アーカイブ: オリジナル記事

牛サマディー君の読書レビュー①:世界の黒い霧 ジョン・コールマン博士の21世紀陰謀史(下) 〜ロシアとプーチン大統領が狙われる理由〜

 昨日の続きです。
 今回は、プーチン大統領とロシアが欧米から目の敵にされる理由がとても分かりやすく書かれています。このような見識と文章力をもつ若者がいることに希望を感じます。
(編集長)
————————————————————————
世界の黒い霧 ジョン・コールマン博士の21世紀陰謀史(下)

President Barack Obama participates in a bilateral meeting with President Vladimir Putin of Russia at the Esperanza Resort in San Jose Del Cabo, Mexico, June 18, 2012. (Official White House Photo by Pete Souza)


プーチンへのネガティブキャンペーン


ワシントンは長年、世界各地で意図的に紛争を創り出すことで軍需産業に潤いをもたらし、石油等の天然資源を支配し、ドル覇権を維持し、世界を支配するという戦略を遂行してきた。彼らの野心を達成するうえで、ロシアの存在は大いなる脅威である。

都合の悪い国や人物を排除するためにメディアを総動員し嘘のプロパガンダを流布するという心理作戦は彼らの得意分野なのであり、プーチンにもその攻撃の矛先が激しく向けられてきた。

本書第三章で著者は「全面戦争も辞さない欧米メディアの中傷キャンペーン」と題し、マレーシア航空MH17便墜落事件の際に根拠のないプーチン攻撃がなされた例を指摘している。



(前略)アメリカとヨーロッパがMH17便の撃墜をロシアの責任だとしたことで、世界は全面戦争の瀬戸際に追い込まれた。

(中略)しかし今回のCIAは、ロシアとウラジーミル・プーチン大統領に対する煽動的なプロパガンダキャンペーンを繰り広げている。そこからは、世界第二位の核兵器保有国と直接の軍事衝突を引き起こそうという意図が見てとれる。CIAが政府内やメディア、各学会など、自らの指揮下にあるあらゆるヒト・モノ・カネを動員して慎重な組織的キャンペーンを張り、反ロシアヒステリーによる世論の汚染を狙っていることに疑いの余地はない。

現時点では、MH17便の撃墜につながった一連の出来事について、納得できる説明は何もない。アメリカの各情報機関が使える諜報システムは巨大なもので、毎年数百ドルが注ぎ込まれているのだが、これを総動員しても、ロシアの責任を追及する根拠となるべき、確固とした証拠は欠片も見つからなかった。

MH17便撃墜にまつわる物理的状況は現在も不明なままで、この悲劇を利用しようという政治目的は明らかだった。アメリカ、イギリス、ドイツの、それぞれ最も影響力の大きい大衆向けニュース雑誌である「タイム」「エコノミスト」「シュピーゲル」を見ても、初めから特集を組んで、ウラジーミル・プーチンへの激しい非難を、ロシアへの対決を望む声と結びつけようとしていた。(中略)すべてCIAが記事を書いていたのだ。どの記事も同じような侮辱的表現を用い、同じような嘘を語っていた。どの記事も、プーチンの「嘘の網」を非難していた。ロシアの大統領を「邪悪な大量殺人者」として描き出していた。(以下略)


結局この事件は、お馴染みの偽旗攻撃だったのである。また、近年のウクライナ危機もロシア弱体化を狙った欧米の策略であることはご存知の通りである。第四章「ワンワールド政府のウクライナ介入は世界大戦の号砲」において、それについて詳細な解説がなされている。

» 続きはこちらから

牛サマディー君の読書レビュー①:世界の黒い霧 ジョン・コールマン博士の21世紀陰謀史(上) 〜プーチン大統領がロシア国民に支持される理由〜

 現役大学生で、中身の濃い本をよく読まれている牛サマディー君に時事ブログの読者の方とも共有できそうな本のレビューを書いていただきました。
 第1回目はジョン・コールマン博士の著作の中からプーチン大統領に関する部分を取り上げてもらいました。ゆっくり本を読む時間がない社会人にとって良書のエッセンスを短い時間で知ることが出来るのは有り難いです。
(編集長)
————————————————————————
世界の黒い霧 ジョン・コールマン博士の21世紀陰謀史

西側メディアのプロパガンダにより、実際の姿とは異なる悪魔的イメージが流布されている指導者が多数いる。カダフィ然り、アサド然り。
ロシア大統領、ウラジーミル・プーチンもそのうちの一人である。

プーチンは本当に、多くの者がイメージしている通り悪い奴なのだろうか。何故、日本を含め西側のメディアは彼に対し執拗なネガティブ・キャンペーンをし続けてきたのだろうか。そしてプーチンは一体何者であり、何を企んでいるのか。
これらの疑問に対し曇りなき目で真摯に追及する者たちは、次の答えに辿り着くだろう。

すなわち、「プーチンは欧米勢が流布するような悪魔的人物では決してない。彼は偉大な政治家なのであり、非常に知的で大いなる勇気を持ち合わせた人物である」と。


ジョン・コールマン博士



現在私が読み進めている書籍は、ジョン・コールマン博士の著作「世界の黒い霧 ジョン・コールマン博士の21世紀陰謀史」。
数十年に渡り闇の世界権力の計画を暴露し警鐘を鳴らし続けてきた人物”ジョン・コールマン”、彼の名は時事ブログにおいても度々出てきておりご存知の読者も多いことだろう。
竹下氏は時事ブログにおいて、彼のことをこう評した。


(前略)誠実で、真実を伝える真の勇者です。愚かな人たちは彼らを陰謀論者と呼びます。何ごとも自分でキチンと調べる人は、彼らが本物であることを知っています。(以下略)

シャンティフーラ時事ブログ「 [井口和基氏]本物チャネラーvs偽チャネラー:どっちがどっちだ? 」 より引用


コールマン博士は1935年生まれであるから、もう御年八十を越している老人である。本書を読む者は、コールマン博士のその深き洞察力は未だ衰えを知らぬことを理解するに違いない。幾つになろうとも真実の探求を止めることがない彼の確固たる在り方が見えてくるのである。健康被害を含む様々な活動妨害を受けながらも、彼はそれに屈せず、意気旺盛な言論活動を展開してきたという。この聡明な老人、ジョン・コールマン博士は、その老体に鞭を打ちつつ、世界の為に日々を奮闘している。尊敬すべきジョン・コールマン。私は、この偉大なる先輩の英知に対し敬意を払いつつ本書を読み進めたく想うのである。

本書は最近の様々な国際情勢ついての論考がなされており、六つの章で構成されている。第一章ではイスラム国、第二章ではパリのテロ事件、第三章ではロシア・プーチン、第四章ではジョージ・ソロス、第五章ではウクライナ危機、第六章ではモンサントについて取り上げられているが、どの章もおいても興味深い情報が数多く記されており、非常に読み応えのある書籍といえる。今回の記事では特にロシア・プーチンについて焦点を当て、本書を紹介していきたい。

» 続きはこちらから

マンゴーキャンディの平等 〜平等を訴える以上の誇らしさ〜

 動画はわずか2分のコメディドラマの一コマ。字幕は付いていないですが、まずは娘役の女の子の演技力にご注目ください。内容把握のため、まのじさんに大変秀逸な動画概要を書いていただきました。この動画は、多くの親が子供に対してよく使う「よそはよそ、うちはうち」というセリフよりも、はるかに説得力あるセリフで話題になっています。皆様も是非ご一考ください。
(編集長)

注)以下、文中の赤字・太字はシャンティ・フーラによるものです。

————————————————————————
配信元)

動画概要


 軽快な音楽とともに、お父さんの手作りマンゴーキャンディが出来上がります。
美味しそうなマンゴーキャンディを、長女に手渡すと、お父さんは、いそいそと料理に戻る…。

と、そこに、「見てたんだから!」と言わんばかりに、幼い妹が立ちはだかります。

「私にも、マンゴーキャンディをちょうだい。」

しかし、お父さんは、あっさりと、マンゴーキャンディはひとつしかないと答えるのです。
妹は、決然として「不公平だわ!どうしてお姉ちゃんだけもらって、私にはないの?」と、ごもっともな疑問をぶつけます。

お父さんは何と言い訳するのだろう、と思いきや、意外にも、

「なぜかって? それは、リリィが君とは別の人間だからだよ。他の人と同じ物を持つことなんて、絶対にないんだ。世の中が平等ってことは絶対にない。これからもそんなことは起こらないから、今、それを学んだ方がいいな。」

と思いがけなくシビアな言葉。

「お姉ちゃんはラッキーだった。君はそれほどラッキーじゃなかった。そのうちラッキーなことが起こるさ。」なんて!

しかし、納得いかない妹は、ひるむことなく、誇り高く「それって、ものすごーく不公平よ!」と、お父さんに抗議します。

一体どんな経緯で、お姉ちゃんだけにマンゴーキャンディを作ることになったのでしょう。まのじならば、後ろめたくて、妹の機嫌を取ることばかり考えそうです。

その時、お父さんは腰を落として、彼女の目を見て、こう言います。

「隣の人のお茶碗を覗いて良いのは、その人が充分に足りているかを確認するときだけだ。自分が相手と同じだけ持っているかを見るために覗くんじゃないんだ。」



他の人がラッキーに恵まれ、多くを所有していることに無関心でいられるには、よほど本人が満ち足りていないと、大人でも難しいこと。けれど、そこには、平等を訴える以上の、誇らしさを感じます。


・・・実はこれ、竹下先生のおすすめ動画です。
眼目は恐らく、この、お父さんの言葉でしょうね。
皆さんは、どうご覧になったでしょう(笑)。

さて結局、彼女の「心のお茶碗」は、わずかのチョコ菓子で、充分に満ち足りちゃったようですね!

文・まのじ
セリフ翻訳・緑花

桜散るころに 〜 自宅での介護と看取りの体験(下)

 (下)では、ぴょんぴょん先生の自宅介護も終盤を迎え、看取りの体験を書いていただいています。"続きはここから"以降では、看取る方も看取られる方も『悲しみはなく、喜びしか感じられません』というような最期を迎えるためのヒントが散りばめられていると思います。
 平均寿命という錯覚により、死が遠い未来のことのように思えてきますが、何が起こるか分からないのが人生。いざ臨終を迎えるその時に悔いのない人生だと心の底から思えるためには、"正しい死生観"を築き上げ、正直に生きることが大切になってくるのだと感じます。
(編集長)
————————————————————————
桜散るころに(下)

pixabay[CC0]


母の最期とその時起こった不思議な出来事


亡くなる3日前くらいの夜中のこと、母の声が聞こえるので部屋に行ってみると、誰かとしゃべっているようでした。「誰としゃべっているの?」と聞くと、母は我に返り、覚えていないようでした。もしかして、頭がおかしくなっちゃった? いや受け答えは正常だし、向こうの世界からのお迎えと、打ち合わせしていたのかなと思いました。

そんないろいろな兆候があって、5月30日になりました。お昼に仕事から帰ると、手伝いの人が「今日はおにぎりが食べたいと言うので、作って食べさせました」と言いました。数日まったく食べていなかったので、これは良かった、食欲がもどってきたのかなと思いました。

母はいつものようにテレビを見ていて、私は珍しく血圧を計りました。めったに血圧計を出さないのですが、このときは計った方がいいような気がしたのです。上が40で下は計れません。これはやばいかも、と思いました。病院にいたら昇圧剤でむりやり上げられるのでしょうが、母はもう二度と病院に入るつもりはありませんでした。

「なんか眠いの、とっても眠いの」と言うので、手伝いの人と一緒に母をベッドに寝かせて、やれやれ一休みと思いました。夜のために私も寝ておこうと思い、母のベッドと障子一つ挟んだソファーに横になりました。

とろとろと数分寝たでしょうか、電話で起こされました。関東の妹から、母の様子はどう?という電話でした。「今、寝たところよ」 ちらっと母の様子を見ると、よく寝ているようでした。「行かなくていい?」「まだ、大丈夫だと思う」そんな会話をして電話を切りました。

もう一度確かめようと母のそばにいくと、母はもう息をしていませんでした。まるで眠っているように静かでした。体はまだあたたかくて、手もやわらかくて。

その時、いつもと何かが違うと気づきました。部屋の中が、何かものすごい喜びで満ちているという感じなのです。なんなのかわからぬまま、感動して涙がでるほどでした。20年近く、拷問のような痛みに耐えながら、手足のきかない不自由な体の中に閉じ込められてきた魂が、ようやく開放されて喜んでいるようでした。私は思わず叫びました。「良かったね!もう、痛みもない、自由になったんだよ。今までよくがんばったね。良かったね!」と。悲しみはなく、喜びしか感じられませんでした。


pixabay[CC0]


それからしばらくして、母の大好きだったアルゼンチン人の神父様と、別府駅でばったりお会いしました。「あなたにお会いしたいと思っていました。ちょっと前に、お母さんが私に現れて、微笑みながら、ていねいにお辞儀して消えたのです。お母さんはどうされていますか?」と聞かれたので、亡くなったことを伝えると、うなづいておられました。母がお礼のご挨拶に行ったのでしょう。


つい最近、古い友人も母親を亡くしました。その方は鍼灸師で、東洋医学について鍼灸の立場から、いろいろと教えてもらったことがあります。5年位前にお母さんが脳梗塞で倒れて以来、仕事をほとんどやめて、自宅でつきっきりでお母さんの治療をし、面倒を見ておられました。

大切なお母さんが亡くなられて、さぞがっくりされていることだろうと思いきや、前よりも生き生きとされているのです。
興奮気味に、目を輝かせながら、こんな話をしてくれました。

お母さんが亡くなった時、その部屋が喜びであふれていた、すごかったというのです。「その喜びが自分に力をくれた、もう何も怖いものはない」と、力強く語ってくれました。

その話にうなづきながら、私も自分の母の時の感動を、久しぶりに思い出すことができました。あれは、錯覚じゃなかったんだ、と確信しました。

» 続きはこちらから

桜散るころに 〜 自宅での介護と看取りの体験(上)

 ねじれの医学でお馴染みのぴょんぴょん先生にお母様の自宅介護と看取り体験のエッセイを寄稿していただきました。
 2回に分けて掲載しますが(上)は、2007年の春先に突如始まった自宅介護の様子です。医師であるぴょんぴょん先生であれば、介護もスムーズだったのかと思いきや…。厳しい現実の中で得られた深い学びが書かれています。
 子育て同様に、しっかり向き合うことで得られる学びは尊いものだと思います。その学びが得られるかどうかの分水嶺は、"時間は、もうそれほど長くないのかもしれない"という自覚と共に、本質的なところで日々生き切れるかどうかでしょうか。
(編集長)
————————————————————————
桜散るころに(上)

pixabay[CC0]


生霊となって訴えに来たある祖父のお話


10年くらい前に聞いた話です。
うろ覚えですが、内容はほぼこんな感じでした。

 夜中に目覚めると、誰かが夢枕に立っています。誰なのかはわかりませんが、じーっとこちらを見ています。よく見ると、体にたくさんのヒモがからまって、苦しそうにしています。

 後日、祖父を見舞いに病院に行った時、それが祖父であったことに気づき、呆然としたそうです。たくさんのヒモとは、体につなげられているたくさんの延命チューブでした。

「そういうのを生霊と言うんです」と、教わった記憶があります。

長く生かすためにお金も人手もかけて、良かれと思ってなされていることが、本人には拷問でしかありませんでした。やさしい孫娘なら、この苦しみをわかってくれると思ったのでしょうか。生霊にでもならないと、自由に動けない。こんなふうに人生の最期を過ごしたいとは、誰も思わないでしょう。




突然始まった母の介護


桜が散るころになると、そろそろ母の命日、5月30日が近いなと思い出します。
以前書いたこともあるように、母は20年近く、慢性関節リウマチを患っていました。そんな母と私は二人暮らしをしていました。

2007年3月初め頃から、母は風邪をこじらせたことがきっかけで、自力で回復できない状態になりました。母の希望で入院はさせず、自宅で看ていました。午前中は手伝いの人に来てもらい、それ以外の時間は母の介護に追われて、今になってみると何が大変だったのかも、よく思い出せないくらい、いっぱいいっぱいでした。

4月の初め頃だったか、真夜中に突然、トイレから叫び声が聞こえました。母が便座から立ち上がろうとして立ち上がれず、床にしゃがみこんでしまっていたのです。それまでは自力で歩けたのが、突然足に力が入らなくなってしまいました。どんなに力を振り絞っても、私の腕力では人を立たせることはできません。しかもこんな真夜中、誰も助けてくれる人はいません。

幸いセコムに入っていましたので、セコムを呼び出しました。元気そうな若い男性が玄関に現れたときは、ホッとしました。若い男性にトイレで抱えられるのは、母も恥ずかしかったと思いますが、彼は母をらくらくと立ち上がらせ、ベッドまで連れて行ってくれました。

以降、母は立って歩けなくなりました。昼は椅子に座り、トイレの往復は車いすで、夜は完全におむつの生活に切り替わったのです。


写真AC[CC0]


気力、体力の限界を超える自宅での介護の日々


こうなってしまうと、何かあった時に、私一人では手に負えません。不安な日々でした。

5月の中頃、亡くなる2週間前くらいだったと思います。おむつからあふれるほどの、大量の下痢と悪戦苦闘したのは。それも夜中に限って。排毒だから良しとすべきなのかと思いましたが、その後の洗濯物には参りました。それが1週間くらい、連日続いたように記憶しています。

後から考えると、体を離れる前の準備で、ゴミを捨て去って、きれいにしていたのだと思います。後の話に出てくる友人の母も、そうだったと聞きました。

ある日イライラして、母に八つ当たりしました。「もう、甘えてるからできないのよ。こんなこともできなかったら、施設に入ってもらうしかないんだから」と言うと、母は小さな声で、「甘えてない・・施設には行きたくない」とつぶやきました。

母の気持ちは、私も重々承知の上のことでしたが、先が全く見えないために、こんなひどい言葉が出てしまいました。夜は母に呼ばれる。おむつの交換、外にもれているときは、シーツの交換など、体力の限界を超えていました。

それから数日後、夢を見ました。今もハッキリと思い出せるくらい鮮明な夢でした。私は由布山の見えるカフェで、一人お茶を飲んでいました。「ああ、もう母はいない。一人なんだなあ」と思いながら。目覚めてハッとしました。母との時間は、もうそれほど長くないのかもしれない。

その日の昼に、母にあやまりました。「こないだは、ごめんね。ひどいことを言った」と言うと母は、「私は許すの。何でも許すの」それだけが返ってきたことばでした。

(下)につづく… 

Writer

ぴょんぴょんDr.

白木 るい子(ぴょんぴょん先生)

1955年、大阪生まれ。うお座。
幼少期から学生時代を東京で過ごす。1979年東京女子医大卒業。
1985年、大分県別府市に移住。
1988年、別府市で、はくちょう会クリニックを開業。
以後26年半、主に漢方診療に携わった。
2014年11月末、クリニック閉院。
現在、豊後高田市で、田舎暮らしをエンジョイしている。
体癖7-3。エニアグラム4番(芸術家)

東洋医学セミナー受講者の声