ユダヤ問題のポイント(日本 明治編) ― 第34話 ― 後戻りできない道へ

1906年、日本の中国への進出をめぐり日本と米英は対立しています。すでに真珠湾への道が敷かれています。(『日米開戦の正体』p163)

孫崎享氏の指摘です。孫崎氏は「伊藤博文暗殺が日米開戦の遠因」との見解です。

 分水嶺という言葉があります。山の頂などで雨水など水の流れが別れる地点を指します。分水嶺を通過した水の流れはもう一定方向にしか進まず、後戻りや方向転換はできなくなります。孫崎氏の見解もそうですが、私も伊藤暗殺が分水嶺になっていたと見えます。泥沼の日中戦争、そして悲惨な太平洋戦争にまっしぐらに突き進む流れ、これが決してしまい、後戻りできなくなったのが伊藤暗殺と見えるのです。
 日本がそこに至っていく大きな流れは既にありました。少なくとも「一視同仁」の世界をつくるため1777年に客家系の華人によって蘭芳公司が建てられ、「四海同胞」の理想の下、日本から大量に流出した黄金が欧州にもたらされるようになった(2019/12/26竹下さん記事)時にはこの流れは既に発動していたでしょう。
 日本からの大量の黄金がフランス革命など世界革命に用いられ、世界潮流を発生させているので、日本がこの渦の中に巻き込まれるのは必然とも言えるのです。しかし伊藤暗殺までは、まだ日本は悲惨で泥沼の戦争にいたる流れに引き込まれるのを踏みとどまる余地はあったでしょう。
 さて、伊藤暗殺の黒幕には諸説あります。それを細かく見ていくと迷路になりますが、大きな視点でハイアラーキーの計画の上に伊藤暗殺があったと見るのが間違いのない見方だと思えます。日本を中心とするハルマゲドン計画の地上での推進の中核が結社八咫烏でしょう。玄洋社もその組織の一部です。
(seiryuu)
————————————————————————
ユダヤ問題のポイント(日本 明治編) ― 第34話 ― 後戻りできない道へ

「満洲問題に関する協議会」〜児玉を圧倒した伊藤


1906年5月22日、首相官邸において元老および閣僚たち、更に軍部の主立った者がすべて一堂に会します。「満洲問題に関する協議会が開かれたのです。この模様を孫崎享氏の『日米開戦の正体』から見ます。

p164 、この協議会は、日露戦争後に顕著になった満州を我が物にしようとする軍部の動きに懸念を持つ伊藤博文の要請によって開催されたものでした。一方この伊藤博文と対立、会議上でも満州を我が物にしようとの姿勢を見せたのが、長州閥の陸軍参謀総長児玉源太郎です。

p165、伊藤はこの児玉源太郎の主張に対し反論、その難詰は次のようなものでした。

満州方面における日本の権利は、講和条約によって露国から譲り受けたもの、即ち遼東半島租借地と鉄道の外には何物も無いのである。(中略)...商人なども仕切りに満州経営を説くけれども、満州は決して我国の属国では無い。純然たる清国領土の一部である。属地でも無い場所に、我が主権の行はるる道理はない。(『伊藤博文秘録』)

平成の松下村塾 [Public Domain]
平成の松下村塾 [Public Domain]
セリフはこちらを参考

また更に伊藤は、満洲に権益を拡大する動きには次の危険が内蔵していることを指摘。

①日本が独占的地位を占めようとすることに対する米英の反発
中国国内で必ず抵抗運動が出てくる。

この協議会で伊藤は児玉源太郎を圧倒、この結果この会議の席上、日本軍の満洲駐屯を排することになります。

これまで見てきたように、陸軍の児玉源太郎のバックには盟友の杉山茂丸がいたわけですが、彼らは海外拡大路線であって、満洲に対しては「閉鎖主義」、つまり日本以外の外国勢力を排除し、満洲の植民地化を進めようとする姿勢で動いており、満洲に日本の軍隊を駐屯させていたのです。

左が杉山茂丸、右が児玉源太郎

この「満州を我が物にしようとの姿勢」に伊藤は真っ向から反対したのです。満洲は清国の領土であって日本はその兵を撤退しなければいけないとの伊藤の主張は 、1905年の日露講和条約(ポーツマス条約)の内容骨子に「日露両国の軍隊は、鉄道警備隊を除いて満州から撤退する。」が入っており、至極当然でもっともなのです。


また伊藤は「日本が満州に権益を拡大する動きには、①日本が独占的地位を占めようとすることに対する米英の反発。②中国国内で必ず抵抗運動が出てくる。とその危険が内蔵していることを指摘」とありますが、この伊藤の懸念憂慮も当然だったのです。

そして不幸なことに、伊藤の懸念・憂慮がその後ことごとく現実化していくのは皆様のよく知るとおりです。


米英の猛抗議 〜日本の対満洲の二原則


伊藤が「満洲問題に関する協議会」開催を要請したのにはその前段があります。「満洲問題に関する協議会」開催の2ヶ月前の1906年の3月に満洲を巡って、日本政府そして韓国統監であった伊藤自身も英国と米国から激しい抗議を受けていたのです。

大正外交の基調--国際協調論と勢力範囲論(関 静雄)』によると、マクドナルド英国大使が伊藤韓国統監に送った密書の最後は次のようなものだったとします。

現在の日本政府の閉鎖政策は、これまで日本に「同情」して戦費を供給した英米等を全く「疎隔」する「自殺的政略」だと評して、伊藤統監の注意を喚起した。

同様の内容は『日米開戦の正体』p163にもあり、「米英両国は『日本は約束を破り、満州を独占しようとしていると』抗議」とあります。この米英両国の抗議ももっともでもあるのです。

日露戦争は、日本国内に玄洋社など日露戦争開戦を強く唱える勢力があったと同時に、国際的な意味では、日本は米英両国の後押しによって日露開戦となっています。(もちろんそのバックにはロスチャイルドの存在があり、日本はロスチャイルドから莫大な借金をしていますが。)

イギリスに背中を押されてロシアと闘う日本、背後で見守っているのはアメリカ。

1904年に開戦となった日露戦争は日本が当初連勝を重ねますが、翌年の1905年には日本は戦闘体力を失っていました。その日本がロシアとの講和を企図し、その仲介をとったのが米国でした。

大正外交の基調--国際協調論と勢力範囲論(関 静雄)』では、その冒頭に1905年1月に小村寿太郎外務大臣の訓令に従って高平小五郎駐米公使が、ルーズベルト大統領への申入れを執行し、その文中、日本政府の対満基本方針が「満州における領土保全主義と機会均等主義という二原則」であったとします。

そしてこの日本の満洲に対する「領土保全主義と機会均等主義」の二原則が、日本政府の一貫した対外方針であり、対外宣言であり、対外的約言であった。日英協約の前文しかり、日露交渉の目標しかり、日露戦争の目的またしかりである。さらに次に来る講和交渉もまた、この二原則に基づいて推進され、その結果として、この二つの主義に沿った講和が成立した。」と記しています。

ポーツマス会議の様子。手前左から3人目が小村寿太郎。
Wikimedia Commons [Public Domain]

1905年9月5日、米国の仲介役で調印された日露講和条約(ポーツマス条約には二原則のもと、
①日ロ両国は清国の主権を認め満洲から撤兵
と共に、
満洲においては各国平等の待遇を行うこと。
この条文が入っていた
のです。

日露講和条約では日本が満洲を我が物にする余地はなかったのです。つまり英米両国が日本の満洲を我が物にしようとする姿勢に強く抗議するのは当然だったと言えるのです。


外務大臣小村寿太郎の外交 〜小村外交のキーパーソン


日本の満洲政策と満鉄は切り離せず一体のものとなっていくのですが、満鉄もその初期段階では重大な岐路がありました。ウィキペディアの「桂・ハリマン協定」記事に以下のようにあります。

1905年10月、総理大臣桂太郎と「鉄道王」と呼ばれたアメリカ合衆国の企業家、エドワード・ヘンリー・ハリマンとの間に交換された覚書で、満鉄経営のためのシンジケート組織とその共同所有を約束した。しかし、ポーツマス講和会議から帰国した外務大臣小村寿太郎の強い反対により破棄された。小村による予備協定破棄については、満洲南部における日本の拠点を守った「英断」であったという見解もあれば、歴史的な「愚挙」であったという見解もある。

日本が満鉄の権利をロシアから獲得するとなるや、早々に日本とハリマン社が満鉄を共同経営する話が本決まりになりそうな流れとなり、桂首相とハリマンの間でその約束の覚書が交わされていたのです。

満鉄の権利を獲得したと言っても当時の日本は借金だらけのスッカラカンで、満鉄の経営能力が財政的にも無いと元老や大蔵官僚たちは見ていたのです。そこに満鉄共同経営の話をハリマン社が提案してきたのです。

桂太郎
平成の松下村塾
[Public Domain]
米国の鉄道王ハリマン
Wikimedia Commons
[Public Domain]

これに好意的に反応し乗ろうとしたのが元老の井上馨、財界の渋沢栄一などです。首相とハリマンの覚書も交わされたこの協定に強く反対し、協定を破棄させたのが「ポーツマス講和会議から帰国した外務大臣小村寿太郎ということです。

この協定の内容とその破棄については、多くの文字を費やしても評価が難しく、何とも言えない部分が多いので詳細は避けます。ただしハリマン社との協定を破棄したことで、日本は満鉄を通じて満洲の植民地化に邁進していくことになったのは確かでしょう。

この当時の一連の外交、つまり日英同盟・日露開戦外交・日露講和条約、そして桂・ハリマン協定とその破棄、この一連の外交に大きな役割を果たしたのが言うまでもなく小村外相でした。そして小村外交にはそのキーパーソンとなる人物がいました。山座円次郎です。

玄洋社の山座円次郎
Wikimedia Commons [Public Domain]

彼はウィキペディア記事で以下のようにあります。

小村外相のもとで、日英同盟締結、日露交渉、日露戦争開戦外交に関わり、日露戦争宣戦布告文を起草、日露ポーツマス講和会議に随員として出席するなど、小村外交の中心的役割を担った。小村が最も信頼する外交官であったとされる。

この山座円次郎もやはり玄洋社社員だったのです。『日米開戦の正体』p474で山座円次郎のエピソードが次のように記されています。

(日露戦争開戦問題で山座は)「伊藤さんをやっつけなければ、戦いを開くことは出来ない」と言い出し、これを聞いた伊藤博文は山座を呼び出した。刀を山座の前に突きつけ「そんな勇気があるなら、これで我輩を斬れ。」恐ろしい剣幕でこう言われた。



Writer

seiryuu様プロフィール

seiryuu

・兵庫県出身在住
・いちおう浄土真宗の住職
・体癖はたぶん7-2。(自分の体癖判定が最も難しかった。)
・基本、暇人。(したくないことはしない。)
・特徴、酒飲み。アルコールには強い。
・歯が32本全て生えそろっている(親不知全て)原始人並み。

これまでのseiryuu氏の寄稿記事はこちら


Comments are closed.