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ユダヤ問題のポイント(日本 明治編) ― 第34話 ― 後戻りできない道へ

1906年、日本の中国への進出をめぐり日本と米英は対立しています。すでに真珠湾への道が敷かれています。(『日米開戦の正体』p163)

孫崎享氏の指摘です。孫崎氏は「伊藤博文暗殺が日米開戦の遠因」との見解です。

 分水嶺という言葉があります。山の頂などで雨水など水の流れが別れる地点を指します。分水嶺を通過した水の流れはもう一定方向にしか進まず、後戻りや方向転換はできなくなります。孫崎氏の見解もそうですが、私も伊藤暗殺が分水嶺になっていたと見えます。泥沼の日中戦争、そして悲惨な太平洋戦争にまっしぐらに突き進む流れ、これが決してしまい、後戻りできなくなったのが伊藤暗殺と見えるのです。
 日本がそこに至っていく大きな流れは既にありました。少なくとも「一視同仁」の世界をつくるため1777年に客家系の華人によって蘭芳公司が建てられ、「四海同胞」の理想の下、日本から大量に流出した黄金が欧州にもたらされるようになった(2019/12/26竹下さん記事)時にはこの流れは既に発動していたでしょう。
 日本からの大量の黄金がフランス革命など世界革命に用いられ、世界潮流を発生させているので、日本がこの渦の中に巻き込まれるのは必然とも言えるのです。しかし伊藤暗殺までは、まだ日本は悲惨で泥沼の戦争にいたる流れに引き込まれるのを踏みとどまる余地はあったでしょう。
 さて、伊藤暗殺の黒幕には諸説あります。それを細かく見ていくと迷路になりますが、大きな視点でハイアラーキーの計画の上に伊藤暗殺があったと見るのが間違いのない見方だと思えます。日本を中心とするハルマゲドン計画の地上での推進の中核が結社八咫烏でしょう。玄洋社もその組織の一部です。
(seiryuu)
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ユダヤ問題のポイント(日本 明治編) ― 第34話 ― 後戻りできない道へ

「満洲問題に関する協議会」〜児玉を圧倒した伊藤


1906年5月22日、首相官邸において元老および閣僚たち、更に軍部の主立った者がすべて一堂に会します。「満洲問題に関する協議会が開かれたのです。この模様を孫崎享氏の『日米開戦の正体』から見ます。

p164 、この協議会は、日露戦争後に顕著になった満州を我が物にしようとする軍部の動きに懸念を持つ伊藤博文の要請によって開催されたものでした。一方この伊藤博文と対立、会議上でも満州を我が物にしようとの姿勢を見せたのが、長州閥の陸軍参謀総長児玉源太郎です。

p165、伊藤はこの児玉源太郎の主張に対し反論、その難詰は次のようなものでした。

満州方面における日本の権利は、講和条約によって露国から譲り受けたもの、即ち遼東半島租借地と鉄道の外には何物も無いのである。(中略)...商人なども仕切りに満州経営を説くけれども、満州は決して我国の属国では無い。純然たる清国領土の一部である。属地でも無い場所に、我が主権の行はるる道理はない。(『伊藤博文秘録』)

平成の松下村塾 [Public Domain]
平成の松下村塾 [Public Domain]
セリフはこちらを参考

また更に伊藤は、満洲に権益を拡大する動きには次の危険が内蔵していることを指摘。

①日本が独占的地位を占めようとすることに対する米英の反発
中国国内で必ず抵抗運動が出てくる。

この協議会で伊藤は児玉源太郎を圧倒、この結果この会議の席上、日本軍の満洲駐屯を排することになります。

これまで見てきたように、陸軍の児玉源太郎のバックには盟友の杉山茂丸がいたわけですが、彼らは海外拡大路線であって、満洲に対しては「閉鎖主義」、つまり日本以外の外国勢力を排除し、満洲の植民地化を進めようとする姿勢で動いており、満洲に日本の軍隊を駐屯させていたのです。

左が杉山茂丸、右が児玉源太郎

この「満州を我が物にしようとの姿勢」に伊藤は真っ向から反対したのです。満洲は清国の領土であって日本はその兵を撤退しなければいけないとの伊藤の主張は 、1905年の日露講和条約(ポーツマス条約)の内容骨子に「日露両国の軍隊は、鉄道警備隊を除いて満州から撤退する。」が入っており、至極当然でもっともなのです。


また伊藤は「日本が満州に権益を拡大する動きには、①日本が独占的地位を占めようとすることに対する米英の反発。②中国国内で必ず抵抗運動が出てくる。とその危険が内蔵していることを指摘」とありますが、この伊藤の懸念憂慮も当然だったのです。

そして不幸なことに、伊藤の懸念・憂慮がその後ことごとく現実化していくのは皆様のよく知るとおりです。


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ユダヤ問題のポイント(日本 明治編) ― 第33話 ― 伊藤博文暗殺の伏線

 前回、白龍会総裁、玄洋社の杉山茂丸と伊藤博文が奇妙で深い因縁の関係にあったことを見ました。また、ハルピン駅での伊藤博文暗殺が日本の韓国併合に繋がっていたのでした。
 杉山茂丸と伊藤博文の海外に対する方針姿勢は相容れないものでした。「日本の(武力行使を含めた)積極的海外進出」を主張していた玄洋社の韓国への主張は「日韓合邦」(日韓併合ではない)でしたが、これにしても元来の伊藤博文の姿勢とは相容れないものでした。
 そして対ロシアの方針は玄洋社と伊藤のそれは全く相容れないものでした。日露開戦を強く訴えていた玄洋社、それに対して伊藤はロシアとの戦争回避の協商路線を模索していたのです。
 更にあります。今回はその詳細を見る余裕はありませんが、日露戦争後の満州に対する方針は、玄洋社の杉山茂丸とその盟友である陸軍の児玉源太郎たちと、伊藤のそれとはこれも完全に相容れないものだったのです。
 日本は日露戦争後のポーツマス講和によって満鉄の権利を得ました。杉山たちはこの満鉄を満州の「植民地経営を具体化」に利用する方針で設立、この姿勢を憂慮した伊藤はこれを真っ向から反対したのでした。
 伊藤博文暗殺は韓国併合に繋がりましたが、それだけではなく満州国設立にも繋がっています。更には伊藤暗殺は日米開戦の遠因との指摘もあるのです。
(seiryuu)
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ユダヤ問題のポイント(日本 明治編) ― 第33話 ― 伊藤博文暗殺の伏線

杉山茂丸の出自 〜符合してくる事柄


杉山茂丸は、ウィキペディアの記事によると「戦国大名・龍造寺隆信の末裔」と記されています。ところが落合莞爾氏は杉山茂丸について、確かに「杉山家の家系は龍造寺氏の男系」としながらも更に次のようにも記述しています。

茂丸の実父が黒田藩主黒田長溥であることは、7歳時に長溥にお目通りして茂丸の名を頂いた話しで十分判ります。したがって茂丸の実の祖父は黒田長溥の実父の薩摩藩主島津重豪なのです。(『ワンワールドと明治日本』p286)

落合氏の説によると杉山茂丸は黒田藩主の息子であり、更に血統的には薩摩島津氏の流れとなります。蘭癖大名で有名だったのが薩摩藩主島津重豪とその息子の黒田藩主黒田長溥であり、杉山茂丸はこの血族だということになります。そして留意点があって、それは薩摩島津氏は秦氏であることです。

落合氏の説に基づく杉山茂丸の系図


この杉山茂丸に対する落合氏の見解は事実と思えます。なぜならば落合氏の説に基づくならば幾つもの事柄が「ああ、なるほど、それで」と符合してくるからです。見ていきましょう。

玄洋社の墓は黒田氏の菩提寺である博多の崇福寺にありました。これは杉山茂丸が玄洋社の実質社主であり、黒田藩主の息子であるなら「ああ、なるほど、それで」となります。

②ウィキペディアの「玄洋社」記事には次の記述があります。

 多くの玄洋社の運動家を輩出した福岡藩の藩校である修猷館

玄洋社の社員で日露戦争の影の立役者であった明石元二郎は修猷館(しゅうゆうかん)の出身でした。

また里見甫(さとみ はじめ、1896年1月22日 - 1965年3月21日)という非常に重要な人物がいました。彼は現在の電通の前身である満州国通信社の社長兼主筆を勤め、更にアヘン貿易の里見機関の主でアヘン王と称された人物です。この里見甫も玄洋社の関係者で修猷館を卒業しています。


このように元々黒田藩の藩校であった修猷館が「多くの玄洋社の運動家を輩出」し、玄洋社と非常に縁が深かったのも、玄洋社の社主杉山茂丸が黒田藩主の息子ならば「ああ、なるほど、それで」となります。

修猷館の徽章:六光星
日清戦争直後の1894年に制定。
Wikimedia Commons [Public Domain]
編集者註:六芒星についてはこちらを参照。

前回、杉山茂丸と伊藤博文が非常に奇妙で深い因縁にあったことを見ました。杉山茂丸が伊藤博文を暗殺しようとしたのが縁の始まりで、杉山は日露関係などを巡り伊藤博文を謀殺しようとしていた模様でした。

こういった背景には何があったのか? 杉山茂丸が血統としては島津氏つまり秦氏の血流だと知れば「ああ、なるほど、それで」の部分もでてきます。

八咫烏は秦氏を中心とする秘密結社です。その八咫烏は明治維新の際には長州の田布施一族と確かに手を組みました。それで薩長を主力とした勢力が成立し明治維新は成功しました。

その後ですが、明治政府は長州田布施出身の大室寅之祐を明治天皇として戴いており、薩長勢力の中でも明治政府の中で実権を握っていったのは伊藤博文を中心にした田布施一族であったといえるでしょう。

さて、明治維新で手を握った秦氏と田布施一族でしたが、しかし元々は秦氏と田布施一族は仇敵の関係にあったはずなのです。杉山茂丸は秦氏の血流であり、伊藤博文は田布施一族であって、秦氏と田布施一族が仇敵の関係にあったことを踏まえれば、伊藤博文に対する杉山茂丸の行動がある程度は理解できるのです。

1858年の日英修好通商条約以降の日本における2つの支配構造

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ユダヤ問題のポイント(日本 明治編) ― 第32話 ― 伊藤博文の暗殺

 玄洋社の頭山満と共に堀川辰吉郎を保護育成したとされる杉山茂丸、彼こそが八咫烏直属の五龍会の一つである白龍会の総裁とされています。白龍会=玄洋社と見なせます。


 さて、ウィキペディアの「杉山茂丸」記事を一読すれば、杉山茂丸と伊藤博文とは奇妙で深い因縁があったのに気づきます。
 記事によると1884年20歳の青年であった杉山茂丸は「旅費を借りて上京、伊藤博文を悪政の根源、脱亜入欧、藩閥の巨魁と目してその暗殺を企て、山岡鉄舟の紹介状を持って面会に成功するが、逆に、お互い国家のために身を大事にと説伏されて断念した。」とあります。暗殺の対象として面会に成功するも暗殺に失敗した、何とこれが杉山茂丸の伊藤博文との今生での縁の始まりとなっているのです。
 表明治天皇となる大室寅之祐を保護育成したのが長州田布施村の伊藤博文でした。一方、2代目裏天皇となる堀川辰吉郎を保護育成したのは福岡の杉山茂丸です。伊藤博文と杉山茂丸、共に後の天皇の保護育成という役を担った両者となります。
 ところが、その両者の関係は暗殺とその断念という奇妙な縁で始まったわけです。そしてその後も両者は複雑な絡み合いを展開していきます。両者はある意味、非常に深い因縁があったということになるでのしょう。ただし、それはどうも決して幸福な縁とは言えませんが…。
 幕末から明治維新、そして明治時代、維新の志士から明治政府の巨頭として時代をリードしてきた伊藤博文の最期、それは明治末期の暗殺によってでした。伊藤博文の暗殺によって一つの時代が幕を閉じようとし、同時にそれは次の時代への幕開けともなったと言えるでしょうか…。
 伊藤博文のその暗殺が日本の韓国併合に繋がっています。
(seiryuu)
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ユダヤ問題のポイント(日本 明治編) ― 第32話 ― 伊藤博文の暗殺


謎多き伊藤博文暗殺事件 〜伊藤暗殺で得をしたのは?


1909(明治42)年10月26日、満洲のハルビン駅に降り立った伊藤博文が銃弾に斃れました。ロシアが満洲で運営する東清鉄道の同駅で、伊藤博文はロシア蔵相ウラジーミル・ココツェフと非公式会談を行い、朝鮮・満洲問題について意見交換する予定だったとされます。

編集者註:1909年10月26日、ハルビン駅に到着した伊藤博文(5番の挨拶する人物)とそれを出迎えるウラジーミル・ココツェフ(6番の後ろ姿の人物)。この30秒後に伊藤博文は銃で撃たれた

伊藤博文を銃撃した暗殺犯は韓国の独立派闘士の安重根とされます。銃撃を受けた伊藤博文は初代韓国統監を勤めていたのです。しかし、この伊藤博文の暗殺事件に関しては多くの謎と疑惑があるのです。その代表的な一つは、伊藤博文の体内の銃弾が安重根の放ったはずの銃弾と異なったものがあったとの報告があることです。伊藤博文暗殺事件を巡っては諸説紛々の様相なのです。

日本と韓国の当時の状況ですが、『世界史の窓』の「韓国併合」記事で次のようにまとめられています。

日本はその戦争中(執筆者註:1904年開始の日露戦争のこと)と戦後にかけて、韓国との間で3次にわたる日韓条約を締結して、保護国化を進め、その外交や軍事という主権国家としての権限を奪うことに成功した。それに対して、韓国では激しい抵抗が組織され、義兵闘争が1905年から続けられていた。


日本は韓国を保護国として扱い、それに対する韓国側の激しい抵抗があったわけです。その状況下で韓国統監を勤めていた伊藤博文を韓国支配の元凶と見た独立派の安重根が銃撃、その狙いは伊藤博文を亡き者にすることで韓国の独立に繋げていくため。これがハルピン駅での伊藤博文銃撃暗殺事件の一応の表層の構図となりそうです。

しかし事実として、事態はこの表層の構図、そしてその狙いとは全く逆方向に動きます。

伊藤博文暗殺の翌年1910年(明治43年)8月29日、「韓国併合ニ関スル条約」が公布され、大韓帝国は日本に併合されてその統治下に置かれたのです。全くの事実として伊藤博文の暗殺は、安重根の狙いとされる韓国独立どころか、正反対の韓国併合に利用されたのです。

元々伊藤博文は韓国の併合には反対の立場にいたのです。「伊藤博文は、当初は韓国を保護国としたまま独立を維持させる方針をとっていた。それは日露戦争の建前が『韓国の独立を守るためにロシアと戦う』というものだったからである。」(世界史の窓)といった具合にです。

韓国併合については別の機会に改めて見ますが、元来、韓国併合反対の伊藤博文のその暗殺は、韓国独立派には致命的失策といえる行為であり、ここに伊藤博文暗殺に諸説紛々出てくる理由があります。事実としては伊藤博文暗殺によって“得をした”利益を得たのは、日本国内で大陸進出を目指し、韓国併合を目論んでいた勢力となります。

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ユダヤ問題のポイント(日本 明治編) ― 第31話 ― 頭山満のアジア主義

孝明天皇は崩御を装って堀川御所に。睦仁親王もまた、大室寅之祐とすり替わって堀川御所に。大室寅之祐は表の明治天皇(政体天皇)、睦仁親王が初代裏天皇(國體天皇)に。
 これは元々は落合莞爾氏が主張された説であり、その説が辻褄が合っていて事実として間違いないと見て、この明治編を進めてきました。
 堀川御所に移住した後の孝明天皇、そして睦仁親王の情報は当然ながらほぼ皆無です。ただし、その後の情報は皆無ながらも、孝明天皇については堀川御所移住前の情報はあります。しかし、睦仁親王については堀川御所移住前から情報は少なく、その後は情報が皆無なので、睦仁親王がどのような考えや思いをもって周辺に当たっていたかは分かりません。
 それでも推測は可能です。睦仁親王の皇子が堀川辰吉郎です。この堀川辰吉郎に仕えながら保護・育成したのが玄洋社であり、頭山満とされます。睦仁親王が自分と思いの異なる者に自身の皇子を託すはずがないので、玄洋社およびその総帥とされる頭山満の思想と行動を見れば、裏天皇の睦仁親王の考え・思い、そして睦仁親王と日本政府、および表天皇側との関係も垣間見えてきそうです。
 頭山満は、彼のウィキペディア記事を見れば「アジア主義者の巨頭」「日本に亡命したアジア各地の民族主義者・独立運動家への援助を積極的に行った」とあります。 頭山のアジア主義とは以下のようなものだったと思えます。
欧米支配から脱却したアジア共栄圏の構築がその目的。そのために日本は積極的に海外進出し、その中で日本は国際的地位を高め、英国から独立
この頭山のアジア主義は同時に睦仁親王の考えでもあったように思えます。
 ただし頭山は目的達成のために日本の海外での積極的武力行使、日本政府に対しても過激な行動に出てもいて、ここまでもが睦仁親王の考えに沿っていたかは不明です。睦仁親王が英国支配に屈辱を覚え、日本政府および表天皇と緊張した関係にあったのは確かだとは感じますが…。
(seiryuu)
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ユダヤ問題のポイント(日本 明治編) ― 第31話 ― 頭山満のアジア主義

表裏明治天皇の大嘗祭執行 〜150年間の秘事


落合莞爾氏は『ワンワールドと明治日本』281~282頁に次のように記しています。

明治13(1880)年、京都皇統の住む堀川御所で将来の國體天皇となる男児が出生します。御父は、政体天皇の地位を長州藩奇兵隊士大室寅之祐に譲って堀川御所に入った皇太子睦仁親王で、当年29歳、御祖父は慶応2(1866)年の偽装崩御以来、睦仁親王とともに堀川御所に棲む孝明先帝で、ときに50歳です。

睦仁親王と大室寅之祐は明治4(1871)年11月17日に東京皇城の吹上御苑において揃って大嘗祭を執行されておられますので、ともに天皇と呼ばれて何ら差し支えない立場です。つまり「明治天皇は二人いた」のですが、大室寅之祐が表の明治天皇として表に出て、睦仁親王は「ウラの明治天皇」となったので、いわば國體明治天皇となったのです。

(中略)

明治20(1887)年に7歳になった睦仁親王の皇子は、堀川御所で豊子(のちの松下トヨノ)が生まれたのを機に博多に移り、(中略)...辰吉郎が福岡へ移されたのは、黒田藩の政治結社玄洋社の実質社主の杉山茂丸と社長の頭山満から武士的素養と気風を学び、小学校に通って下情に通じるためです。

ここには幾つもの重要なことが記されていますが、その一つで目を引くのが、表の明治天皇(政体天皇)となった大室寅之祐と初代裏天皇(國體明治天皇)となった睦仁親王が、同刻同じ場所(東京皇城吹上御苑)にて揃って大嘗祭を執行したという部分でしょう。

初代裏天皇となった睦仁親王
(25歳当時の明治天皇と紹介された写真)
Wikimedia Commons [Public Domain]

二人が同時に大嘗祭を執行、これは天皇践祚の儀式ですから記されている内容は非常に重要です。それと共に大嘗祭はあまりにも重要で、これに関して虚偽を記されるような性格のものではないので事実と見るしか無いでしょう。

ただし、こうなるとかなり多くの皇室関係者などは、二人の大嘗祭同時執行の事実を承知していたはずです。その上で、その事実を関係者は現在まで厳重に秘匿してきたことになります。150年間の秘事です。

さて、次いで気になるのが、ここでは堀川辰吉郎の生年が1880年となっていることです。堀川辰吉郎は自称では1884年生まれとのことでした。天皇そして八咫烏(サンカもですが)には戸籍が無いとのことで、このように生年がハッキリしないようなことになるのかも知れません。ただ堀川辰吉郎の生年は1880〜1884年の間と見て間違いないでしょう。

この時期は、世界的には1881年にアレクサンドル2世が暗殺され、ポグロムの嵐が吹き、共産革命運動を含めたシオニズムの世界潮流が生じ、日本では1882年に日本銀行が設立されています。世界と日本の歴史の分岐点になる時点で堀川辰吉郎が誕生したとも言えるでしょう。

Wikimedia_Commons [Public Domain]
Wikimedia_Commons [Public Domain]
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その堀川辰吉郎が7歳の時に京都から福岡博多に移されたと落合氏はしています。それは辰吉郎が玄洋社の杉山茂丸と頭山満から「武士的素養と気風を学び、小学校に通って下情に通じるため」とのことです。玄洋社が辰吉郎を保護・育成していく役割を担ったということになるでしょう。

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ユダヤ問題のポイント(日本 明治編) ― 第30話 ― 日露戦争の影の立役者

 自ら望んで「護国の鬼」となったある人物がいます。その人物の名前は明石元二郎ウィキペディア記事によると台湾総督に就任し、台湾軍の初代司令官も兼務し、周囲からは次の総理大臣を期待される中の1919年10月、志し半ばで郷里の福岡で55歳で死去したのが明石元二郎です。
 彼は死に際し「余の死体はこのまま台湾に埋葬せよ。いまだ実行の方針を確立せずして、中途に斃れるは千載の恨事なり。余は死して護国の鬼となり、台民の鎮護たらざるべからず」と遺言したとのこと。
 この遺言に従い、彼の遺骸は福岡から台湾に移され埋葬されたとあります。激烈な生涯を遂げたであろう明石元二郎は別のことで有名でもあります。日露戦争における諜報工作で、明石元二郎の諜報戦によって日露戦争で日本は勝利を得たともされるのです。日露戦争の影の立役者です。
 日清戦争が終結したのは1895年、日露戦争が開戦したのは1904年です。この間僅かで10年も経っていません。日本とロシア、その国力には大きな開きがあり、普通に見れば日本にとって日露戦争は無謀な戦争といえるでしょう。日露戦争で日本が有利に戦局を進められると見ていた国家はほぼ皆無だったのです。その中、意外にも日本は善戦をします。
 ただし、開戦の翌年には日本の戦闘体力はつきようとしていました。その状況下で、ロシアが日本に有利な講和に応じざるを得なかったのはロシアの国内事情からです。革命運動の激化による国内不安がそれで、これを喚起させたのが明石元二郎とされるのです。
 もともと日露戦争を強く誘導したのはロスチャイルドです。ロスチャイルドの帝政ロシア打倒作戦の一端が日露戦争だったのです。それと日本国内にも日露戦争を強く推し進める勢力がありました。それが福岡を本拠とする玄洋社です。明石元二郎も玄洋社の社員だったのです。
 玄洋社は八咫烏の政治組織です。自ら望んで「護国の鬼」となった明石元二郎は八咫烏の一人だったのでしょう。
(seiryuu)
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ユダヤ問題のポイント(日本 明治編) ― 第30話 ― 日露戦争の影の立役者

日露戦争の帰趨を決めたロシア国内事情 〜戦闘では敗北していた日本


明石元二郎
Wikimedia Commons [Public Domain]

明石元二郎1904年に始まった日露戦争における日本側の最重要人物が彼でしょう。明石元二郎の諜報戦の働きによって日露戦争で日本の勝利が導かれた、ともされているのです。

日露戦争は、一応は日本が勝利したことになっています。しかし少なくとも、それはいろんな意味で「苦い勝利」と言わなければならないでしょう。

一例を上げます。戦死者数です。「人間自然科学研究所」のデータによると日露戦争の戦死者は日本側は11万5600人、ロシア側は4万2600人となっています。意外なことに日本はロシアの3倍近い戦死者をだしているのです。

戦死者の数を比較し戦闘という観点に絞って見るならば、敗者は明らかに日本側です。日本側は自国兵士を消耗品として扱った大苦戦のすえにようやくロシアとの講和に持ち込んだのです。前回リンク資料とした藤原彰氏著『天皇の軍隊と日中戦争』では次にある通りです。

兵士の生命を尊重せず、生命を守る配慮に極端に欠けていたのが日本軍隊の特徴であった。(中略)...日露戦争の場合は兵士を肉弾として戦い、膨大な犠牲を出した。火力装備の劣る日本軍は、白兵突撃に頼るばかりで、ロシア軍の砲弾の集中と、機関銃の斉射になぎ倒された。(中略)...旅順だけでなく、遼陽や奉天の会戦でも、日本軍は肉弾突撃をくりかえし、莫大な犠牲を払ってようやく勝利を得ている。

大国ロシアを相手の日本の戦争はやはり無理があったのです。

第一軍司令部と観戦武官
Wikimedia Commons [Public Domain]

しかし、日本が苦戦を強いられながらもロシア相手に有利な講和条約にこぎつけられた、これはロシア国内の革命運動による国内不安からだったのです。近・現代編の第6話に次のように記した通りです。

1904年には日露戦争が勃発します。風刺画に描かれていますが日本にとっては、国力がまるで違うロシアが相手で、尻込みするのを英国と米国にけしかけられた戦争といえるでしょう。日本は開戦近くまで戦費の調達すらままならなかったのです。ところが予想外にも開戦から日本は連勝を続けます。しかし翌年には日本の体力は尽きてきていました。

そのような1905年、ロシア国内では1月のガポン神父率いるデモ隊への軍の発砲にて多数の死傷者がでた「血の日曜日事件」をきっかけとして、第一次ロシア革命が起こります。「日露戦争当時、ユダヤ人たちは『ロシア政府の敗北』というスローガンを掲げて革命運動を展開」「第一次ロシア革命の嵐がロシア全土を襲った」(イワノフ氏)のです。国内が荒れ不安定化したロシアは、既に体力の尽きた日本と不本意ながらも米国の仲介で9月に講和条約を結びます。


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