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ユダヤ問題のポイント(近・現代編) ― 外伝8 ― 乗っ取られたイギリス(下)
ウィリアム3世からハノーヴァー朝へ ~恣意的な英王朝の変遷
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イギリス議会の要請で、オランダ・オレンジ家のウィレム3世が英国に上陸し、英国王ジェームズ2世は亡命の身となります。ウィレム3世はジェームズ2世の娘メアリと既に政略結婚しており、メアリ2世と共にイギリスを共同統治します。これが名誉革命とされています。
ウィレム3世がウィリアム3世として即位した5年後の1694年に、「国家に貸し付けを行う」世界最初の近代中央銀行とされる「イングランド銀行」(「イングランド銀行」は非常に重要なのでそれ単体を別枠で見ていくつもりです。)が設立されたのです。
この英国革命を経て、イングランド銀行設立に大きく関わったウィリアム3世ですが、メアリ2世との間に子供はなく、英国王位は、メアリ2世の妹のアンに継承されます。
しかしアンにも王位継承者の子息はなく、アンの死去と共にスチュアート朝は断絶です。スチュアート朝断絶には1701年ウィリアム3世時に制定された王位継承法が大きく関係しています。
この王位継承法により、アンの王位を継承する候補者が次々に王位の権利を失い、必然的な形で外国ドイツのハノーヴァー選帝侯ゲオルク・ルートヴィヒが国王として迎えられます。彼は選帝侯を兼ねたまま英国王ジョージ1世となったのです。
「ジョージ1世は英語をほとんど解せず、しかもロンドンに馴染まずにハノーヴァーに滞在することが多かった。イギリス国政に関与することが少なかったので、イギリスの政党政治が定着し、責任内閣制の原則が確立していった。」(「世界史の窓」)とのことです。
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こうやって、どう見てもかなり恣意的な形で開始されたハノーヴァー朝、それが現在にまでそのまま至っているのです。
途中、1901年から王朝名をサックス=ゴバーグ=ゴータ朝にしましたが中身は同じです。そして現在の王朝名はウィンザー朝ですが、1917年に第一次世界大戦が始まり、ドイツの王朝名はまずいということでウィンザー朝と名乗っただけで、中身はやはり同じなのです。
ハノーヴァー家について重要なポイントはウィキペディアの「ウィンザー朝」の記事で冒頭記されているように、ハノーヴァー家はゲルフ家に繋がっている点です。この点はジョン・コールマン博士も幾度も指摘しています。『300人委員会』の最後部分で次のよう記す通りです。
「「ウィンザー家」の実態はゲルフ家であり、ヴェネチアの黒い貴族のなかでももっとも古い名門の一つだ。ヴィクトリア女王の血統は、直接ゲルフ家までさかのぼることができる。」
婚姻血縁関係で繋がる欧州王家 ~黒い貴族の欧州王家リスト
英国王になったオレンジ家のウィリアム3世が端緒となって、英国にハノーヴァー朝が成立したとも言い得るのですが、このハノーヴァー朝とオレンジ家の繋がりの強さはウィレム4世(オラニエ公)と検索されれば確認出来るでしょう。
ウィレム4世の妻は英国王兼ハノーヴァー選帝侯ジョージ2世の長女アンなのです。
また他方ウィレム4世の母はヘッセン=カッセル方伯の娘だということも確認できるでしょう。
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1789年時点の神聖ローマ帝国。ハプスブルク君主国(茶色)とプロイセン王国(青)が過半を占め、その他の中小領邦国家を取りまいている。
編集者註:
■1648年のウェストファリア条約(三十年戦争という最後にして最大の宗教戦争の講和条約)によって、神聖ローマ帝国は実質的に解体。裁判権や通貨発行権などを持っていた約300の領邦は、それぞれ独立した主権国家に分裂することとなった。
つまり、この条約以降は、領邦国家の“寄せ集め”が神聖ローマ帝国ということ。
つまり、この条約以降は、領邦国家の“寄せ集め”が神聖ローマ帝国ということ。
■選帝侯とは、神聖ローマ皇帝の選挙権を持つ有力諸侯のこと。元々は7選帝侯によって皇帝は選出されていたが、1438年以降一時期を除き、ハプスブルク家が帝位を独占することになった。
ウェストファリア条約以降、選帝侯に昇格したのが、ハノーヴァー家(1692年)やヘッセン家(1803年)。いわば特権階級になったということ。
ウェストファリア条約以降、選帝侯に昇格したのが、ハノーヴァー家(1692年)やヘッセン家(1803年)。いわば特権階級になったということ。
■神聖ローマ帝国はナポレオン戦争により1806年に消滅。1871年にプロイセン王国が中心となり、ドイツ帝国として統一される。
■かつての神聖ローマ帝国を第一帝国、ドイツ帝国を第二帝国、そしてヒトラーのナチス・ドイツを第三帝国と呼ぶこともある。
ヘッセン家とはドイツの非常に有力な貴族です。婚姻血縁関係からオレンジ家とヘッセン家は一体に近いと言えるほど結び付きが強く、ヘッセン家はハノーヴァー朝とも当然ながら繋がっています。ヴィルヘルム1世(ヘッセン選帝侯)で検索されれば「イギリス王兼ハノーファー選帝侯ジョージ2世の王女メアリーの息子」とある通りです。
またヴィルヘルム1世の注目点は、彼がロスチャイルド家が躍進していった元にあったところです。ヴィルヘルム1世の莫大な資産がロスチャイルド初代マイヤー・アムシェルによって運営され、これを始まりとしてロスチャイルド家は巨大財閥に成長していったのです。
さて、王室関係に話しを戻しますと、オレンジ家にしろヘッセン家にしても、ハノーヴァー家の本体ともいえるであろうゲルフ家と元々から繋がっていたとの複数の情報があります。繋がっているとは血縁関係があるということで、これは欧州の王家や貴族では当然のことなのです。
ちなみに、オラニエ(オラニエとオレンジは同意味)公ウィレムの始祖オラニエ公ウィレム1世は「サクソニー家のアン、ブルボン家のシャルロット、コリニー家の王女ら」4人の妻があり、彼の血流が多くの欧州王室に流れ込んでいることが確認できます。
ジョン・コールマン博士はこれら「黒い貴族」の欧州王家をリストアップしています。ここにリストアップされた「黒い貴族」に連なる欧州王家、それに欧州の有力貴族の面々それぞれが、古くから婚姻・血縁関係で結び付いていると見るべきでしょう。
「王家の血流」 ~ゲルフ家よりオレンジ家が上位に立つ理由
オランダ(ネーデルランド)はスペインから独立した新興国で、実質の初代国王(総督)がオラニエ公ウィレム1世です。
「世界史の窓」の彼に関わる記事を読むと、英国では「清教徒」と呼ばれるカルヴァン派とウィレム1世は切っても切れない仲であることが分かります。
ウィレム1世はスペインへの反乱軍を指揮し国主の座に就くのですが、その反乱軍とは「カルヴァン派の貴族で亡命して軍事活動を始めた連中のことを「海乞食」といい、彼らがオランダ独立戦争の主力となっていく」わけです。
ハプスブルク家の弾圧に対し、国外に脱出したカルヴァン派貴族を中心として「海の乞食団(Watergeuzen)」が結成された。彼らはオラニエ公ウィレム1世の特許状を受け私掠行為を働き、また沿岸のカトリック教会の襲撃も行った。 pic.twitter.com/Dpg4JSLRT6
— Watanabe (@nabe1975) 2017年8月18日
また英国から亡命し、1620年アメリカ大陸に渡った清教徒たち、彼らはアメリカに渡る前にオレンジ家が治めるオランダに滞在していたのです。
英国の、特に下院議会が力をつけ英国革命が起こされた、いわばその源泉となっていたのが、英国に入り込んだ清教徒の存在です。その清教徒と深く結びついていたのがオレンジ家なのです。
従来の英国、そして英王室のあり方を転覆させた英国革命、その裏に確かにオレンジ家の存在があるのです。
こういった意味で、1600年代を通して「オランダ王家オレンジ家が英王家を乗っ取った」との見方が成立します。
もしくは、それを通して「黒い貴族の最古の名門ゲルフ家が英王室を乗っ取った」との見方も成立します。事実であり間違ってはいないでしょう。
ただし、ある重大な側面から見れば「英王室の乗っ取り」、その意味は大きく色合いが変わりもします。
その重大な側面とは「王家とはその血流である」との見方です。「王家の血流」、この見方からすれば「オレンジ家が英王室を乗っ取った」との見解は大きく揺らぎ、多くの検討を要してくるのです。
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この「王家の血流」は大変な問題で、今回はこれを扱うことはできません。何しろ「王家の血流」は「聖杯伝説」、そしてそれに繋がる「テンプル騎士団」の問題も絡んできていているのですから、相当な資料の収集と解読が必要になっているのです。
ただし「王家の血流」に関わるエピソードを一つだけ。
「裏のイルミナティ」組織がありました。竹下さんは、その地上におけるその最高位階は第15位階の「闇の女王」であり、その地位にいたのがユリアナ女王、つまりオレンジ家から輩出されていることを明かされています。
「300人委員会」の長エリザベス2世は第14位階とのことですから、オレンジ家が古き名門ゲルフ家より上の最高位階者を輩出したことになります。これはゲルフ家以上にオレンジ家が「王家の血流」をより濃く受け継いでいることを示しているでしょう。
いずれにしても、1600年代を通してイギリスは「悪魔崇拝の本拠地となった」と言っても差し支えないほどの悪魔崇拝の一大拠点へと変質して現在にまで至っていたわけです。英王室とその取り巻きが、麻薬貿易の中心であり、小児性愛の拠点ともなっている暴露記事が出てくるのはこういった背景があるのです。
それでは、題名の「乗っ取られたイギリス」ですが、誰にイギリスが乗っ取られたのか? ①に関して、イングランド銀行創設は、ウィリアム3世の特許認可もありますが、その主体はクロムウェルを雇ったマナセ・ベン・イズラエルに連なるアムステルダムの自称ユダヤの金融勢力でしょう。
それでは英国を追放されていた金融ユダヤ人がイギリスを乗っ取ったのか? これについては「それで間違ってはいないでしょう」という答えになると思います。
次の②に関して、オランダの王子が英国王になっているので、オランダ王室がイギリスを乗っ取ったのか?の見解もあるでしょう。それは「見方によっては間違ってはいないでしょう」という答えになりそうです。
少少曖昧な答えにならざるを得ないのは、イギリスと一口に言ってもその成り立ちは複雑で、地域はイングランド、スコットランド、ウェールズ、北アイルランドに分かれ、支配層民族もゲルマン民族の流入に、ノルマン人(バイキング)の征服と言った具合に変化しています。
この複雑さ故に「誰がイギリスを乗っ取ったのか?」の答えは一口で表されない面があるのです。
しかし正確な答えもあると見ています。それは「黒い貴族が乗っ取った」でもいいのですが、黒い貴族全体を「それは何か」をこれまで規定できていないので、より正確には「悪魔崇拝主義がイギリスを乗っ取った」です。
これが1600年代のイギリスに数々起きた重大な事柄の本質だと見ています。