・自然農法からの学び
植物、動物、個々人、全ての生命体は、それぞれ独自のはたらきがあって存在しています。そして同時にそれぞれの生命体は、他の異なったはたらきの生命体との関係と循環によって成り立っています。独自性と全体としての一体調和。独自性を持ちながら、他と関わっていく、そこには愛憎の流れが生じざるをえません。その矛盾を認め踏まえて、互いに生かしあい調和をとっていこうとする精神、それを「和の精神」といい、21世紀創造の「道しるべ」にと、先の特集で提唱させていただきました。
福岡氏の自然農法の世界では、微生物から植物、人間に至るまで、そこに生息する全ての生命体が、それぞれの独自の生態活動を阻むことなく、全体として生かしあい調和をとっている世界が、破綻無く成立しています。その世界は「和の精神」が具体的に表れた姿といえるように感じました。
冒頭に示したように、一方で物資が極単に腐るほど集中し滞り、一方では餓死者がでるほど不足する現状も生み出す仕組み、それを利害に基づく経済優先固定システムと称すれば、福岡氏の自然農法の世界はそれに対し、多様な個々の生命のはたらきと、その自然の循環を重視したものであるから、生命重視循環システムとも言い表されるように感じます。
福岡氏と自然農法から学び感じたこと。それは、全ての生命体が生きられる、生命重視循環システムづくりとそれへの転換。このことが、21世紀を新たに生きていく私達の課題ではないかということです。
・生命重視循環システムへの転換
「自然農法は、今の私達の生活スタイルでは産業にはなりにくい方法かも知れません。しかしそこのところが、私達が考えなければならない大事なところだと思いました。・・・」 私達の取材に応じて、自然農法の紹介ビデオ(「・・・自然農法・福岡正信 粘土団子が地球を救う」サルボン社)作成者が、自身や社会のあり方を問い直す前記のような言葉と、この社会にあって、求める気持ちがあっても、それを実践していく困難さをも語ってくれました。
生命重視循環システムづくり、もしくはそれへの転換。言葉では簡単でも、現実に社会生活を営んでいる私達の事実の上では、それは決して容易なことではないでありましょう。私達みんなが自然農法を出来るはずも無く、現代の社会システムをすべて否定、改革するようなことは出来ません。
そういった意味では、私達の出来うる生命重視循環システムへの、具体的な取組みの模索自体が、単純に答えが出ず、迷いや悩み、痛みさえもがついてくるものであるのかもしれません。
しかし、迷いや悩み痛みとは、未来を見据え目的をもち、よりよく生きることを求めるからこそ生ずるのであり、そこからの迷い悩み痛みは、本当の意味での豊かさを育む糧や土壌になるように思います。
様々な病理現象が現れている今、現状に沿った生命重視循環システムづくり、未来を見据えた取組みが、やはり、私達に課せられているのではないでしょうか。なぜならば、それは、樹上の生活から地上に降り立ち、大地に足をつけた前方を見据える高い視点と、自在に動かせる手の獲得、つまり『現状に立脚しながら、未来を見据え切り拓いていくはたらき』を身に付けたはずの人間、21世紀に生きる私達にとっての「人間らしさ」であろうからです。
そしてその取組みは、少しずつでも我欲を制御し、私達が生きる土台である地球、自然の働きの中にある自分であることを直視し、身近な隣人、つまり家族や友人、そして共に生きている動植物を、愛していくことから始まるものだと考えます。 「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない。自我の意識は個人から集団社会宇宙と次第に進化する・・・。」(宮沢賢治)
「自然農法(もどき)」を試してみると・・・
「全ての生命体が生きられる、生命重視循環システムづくりとそれへの転換。このことが、21世紀を新たに生きていく私達の課題ではないか」の提言、これは全くその通りでしょう。
しかし、それはいみじくもこの次の段落で「言葉では簡単でも、現実に社会生活を営んでいる私達の事実の上では、それは決して容易なことではない」のでした。私自身「折角自然農法を知ったのだから、いつかはそれに取り組もう」とは思いながら実際に「自然農法(もどき)」を試してみたのがこの記事を出してから十年近く後でした。「いつか」と思っているだけでは「いつまでも」できないものです。私は田舎生まれで生家の前には一反足らずの田圃が有り、以前は米を作ってもらっていました。しかし作り手がいなくなり、放置した状態の農地があるのです。私が「自然農法」を試すには格好の条件があったのですが、なかなか腰が上がらなかったのです。
さて、試してみると、・・・大変です。まず稲の粘土団子と麦の粘土団子それと種々の種を混ぜ入れた粘土団子作りに取り組むのですが、これが非常に大変。一つ一つ手でこねて作るのです。いやになるぐらい手間です。それでも必死でかなりの数は作れました。
2009年?の秋、草だけは刈った状態の、もと田圃の農地に苦労して作った粘土団子を蒔き冬明けを待ちます。その間にどうやら麦らしき芽が出てきます。(ただ他のイネ科の草との見分けが私にはつきません。)春、少量の麦は生長しますが他の芽はほとんど出てきません。夏、イネか?と期待したものは全て違っていました。
結果雑草(という名の草はないのですが便宜上)群の中、麦は少し、種々の種から僅かばかり出てきたのは三つ葉、大根、ニンジン程度でした。稲は皆無、他の種もほぼ全滅。自然農法は簡単ではないです。
それでやはりこれでは無理だとのことで、次からは粘土団子は諦め手作業で畝をたててみました。不耕起無除草は無理と判断した訳ですがこの作業も重労働で大変です。その畝に色々種を蒔きました。種が発芽する横で草が生い茂り無数の虫たちがたかってきます。時間がとれた時に草は刈ったり抜きましたが虫はそのままです。せめて無農薬と無肥料は守ってみようとしたのです。結果はやはり三つ葉、大根、ニンジンはそこそこ生長しました。それと春菊はうまく育ちました。他のものは育たなかったり、芽が出て生長しても菜の花小松菜等アブラナ系の作物は主にハムシにやられまくりスケルトン状態です。
会話と種々の情報交換する生き物たち
しかし時間をかけて観察していくと面白いことに気づきます。畝に蒔くのに余って、刈っただけの雑草群の中に蒔いた種からも数少ないですが芽を出してきたものがあります。それらはそれがアブラナ系でもほぼ虫は付かないのです。畝のアブラナ系とは全く違います。そして畝のアブラナ系でも薹がたちかけたら虫はいなくなります。ハムシたちも花実をつけるのは邪魔しないようにしているようです。どうもそこに生息する植物、虫やミミズその他の生物、皆で話し合いをして一定の決め事をして皆でそれを守っているように感じらました。
無論植物を虫が食べ、その虫をカエルが捕らえ、カエルを鳥が食べるといった連鎖はあります。しかしそれはそんなに単純な一方的連鎖では無さそうです。本当に一所に共に生きている雑多の生物群が会話して種々の情報のやりとりをして「どう折り合いをつけるか」決めている様子です。
雑草群が虫にむかい「人間が立てた畝に生えている植物は食べていいけど、我々の中で逞しく芽を出した植物は我々の仲間だから食べてはいけない。」とさとし、虫どうしでも「畝にある植物は自由に食べてもいいが、それも植物が花のつぼみをつけるまで。花を咲かし種を残す、生物が子孫を残す段階に入ったらそれを阻害してはいけない。そのような仁義に反することをすればやがて我々にそのカルマが返ってくるから。」といった具合に。
そこにある掟、「自由に生きて良い、しかし一緒に生きる生物を絶滅させるような振る舞いは許されない」を守っているように見えるのです。彼らがこの世界の真理だとしている「弱肉強食」などといった単純な世界ではないことがはっきり見えます。
「適者生存」「弱肉強食」とうそぶき幾多の生物種を絶滅させてしまった人間より遙かに理性的なのかもしれません。少なくとも一見貪欲に作物を食い荒らすに見える虫たちでも、傲慢な人間よりもずっと世界と調和的に生活しているのが見て取れるのです。確かに「全ての生命体が、それぞれの独自の生態活動を阻むことなく、全体として生かしあい調和をとっている世界」が見受けられたのです。私たち人間のほうが草や虫たちから学ぶべきなのかもしれません。
(了)
この度、閉幕した国会は最初から最後まで「でたらめ、強行採決」だとか「インチキ、隠蔽、嘘」などの言葉でも表現しきれない異様さでした。既得権益のみを死守しようとするその異様ぶりは、彼ら首相、首相官邸、内閣府を中心とした「異形の者たち(私には「ニンゲンモドキ」にしか見えないのです)」が腐敗の極みにあるのを露呈し、国会は最低限のルールさえも建てられずぐずぐずと溶け落ちていくかのような様でした。社会全体が存亡の危機にあるのは明白で、風を通し循環システムへの切り替えは必然ではあるのです。