「万引き家族」是枝監督インタビュー 〜 「内向き志向の日本で、言うべきことを言い続ける」この言葉に対して、マスメディアはどう応えるだろう

 以前に、読者の方々から「万引き家族」についての記事を投稿いただきました。
カンヌ映画祭で最高賞パルムドールを受賞した日本人是枝監督に対して、不思議なことに日本政府からは「おめでとう」の一言もないという記事、また是枝監督が文化庁から受けていた映画制作の助成金を巡っての記事でした。
 これらをどのように取り上げようかと考えていたところ、一連の流れへの回答に繋がる、是枝監督のインタビュー記事を見ました。是枝監督は、これまで作品以外の様々な質問にも真摯に気さくに答えようとされ、誤解を恐れず語りかけてこられます。それらの答えから、あらためて映画に込められた思いが見えてきます。
 政治的な思想信条で語る「大きな物語」ではない、小さな子に向けて語るように作る「小さな物語」が映画の多様性、文化の多様性を生み出すのではないか。そして、多様な「小さな物語」を発信することは、どんなに否定しても政治性と無関係ではいられない、そのような恐らく昔の映画監督ならば言わずと持っていた矜持が見えるのです。
 メディアはこうした熱い思いを右から左に流すだけでなく、深く豊かに耕しながら擁護し、文化を育てる義務があるのではないかなあと思います。
(まのじ)

注)以下、文中の赤字・太字はシャンティ・フーラによるものです。

————————————————————————

「万引き家族」を巡るニュースやコメント



 記事の一つは、日本人がカンヌ映画祭の最高賞を受賞したにもかかわらず、日本政府、いや安倍首相が「おめでとう」の言葉もなく無視している、というものでした。

 その後、批判が強まり、遅ればせながら林文科相が祝意を示したいと述べたことに対し、是枝監督が祝意への辞退を表明した記事がありました

 さらに、それがきっかけで「国から補助金を受けて制作したのに、辞退するとは失礼」という、主にネット上での非難が起こりました。このような意見に対して、映画と補助金、日本の文化育成の問題など、元々の作品への感想に加えて、様々な意見が飛び交いました。
 一つの作品が、これほど多くの問題提起をしてしまうのも珍しいことでした。

日本政府が無視したかったのは、日本政府の冷たさ


 作品自体は、素直に映画を観る喜びがありました
達者な俳優陣が、言葉以上の思いや背景を伝えてくれます。

 ここに描かれた、実際には有り得ない奇跡のような「家族たち」の清らかさは、是枝監督のメッセージそのものでした。日本が失ってしまったものをリアルに、言葉によらず感じさせ、同時に、なぜ、この大切なものを日本は失ってしまったのかを自らに問わざるを得ない、奥行きのある鋭い作品です

「なぜ失ってしまったのか」の答えは一つではなく、もちろん「安倍政権」は答えの一つに過ぎないのでしょう。
しかし、しかし、安倍政権は、この映画で描かれる日本を無視したかった。
作品の受賞を祝うなど、したくなかった
それはとりも直さず、国に責任があることを知っていたからでしょう
正直でよろしい。






不幸な日本の映画界〜映画監督は食えない職業


 ところで是枝監督は、今を遡る2016年末に「映画監督は食えない職業」として、日本映画界の抱える経済的な問題について述べています
 
 韓国では興行収入の2割以上は監督など作り手に渡るそうで、例えば10億円の興行収入の場合、2億4000万円が監督たち製作者に渡されます。その資金は、次の制作に当てることができます。

しかし日本の場合は、収入は全部、劇場、配給会社、出資者で配分され、監督には配分が無いのだそうです

 今回の「万引き家族」には文化庁から(わずか)2000万円の助成金が出ていたようです。
シロウト目には、たったこれだけ?という金額ですが、謙虚な監督は、自身のブログで「今回の『万引き家族』は文化庁の助成金を頂いております。ありがとうございます。助かりました。」と述べておられます。続いて「しかし、日本の映画産業の規模を考えるとまだまだ映画文化振興の為の予算は少ないです」とも率直に書いてあります。

ネット上で罵声を受けるべきは、助成金を受けた監督ではなく、国の方ではないかしら。

国の祝意を辞退した理由は、過去の反省から


 さて、林文科相からの祝意を辞退したということに関して、是枝監督は「映画がかつて、「国益」や「国策」と一体化し、大きな不幸を招いた過去の反省に立つならば、大げさなようですがこのような「平時」においても公権力(それが保守でもリベラルでも)とは潔く距離を保つというのが正しい振る舞いなのではないかと考えています。」と書いておられます。

そもそもこの作品は、安倍政権批判のために作られたものではなく、作品から政治的なメッセージを引き出そうとするのでは、寂しい鑑賞になります。けれども同時に、何ごとも政治と無関係ではありえないこともまた事実で、監督は、特にメディア(映像や放送)は権力であるという認識を持つべきだとも訴えています。「昔は裏で行われていた権力の介入が、表立って行われるようになり、」政権があからさまにメディアを規制し、利用している現状を知る監督が、政権との距離に厳しい姿勢を保っておられることは一貫性があります

第4の権力であるメディアの責任


 是枝監督のインタビューの中で、とりわけ印象的だったのが、報道、マスメディアに対する意見です。
記者の中には、監督から安倍政権への批判のコメントを引き出そうと、しつこく質問する人があったようですが、しかし記者自らは政権批判はしようとしない。映画界への提言にしても、監督から批判を引き出そうとはするけれども、記者自ら取材して自らの言葉で発信していくことはない、メディアが責任を果たしていないもどかしさを語っています。

本来ならば、制作する監督が言う前に、第4の権力であるマスメディアが「韓国の大統領などは『カネは出すが口は出さない』と宣言している。『出させて文句を言わせない』ことが文化の成熟、文化の独立だ」と書くべきでした
メディアが国家権力と対峙することなく取り込まれてしまった時、その国の文化も殺してしまいます。


『人間なんてどうでもいいや』という作品は作ったことがないし、作りたくない


 辛い救いのないような「万引き家族」の中で、心に残るのが、絵本「スイミー」でした。
少年が「スイミー」を父に語るシーンは、絶望していないよ、という希望を感じさせます。言葉にならない、か細い光の絆を見せてくれたシーンでした。


————————————————————————
是枝監督の「非常な危機感」―― “内向き日本”に多様性はあるか
引用元)
(前略)
内向き志向の日本で、言うべきことを言い続ける

「映画界に提言してくれる人が他にいるんだったらやってほしいくらい。それこそ、取材に来る記者にはずっと言っている。けれど記者たちは『いや、僕らの言葉じゃなくて、監督の言葉で書かないと説得力が……』と。これは映画をめぐるジャーナリズムの責任だと思いますよ。日本アカデミー賞がどうしてなかなか改善されないのか、助成のシステムをどうすべきなのか。僕も言いますけど、本来的には映画をめぐる言語空間が貧弱だから、そうなっている」

(マスメディアは)書いてくれることと、書いてくれないことがある。カンヌの映画祭でも、なかなか日本の記者の方たちは、基本的には日本映画のことしか書かない。自分で外国の監督や俳優にアポイントを取って、取材して、その記事を開催中に新聞に載せた例は、僕の知る限り、今年は一つもない。韓国や中国だってやっているライブレポートもできていない。そういうことに、非常に危機感を持っているわけ。現地に取材に行く人間もどんどん減っているし。たぶん、非常に内向きなんです。オリンピックと一緒です。日本人が金メダルを取った競技は見るけど、そうじゃない競技には興味がない、と」
(以下略)

Comments are closed.