから話してやるか。

お願いします。


ナチス・ソ連に対抗する地下政府「ポーランド地下国家」


まずは、前回話したように、生まれてから21年という「第2ポーランド共和国」に、ナチス・ドイツが攻めてきたのが1939年9月1日のこと。ポーランド軍は、西側のドイツとの国境に戦力を集めていたが、9月17日、東から来るソ連には打つ手がなかった。そして、9月28日に首都ワルシャワが陥落。

ワルシャワを防衛するポーランド軍兵士(1939年9月)
Wikimedia_Commons[Public Domain]

あ〜あ。

だが、ソ連侵攻の9月17日の時点で、ポーランド政府は決断した。大統領を含む政府要人らはフランスへ逃げ、ポーランド軍も飛行機や船舶と一緒に国外に脱出したんだ。

ひどーい!! 国民を捨てて? 自分たちだけ逃げたの?

たしかに、彼らは生き延び、国民はナチスとソ連にボロボロされた。だが、ポーランドという国を存続させるためには、これしか道はないと考えてのことだろう。

う〜ん、船の船長は、船と運命を共にすべきだと思うけどね。

フランスに逃げた要人らは、ナチス侵攻が始まったフランスからイギリスに逃げ、最終的にロンドンで、「ポーランド共和国亡命政府」を立ち上げることとなった。

イギリス?! ナチスに宣戦布告だけして、ポーランドを見殺しにした国に頼るなんて。

イギリスも、後ろめたさがあったのかも。

でも、国の中枢がロンドンにあって、何ができると言うの?

亡命政府は、占領下のポーランドに残してきた、ナチス・ソ連に対抗する地下政府「ポーランド地下国家」の指揮をとった。

「ポーランド地下国家」の旗
Wikimedia_Commons[Public Domain]

離れているのに? どうやって?

主に無線だな。お得意の暗号を使って?

たしか、ナチスの暗号エニグマを解読したのはポーランド人だったね。(Wikipedia
それでも、亡命政府の人たちはズルい。

まあまあまあ、自分の育った祖国を、遠くから眺めるのもつらいもんだ。ナチス・ソ連は、ポーランドの民族性を破壊するために、ポーランド語や文化を捨てることを強要した。そこで亡命政府は、「地下国家」に命じて、ポーランド語の地下教育や、ポーランド文化の継承、ポーランド国民の助けになるような情報の供給、社会保障、司法サービスなどをさせた。

そんなこと、ほんとにやれたの?

ポーランド国民も、「地下国家」を支持していたようだから、やれたんだろう。特に、ナチスやソ連軍から市民を守る、私的軍隊「AK」は大活躍した。

「国内軍」「地下軍」とも呼ばれる、「アーミア・クロヨーヴァ」だっけ?

そうだ。

でも、武器はどうしたの? 手ぶらじゃ、戦えないよ。

ポーランド軍が残して行った武器、ナチスの輸送列車を襲って盗んだ武器、ナチスの兵器工場からかすめ取った武器、ポーランド国内で生産した武器など。たま〜に、連合軍が空から落としてくれたらしいが、武器はまったく足りてなかった。

武器もろくにないような、しろうと集団で、うまく戦えたんだろうか?

退役軍人もいたが、あとは様々な職種の人々の自主参加だった。AKが1942年に結成されてから、1945年に解散するまでの3年間、約50万人が参加したと言う。Wikipedia

それだけの人たちが、自分の命も顧みず、国のために・・。

ナチス・ソ連に占領されたポーランドだが、1943年、ナチスが徐々に劣勢になり始めると、ソ連はナチスを追い出して、ポーランドを独占しようと企んだ。それを察したAKは、ソ連にナチスを叩かせて、そのすきにポーランドを取り返そうと考えた。

なるほど、でも、そんなうまく行くかな?

赤軍と地下国家のAKが協力し、ポーランド政権を亡命政府が握るという計画だ。これは、亡命政府と地下国家の間で合意され、「テンペスト作戦(Wikipedia)」と呼ばれた。

赤軍と協力するなんて、可能なの?


ソ連によるポーランド人大量虐殺事件


そんな折りの1943年4月、ナチス軍によって、ソ連の大虐殺現場が発見された。そこには、ポーランド軍将校を初めとする22,000人の遺体があった。ソ連は侵攻して間もなくの1940年春に、ポーランド人の大量虐殺をしていたことがバレてしまった。この事件は、カティンの虐殺と呼ばれる。

ドイツ国防軍によって発掘された犠牲者の遺体
Wikimedia_Commons[Public Domain]

なんとヒドいことを!

これを命令したのは、ソ連の「内務人民委員部(NKVD)」のトップ、ベリヤくん。
NKVDと言うのは、

NKVD:内務人民委員部、1934年〜1946年、ソ連の内務省・兼秘密警察。諜報活動と国家安全保障の独占権限を有し、スターリン下で政治弾圧と「大粛清」を実施した。トップは、1938年〜1946年までラヴレンチー・ベリヤ。(Wikipedia

ベリヤって、どこかで聞いたなあ。

「カガノビッチの従兄弟ラヴレンチー・ベリヤ(1899-1953年)です。ハザールユダヤ人(母親)とのハーフのベリヤは極めて危険な男でした。婦女子に対する性暴力を含め無数の人民が彼の毒牙にかかり収容所送りにされ命を落としています。」(ユダヤ問題のポイント

ラヴレンチー・ベリヤ
Wikimedia_Commons[Public Domain]

悪魔みたいな人が、悪魔みたいなことをしたんだね。


AKの敗北


「カティンの虐殺」をきっかけに、ポーランドとソ連の外交関係は途絶えてしまう。
そんな中、AKはソ連軍を利用してのワルシャワ奪還を試みた。

ソ連軍とナチスが戦ってるすきに、首都を奪還するんだね。

1944年1月、赤軍がポーランド国境を越えた時点で、AKは前進する赤軍と連絡を取りつつ、ナチス軍に対する共同作戦を開始し、成功を収めていった。

へえ〜、やればできるじゃん。

1944年8月、ソ連軍がナチス占領下の首都ワルシャワに迫る中、AKは次の作戦「ワルシャワ蜂起」に賭けた。それは、ソ連が共産党政権を作る前に、ワルシャワを奪還する作戦だ。これが、ポーランド再建の最後の望みと思われた。

ワルシャワ蜂起時のポーランド兵
Wikimedia_Commons[Public Domain]

がんばれ〜、AKの兵士たち!

だがしかし、ワルシャワを守るナチス軍は思ったより強かった。しかも、助けてくれるはずのソ連もなかなか来なかった。その結果、AKはナチスとソ連の両方と戦う羽目に陥った。

なんで、ソ連軍はもっと早く来なかったの?

結局、AKは敗北し、約6万人が逮捕され、そのうち5万人は強制収容所送り、残りはソ連に強制徴兵されるか、殺されたりした。Wikipedia

あ〜、最後の望みもダメだったか〜。

1944年夏、ソ連がつくった「ポーランド国民解放委員会」という傀儡政権は、1947年に「ポーランド人民共和国」となった。悪魔ベリヤがトップにいた「内務人民委員部(NKVD)」とポーランド共産党が支配し、ポーランド駐留の赤軍が支える国家だった。

想像しただけで、自由も人権もない世界だよ。

しかも、ソ連とポーランドの共産党政権にとって、ポーランド亡命政府とそれに忠実なAKと地下国家は敵だ。当然、弾圧も厳しくなる。AKと赤軍が衝突して内戦になるのもイヤだ、AKもボロボロだと言うことで、1945年1月、AKは正式に解散した。

AKもよくがんばったよ。

解散後、AKを引き継ぐ組織が次々に現れた。最終的に、元AKメンバーによる新たな抵抗組織「自由と主権(WiN)」ができたが、結果的に消滅した。(Wikipedia

正義の味方だったのに。

AKの腕章
Author:Maciej Szczepańczyk[CC BY]

反共産主義抵抗運動の英雄となったフランチャク


さてその頃、ラスト・サムライのフランチャクはどうしていたのか? ポーランドがソ連共産党の支配下になると、フランチャクはポーランド第2軍に徴兵された。しかし1945年、かつてのAKの同僚が、共産党政権に処刑されるのを見て、ポーランド第2軍から脱走。1946年6月、保安当局に逮捕されたが、またまた脱走。

脱走の名人だね!

ようやく居場所を見つけたのが、「呪われた兵士」だった。「第二次大戦後期から戦後1950年代まで、反ソ連・反帝国主義・反共産主義の武装抵抗集団がいた。いつしか人々は、彼らを『呪われた兵士』『運命に翻弄された兵士』『破滅した兵士』『不屈の兵士』と呼ぶようになった。」(Wikipedia

「呪われた兵士」たち
Wikimedia_Commons[Public Domain]

なるほど、行くあてのないAK兵士たちの溜まり場だったんだ。

フランチャクも彼らとともに、ポーランドの敵と結託した裏切り者や、密告者を処刑したりした。

共産党支配のポーランドでは、まだ戦争が終わってなかったんだ。

1947年、「呪われた兵士」に向けて、自首すれば恩赦を施すという申し出があったが、フランチャクは拒否した。自身が犯した犯罪や容疑が、起訴される可能性があったからだ。いや、それよりもそういうワナで、仲間がたくさん殺されるのを見てきたからな。Wikipedia

恩赦がワナ?

共産党は、そういうことを何度もやってきた。ポーランド地下国家の指導者たちもだまされた。1945年3月、地下国家指導者13名が、「ソ連支持の暫定政府参加に関する会議」に招かれた。だがその場で、NKVDに逮捕され、モスクワの刑務所に連行された。数ヶ月にわたる尋問と拷問の後、「ナチス・ドイツとの協力」および「ナチス・ドイツとの軍事同盟の計画」という虚偽の罪で起訴された。(Wikipedia

ヒドい! やっぱ、共産党を信じてはいけない。

1945年にも同じようなことがあった。NKVDとポーランド秘密警察は、AKの後継組織「自由と主権(WiN)」の指導者に「恩赦する」と言って、数千人を逮捕した。1946年、「呪われた兵士」100人〜200人で構成された「国民軍(NSZ)」も、同じようにだまされて、殺された。1947年、戦時中の抵抗因子を恩赦すると宣言して、森から出てきた53,000人のAK兵士が逮捕された。Wikipedia

フランチャクさん、もう、誰も信用できないから、自首しないと決めたんだね。

1948年、フランチャクが率いる「呪われた兵士」らは銀行強盗に失敗し、政府軍に包囲されて壊滅した。元同僚はほとんど殺され、逮捕された。フランチャクは逃げのびたが、潜伏中のフランチャクを支援した人は200人に上ると言う。「フランチャクを支援した者には、数年間の懲役刑を科す」と政府が脅迫したにもかかわらず。Wikipedia

ポーランド国民は、フランチャクを、「呪われた兵士」を応援していたんだね。

とうとう見つかって、投降を呼びかけられたフランチャクは、自分から撃って出て、殺された。収容所につながれるより、いさぎよく死ぬ方を選んだのだろう。第二次世界大戦終了から、ほぼ20年後のできごとだった。

カッコいい最期だ。

1989年、ようやく、ポーランド法によって、AK兵士の有罪判決が無効化され、取り消された。そして、お尋ね者だったフランチャクも、今や「反共産主義抵抗運動の英雄」とされている。Wikipedia

ポーランドのピアスキにあるジョゼフ・フランチャクの記念碑

しかし、まったく、映画みたいな人生だ。


Writer

ぴょんぴょんDr.

ぴょんぴょん

1955年、大阪生まれ。うお座。
幼少期から学生時代を東京で過ごす。1979年東京女子医大卒業。
1985年、大分県別府市に移住。
1988年、別府市で、はくちょう会クリニックを開業。
以後26年半、主に漢方診療に携わった。
(クリニックは2014年11月末に閉院)
体癖7-3。エニアグラム4番(芸術家)


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