1941年12月7日午前7時48分(現地時間)にハワイの
真珠湾に対する奇襲攻撃を日本軍は開始した。いわゆる偽旗作戦とは違って実際に日本軍が攻撃したのであり、例えばベトナム戦争へ本格的に介入する口実になったトンキン湾事件とは本質的に違う。野村吉三郎駐米大使らがアメリカのコーデル・ハル国務長官に最後通牒を伝えたのは攻撃開始から1時間後のこと。この攻撃で日本はアメリカと戦争を始めたわけだ。
当時の生産力、科学技術力を比較するだけでも日本がアメリカに正規戦で勝てる可能性はきわめて小さく、無謀な行為だったと日本ではマスコミに登場する「専門家」も口にする。日本はアメリカと戦争するべきでなかったというわけだ。
この主張を否定するわけではないが、
その時点で日本が東アジアを軍事侵略していたことに触れない「専門家」が多い。アメリカと戦争したことは間違いだが、
1872年の琉球藩設置に始まる東アジア侵略を肯定している、少なくとも否定していない。侵略戦争が泥沼化、真珠湾攻撃につながったことから目を背けている。
この辺の流れを振り返ると、
1871年7月に廃藩置県、同年10月に宮古島の漁民が難破して台湾に漂着、何人かが殺され、
72年に琉球王国を併合して琉球藩を設置したことに行き着く。明治政府の何者かが漁民殺害を口実に台湾を侵略することを思いつき、宮古島を日本領だと主張するために琉球藩をでっち上げたということだろう。
台湾に軍隊を送り込んだのは1874年、その翌年には李氏朝鮮の首都を守る要衝、江華島へ軍艦を派遣して挑発、紛争化に成功、「日朝修好条規」を結ばせて清(中国)の宗主権を否定させた。
1894に朝鮮半島で甲午農民戦争(東学党の乱)が起こると、「邦人保護」を名目にして軍を派遣した。その一方で朝鮮政府の依頼で清も出兵、
日清戦争が勃発している。
1840年から42年にかけてイギリスと戦争、敗北して「半植民地化」していた清との戦争に日本は勝つ。言うまでもなく、清とイギリスとの戦争は貿易で敗れたイギリスが清に麻薬のアヘンを売りつけようとして引き起こされた。資本主義は経済的に優位な仕組みではないということでもある。
1895年4月に「下関条約」が結ばれて日本は中国大陸での利権を獲得しているが、
その半年後に三浦梧楼公使たちは
朝鮮王朝の中で「親露派」と見られていた
閔妃を暗殺している。そして
1910年、日本は韓国を併合した。この年、幸徳秋水を含む社会主義者や無政府主義者が逮捕された。そのうち24名に死刑判決が出され、12名が処刑されている。いわゆる「大逆事件」だが、冤罪だった可能性がきわめて高い。
事件の翌年、1911年に警視庁は特別高等課を設置、
1923年の関東大震災を経て25年5月に普通選挙法を公布されるが、
6月には治安維持法が成立、思想統制の仕組みが出来上がる。
震災の復興資金の調達を頼った先のJPモルガンはウォール街の巨大金融機関で、
それ以降、日本はその強い影響下に入る。
その後、
1927年に第1次山東出兵、翌年に第2次山東出兵、張作霖爆殺、31年には満鉄の線路が爆破された。関東軍参謀の石原莞爾中佐(当時)と板垣征四郎大佐(当時)が立案、今田新太郎大尉が用意した爆弾を河本末守中尉を中心とするグループが仕掛けたと言われている。
これを切っ掛けにして「満州事変」が始まり、その
翌年に日本の傀儡国家「満州国」の建国が宣言された。
» 続きはこちらから